ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ポツダム宣言知らず

2015-05-29 16:38:00 | 社会・政治・一般

私は10代の頃、左翼活動に少し関わっていたので、ほぼ確信しているが、ほとんどの左翼の人たちはマルクスを読んでいなかった。

小学生の頃、キリスト教の小学生担当のシスターさんたちから誘われて、毛語録の読書会に参加していたが、あの分厚い「資本論」を最後まで読んでいた人は皆無であった。かろうじて、「共産党宣言」を読んでいる程度であったと思う。

子供心に不思議に思っていたが、中学に入り自分で「資本論」を読みだして納得した。こんなくどい文章、長く読んでなんていられない。では、当時の若者たちは、なにを根拠に左翼としての自覚を持つようになったのか。

それは演説であった。私もいくつかの集会や勉強会などに参加したが、そこで語られる貧しき者へ寄せる正義の想いと、不平等な世の中を支配する者への怒りが、私の胸に染み入ったことは今も明確に覚えている。

あの演説と、そこでの熱い想いが共有されたかのような錯覚が、私を左翼運動に引きつけた。私は幼いながらも、自分は社会主義者であると自覚していたものだ。ただ、そこに明確な思想とか定義はなかったように思う。あったのは、あの情熱迸る熱い想いへの共感だけであった。

そんな私でも不思議に思うことはあった。当時は既に70年の安保闘争が敗北に終わり、その挫折とやり切れぬ思いが、内ゲバといった形で凄惨な内輪もめが起きていた。

私には、同じ熱い想いを共有するはずの同志が、なぜに相争うのか、それが理解できなかった。安保闘争に失敗したのは何故なのか。そもそも日米安全保障条約のどこが問題なのか。そこを明らかにせねば、安保廃棄後の日本の青写真が描けないのではないか。

その疑問を口にすると、還ってきたのは冷たい蔑視であった。「帝国主義者との条約なんて、それ自体が間違っているのだから、それに反対するのは自明の理だぞ」と言い放たれた。そして「安保廃棄後の日本は、平和憲法のもとで中立国となるのだから、なにも心配はいらない」と言って、それっきりであった。

要するに、日米安保条約の中味など知らない訳で、私には単なる思い込みとしか感じられなかった。その後、いろいろあって、私は政治活動から遠ざかり、教会とも読書会とも縁を切ることになった。

やがて20代も後半になり、難病の自宅療養が長く続く中で、読書の山に埋もれている時に知ったのは、あの当時の左翼たちは、誰も安保条約なんて読んでなかったし、「資本論」もまるで理解していなかったことだ。私の周囲にいた左翼たちが特殊なのではなく、あれが普通だったのだ。

先週のことだが、安倍首相との党首対談で、共産党の志位氏が総理がポツダム宣言をほとんど読んでいないことを馬鹿にしていたとの報を読んだ。思わず吹き出してしまった。

ならば、共産党の党員は皆、「資本論」「共産党宣言」を読んでいるのか。日米の新安保が問題だというなら、その安保条約をしっかりと読んでいるのか。

答えは分かっている。読んでなんかいないし、理解もしてはいない。ただ、平和を守る気概を見せる自分に酔い痴れているだけだ。脳内お花畑で平和の舞を踊れば、平和は実現すると信じ込んでいるだけだ。

ャcダム宣言とは、連合国とくにアメリカが勝者の地位にあることを利用して、自らを正義の立場に置くための方便に過ぎない。言い換えれば、そうやって正義の側に立つことを宣しなければ、その正義が成り立たないということでもある。

戦争とは、正しいものが勝つのではなく、勝ったからこそ正しいと規定される。ただ、それだけのこと。

もし仮にだが、戦後の日本で旧・ソ連の支援のもと「赤色革命」が起こり、社会主義国として日本が成立したのならば、当然に「ポツダム宣言」は否定されてしまうだろう。その程度のことが分からないのだから、いつまでたっても日本共産党は少数派に終わるのも当然だと思いますね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜は短し歩けよ乙女 森見登美彦

2015-05-28 12:05:00 | 

偶然の出会いを装うのは難しい。

如何にも偶然、出会ったふりをして親しくなるチャンスとしたい。色ボケした思春期の若者なら、そんな風に夢想したことはあるだろうと思うし、それを実行したこともあるだろう。

で、結果は?

