ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

雪かき

2018-01-31 12:49:00 | 日記

高齢化社会と少子化社会は、確実に世の中を荒廃させるのだと痛感した。

先週のことだが、関東地方、特に東京では4年ぶりの大雪であった。月曜日であったが、どこの会社でも早めの帰宅を促したせいか、夕刻の渋谷駅はホームに入場規制がかかるほどの大混雑であった。いつもの二倍半の時間をかけて帰宅すると、自宅の周辺は積雪20センチの雪景色であった。

まずは夕食をとり少し寛いだ後、外を見ると既に雪は止みかけていた。そこで身支度を整えて、スコップを片手に雪かきを始めた。久しぶりの雪かきだ。

4年前の大雪の時は、長野からの帰途に中央高速通行止めで甲府に足止めされ、帰京した時には自宅周辺は既に雪かきがされていた。仕方ないこととはいえ、少し気が咎めていたので、今回は率先して深夜に雪かきを始めた訳だ。

以前は誰かが雪かきを始めると、近所の方が出てきて手伝ってくれたものだが、さすがにこの時間は誰も出てこなかった。新雪なので雪かきも楽だが、如何せん量が多過ぎる。人一人、ようやく通れる程度の雪かきで済ませて、部屋に戻り一風呂浴びて寝てしまう。

翌日は快晴で、これなら雪も溶けるだろうと思いつつ、この日は一日中車で外回り。幹線道路は既に除雪されているが、肝心の首都高が通行止め。止む無く幹線道路を使い顧客回りである。

夜半、帰宅して驚いた。自宅周辺の雪かきがあまり進んでいない。考えてみれば、私の住む公団住宅は高齢化が進み、以前は率先して雪かきをしていたSさんは既に杖が必要なので無理だ。他数名も最近は顔もみかけない。もしかしたら入院とか、どこかの施設に入っているのかもしれない。

でも数件、若い家族も転居してきているはず。でも、隣の若夫婦は旦那はいつも深夜帰宅で、奥さんは小さなお子さんにかかりきり。後2軒は自治会に入る、入らないで揉めた連中なので期待薄だ。

仕方ないので、着替えもせず、スコップを片手に雪かきを再開することにした。途中、杖をついたSさんが出てきたが、危なっかしいので戻ってもらう。あれじゃ無理だよ。

明日からは気温が下がるはずなので、凍結する前になるべく除雪しておきたいものだ。そう思い、せっせと雪かきに励む。ふと足音が聞こえたので振り返ると、件の自治会拒否のAさんが雪かきした道を歩いてきたよ。

こいつ、私と目が合った途端に、目を逸らしやがった。無言で通り過ぎていく背中を見ながら、情けない野郎だと吐き捨てる。お前が歩いてきた除雪した道の雪をどかしたスコップは、お前が無駄な存在だと言った自治会で買ったものだよ。まァ、気にしても仕方ないで、そのまま雪かきをすすめ、一通り終えると帰宅した。

翌朝、東京では滅多にない氷点下であり、雪はカチカチに凍結していた。まだまだ雪は残っているが、この気温だと溶けるのは当分先だと思う。その日夜、少し早めに帰宅したのだが、よくよく見渡すと、雪かきがされていない道がけっこう多い。

特に5年ほど前に新築された高層団地の周辺がひどい。ここは新築だけに、若い居住者が多いはずなのだが、呆れたことに高齢者が多い私の公団住宅よりも除雪がされていない。

引っ越してきたばかりで、地域とのつながりが薄いのは分かるが、これはヒドイ。歩道と、駐輪場、駐車場の一部が除雪されているだけだ。見ている傍から、転唐キる親子連れがいる始末である。

ここ数日の低温で、残った雪は凍結して簡単には取り除けない。初めのうちに雪かきしておけば、こんな惨状にはならずに済んだはず。これが、高齢化と少子化を迎えた社会の一面なのだろう。

地域社会のつながりが希薄となり、雪かき程度の貢献が出来ない。それが結局は自分たちの首を絞める現実には目を背け、安楽な生活に逃げ込みたいのだろう。

雪が拡がった光景は一見美しいが、その美しさの裏にある、荒廃した日本の未来が見えてくるようで、私は不安で仕方ありませんね。

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週末のお楽しみ

2018-01-30 12:32:00 | 日記

日頃、あまりTVを観ない私だが、不用と思っている訳ではない。

主に週末だが、CS放送を集中的に視ている。特に注目しているのは、BBCとCNN、CBSの報道番組だ。別に欧米のマスメディアが日本よりも優秀だと上げへつらう気はない。

トランプ大統領が散々不満を漏らしているように、欧米のマスメディアだってかなり偏向しているのは分かっている。だが、日本のマスコミとの視点というか、視座の違いが興味深いと思い、なるべく視るようにしている。

当たり前のことだが、BBCならば英国の視聴者を対象にした番組作りになるし、CNNやCBSならばアメリカである。だから、日本のニュースとは、まるで関係ないものに多くの時間が割かれる。

だが、それだけでも欧米が何に関心を持っているかが分かる。国内ニュースはいざしらず、私が注意して視るようにしているのが国際ニュースである。当然ではあるが、やはり日本とは視座が異なる。

そのなかでも、日本ではほとんど報じられないが、欧米では強く関心を持たれているニュースが気になる。以下順不同ではあるが、紹介したい。

1 サウジアラビア主導のアラブ諸国によるカタール封鎖。

2 トルコのエルドアン大統領の動向

3 ウクライナ及びバルト三国とロシアの動向

4 アフリカにおける中国企業の活躍

まず4だが、これは所謂企業広告報道的なものだと思う。トランプはいざ知らず、グローバリズムを推進させることを目論む方々にとって、中国の経済成長は投資の呼び水であり、世界経済を推進させていく大きな流れと設定しているがゆえの報道だと想像できる。

ちなみに、当のアフリカの現地の人々からは、中国企業はきわめて悪評が高い。なにせ、人も物もすべて中国から持ち込み、現地に金を落さない。太陽光発電設備もインターネット送受信網設備も、すべて中国企業の管理下にあるため、人材育成にもならない。

でも、そのような視点からの報道にはあまり積極的ではないようだ。もっともニュースでは取り上げていなかったが、CBSのドキュメンタリー番組では取り上げている辺りが、マスコミとしての良心の顕れなのだろう。

1と2は、相互に関係が深いので、また改めて近日中に取り上げたい。

で、3なのだが、これは拙ブログでも一度取り上げているが、かつてのソ連圏の奪還を目指すロシアが本気であることを、既に欧州の人たちは意識しているようだ。日本にとって関係ないと言いたいところだが、アメリカの干渉を防ぐため、ロシアが北朝鮮を支援して危機を煽っていると私は推測しているので、無関心ではいられない。

毎週、やっている訳ではないのだが、日本の視点を離れて、欧米の視点から世界情勢を俯瞰することも有益だと考えています。まァ、無用なニュースも多いのも確かなんですけどね。

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松坂の中日入り

2018-01-29 12:20:00 | スポーツ

平成の怪物と云われた松坂が、今期は中日の選手として契約したらしい。

この三年間、ソフトバンクでの一軍出場は一試合のみ。それも、決して芳しい結果ではなかった。年齢も37であり、引退してコーチ就任を打診したソフトバンクのほうがまともな判断だと思う。

しかし、高校野球でのノーヒットノーラン、西武での毎年の二桁勝利、そしてアメリカでの活躍。なによりWBCでの熱闘と栄光に飾られた彼の野球人生が、このまま消え去ることを許せなかったのであろう。

だが世間の評価は厳しい。なんといっても、この三年あまり実績が乏しい、乏し過ぎる。せいぜい最近、人気が落ちている中日の客寄せパンダだろうとの評が一番多いように思う。

実際、中日フロントはその程度の話題で満足なのかもしれない。即戦力として期待するには、あまりに不安要素が多過ぎるのもネックだ。

私は何度か、松坂の投球を生で観戦している。オープン戦ではあるが、ネット裏から見たこともある。唸る剛球というか、重さと速さ、切れを併せ持つ稀有な球を投げるピッチャーだと思っていた。

ただ、けっこう打たれるピッチャーでもある。理由は簡単で、強打者相手にかわす投球をしないからだ。特にホームランバッター相手だと、真っ向勝負を挑む傾向が強い。西武時代、監督やコーチ、キャッチャーから何度か厳しく指導されていたはずだが、アメリカに行ってもこの勝負したがる癖は、なかなかに抜けなかった。

それが魅力のピッチャ―であることも確かだ。凄まじく強靭なプライドの持ち主なのだろうと思っていた。二十代の頃の松坂は、ピッチングがノルと、どうしようもない投手であったと思う。

しかし、その強烈な自負の強さが危ういとも思っていた。どんな名投手も、年齢による衰えから逃れることは出来ない。また怪我による衰えの危険性もある。松坂のピッチャーとしての矜持が、その投球の幅を狭めているのではないかと危ぶんでいた。

案の定、アメリカで怪我をしてから、その投球は第一線で通用するものではなくなっていた。剛速球投手としてのプライドが、彼を一軍から追いやった。

もちろん松坂も相当な努力をしていたはずだ。二十代の頃よりも一回り大きくなった身体は、トレーニングの成果であろう。ただ、身体の切れを失っていた。走り込みの量が足りず、明らかに太り過ぎであった。

だから日本球界に復帰して、二軍の試合に登場しても、かつての実力は発揮できず、その勝負癖も抜けず、散々打たれる始末であった。だから、ソフトバンクでの一軍での投球は、わずかに一試合のみ。

でも、少し彼を擁護するならば、ソフトバンクは現在プロ球団屈指の投手陣を誇る強豪である。特に若手に良い投手が揃っている。既に衰えのみえた松坂にチャンスは少なかったはずだ。

云っちゃ悪いが、ソフトバンクでは無理でも、中日の投手陣のなかになら割って入ることは可能かもしれない。かつては中日も、分厚い層を誇る投手王国であった時代もあったのだが、近年その面影はない。(岩瀬、どうするの?)

おそらく、中日が最後の球団になる可能性は高い。決して松坂を侮辱する気はないが、彼の最後の投球は、全力で投げて、それを打たれてのの引退決意である気がする。いや、そうあって欲しい。

勝負の世界は、ある意味残酷な世界でもある。しっかりと体を作って、見事な散りざまを見せて欲しいと思います。

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里芋

2018-01-26 12:03:00 | 健康・病気・薬・食事

面倒だと思い込んでいたことが、今にして思うと愚かしい。

食べ物に好き嫌いのない私なのだが、作るのが面倒だと思うと、まずその食材は買わない。

その典型的な一例が、里芋であった。要するに皮むきが面倒に思っていたからだ。実際、子供の頃、台所で母の料理の手伝いで、里芋の皮むきをしたことがある。

その際、ツルツルと滑る里芋に、えらく苦労した記憶があり、以来自分で作ることは滅多にしなくなった。もちろん、里芋を使った料理は好きである。特に煮っ転がしは好物の一つなのだが、母が作ってくれたもので十分であった。

また居酒屋などでメニューにあれば、たまに頼む程度で,ここ数年は酒を飲む機会を減らしていたので、里芋とは縁遠くなっていた。

ところで、母が亡くなってからの正月は、お節料理も食べなくなっていた。デパートなどで売られているお節料理は量が多すぎるし、味が濃すぎて私には合わない。でも、正月気分を味わいたいので、お雑煮だけは自分で作っていた。

我が家では子供の頃から、関東風のお雑煮が定番であった。ところが母が戦時中の疎開先であった四日市の高校の同窓会に参加したあたりから、関西風の白だしのお雑煮を作るようになった。

これは結構、私の好みに合ったので、母が亡くなる数年前は、いつもこの関西風のお雑煮を食べていた。長年食べ続けた母の料理の味も、時の経過と共に忘れつつある。

だから最近は、手の空いた時に思い出しながら、母の料理を自ら試行錯誤しながら作っている。この関西風お雑煮も、その一つ。ただし、あくまで母視点での関西風なので、厳密には違うはず。でも自己流は私もよくやる。

ベースは白だしなのだが、鶏肉、ニンジン、インゲン、ゴボウ、シイタケの他に里芋を入れていたはず。そこで、数十年ぶりで里芋の皮むきをやってみた。

驚いたことに、子供の頃の記憶とは裏腹に、わりと簡単に皮むきができた。考えてみれば、不器用な私でも数十年料理をやっていれば、包丁の扱いも多少は上手くなっていたのだろう。

ただ、面棟Lがりというか、手抜きをしたがる悪癖は治るどころか悪化している。ネットで里芋の料理方法の簡単な奴を探し出して、可能な限り楽な方法で料理している。

里芋の煮っ転がしなんざ、皮をむいた里芋を10分ほど沸騰したお湯にぶっこみ、酒と麺つゆを合わせた汁で軽く表面を炒めただけの手抜き料理。でも、それなりに美味しいから、まァいいや。

もちろん母は、もっと丁寧に料理していましたけど、私としてはこれで十分。この冬は冷蔵庫に里芋が常備してあるほど気に入っております。

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夏草の記憶 トマス・H・クック

2018-01-25 12:20:00 | 

この本を読むのに、これほど時間がかかるとは思わなかった。

時間がかかったのは、この本を読み進める度に、懐かしくも嫌な思い出が甦るからだ。

多少個人差はあるとは思うが、人の人生のなかで最も恥ずかしく思い出される時期があるとしたら、それは十代前半ではないかと思う。思春期に入り、身体が成長し、子供のままではいられなくなる時期でもある。

そして自意識が肥大化し、そのことを自覚できずに周囲との軋轢を生み出す時期でもある。そして何よりも異性への関心が高まり、独りよがりな恋情に身を焦がす時期でもある。

思い出すだけで、自分の愚かさに身をよじりたくなるほど恥ずかしい時期でもある。あァ、厭だ。もし、人生をやり直せるとしたら、まず一番にこの時期の自分をぶん殴りたい。本気でそう思う。

そんな私の恥ずかしい記憶を呼び起こしてしまったのが表題の作品である。

郷里で妻と娘に囲まれながら、診療所の医師として近隣の尊敬を集める主人公が抱えた心の闇。その真相はページをめくるごとに、少しずつ、少しずつ姿を現してくる。

しかし最後に露呈する真実に読者は驚愕するしかない。

トマス・H・ハリスの記憶三部作のなかでも最も重く、最もキツイ作品ではないかと思う。それにしても、たかだか3百ページあまりの本を読むのに三週間かかるとは、自分でも呆れてしまいます。

多分、この本は再読しないと思うけど、決して忘れることはないとも思います。

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