私自身に関して云えば、ほぼ全敗である。まず予定は未定で、思った通りに事態が推移しない。予期せず同伴者がいたり、それが父親だったりしたら最悪だし、母親はもっと辛辣だ。だいたい、偶然でないことを、当人に見透かされていることは、後年ようやく分かるようになった。

下手な策謀など必要なく、必要なのは素直な勇気であったと今にして分かる。情けないことに、それが分かったのは20代後半であった。まァ、分かってなお、素直に偶然と見做してくれた優しい女性もいたけれど・・・

表題の作品は、そんな勇気のない色ボケした青年と、その青年の想いにはさっぱり気が付かない後輩の女性の物語。よくある二人なのだろうが、周囲に登場する人物が強烈すぎる。

いささか個性的な文体も含めて、好き嫌いが出る作品だと思う。通常ならば、この手の話には興味が湧かない私だが、この作品はタイトルがいい。このタイトルに惹かれてのお買い上げであった。

なおロマンスものを期待した向きには気の毒だが、まったくロマンティックではなく、むしろコメディに近い。つまり面白可笑しい。興味をお持ちの方は是非どうぞ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生活保護3兆円の衝撃 NHK取材班

2015-05-27 11:53:00 | 

無償の援助は、時として人を堕落させる。

国家として、憲法に謳われた最低限の健全な生活を国民に保障するのは義務である。その趣獅ヘ良しとしても、無償の援助はその手段として最適とは言いかねる。

病気や母子家庭に対する生活保護はともかくも、今や働くよりも生活保護費で暮らす方を選択する、堕落した国民が少なくない。働けないのではない、働ける健康な体を持ちながら、生活保護の安楽さにすがりつく。

ある意味、当然の選択である。ろくな技能も持たない単純労働しか従事したことがなければ、高収入など望める訳もない。安い給料と、その低い技能ゆえに他者から低くみられる屈辱を味わってまでして働くぐらいならば、生活保護のほうがマシ。

そのように考える堕落した大人が増えている。今や国家財政の歳出のうち、生活保護のための支出は3兆円を遥かに上回る。しかも、毎年増える一方であるのだから、国家としてはたまったものではない。

ある弁護士さんは、日本政府の財政事情から判断すれば、破産が相当であると断言する。私も、ほぼ同意見である。だいたいが、収入のうち、まともなもの(税収)が6割で、残り4割を借金(国債)なんて、異常である。

にもかかわらず破綻しないのは、その借金が国内の金融機関等からのものであるからだ。これが外国からの借金であったら、ギリシャの二の舞いである。円は大暴落して、石油や食料品の輸入もままならず、国内で暴動が起きかねない。

そんなきわどい状況にあっても、なお生活保護費の支出は増える一方である。その現状を取材し、放送したのがNHK取材班であり、大きな反響を生んだ。いや、日本政府だけでなく、日本国内の地方自治体も危ない。

事実、夕張市は破綻しており、大阪だって危ない。危ない地方自治体はいたるところにあるのが現実である。変な話だが、これだけ多くの失業者を抱えながら、日本の社会が不安定化しないのは、この生活保護の支給が少なからぬ役割を果たしている。

先進国に限らず、どこの国でもお金がなく、その日暮らしの人々が暮らす街では、治安が悪化するのが普通である。政府に対する不安は、犯罪組織を蔓延させ、麻薬、違法賭博、そして酒と女が暗いネオンの下で暗躍する暗黒社会を育て上げる。

日本がそうならずに済んでいるのは、生活保護といった仕組みが機能しているからだ。しかし、働ける能力がある人材を、生活保護という名の麻薬漬けにしていることも事実である。

私が知る限り、霞が関のエリートたちは、この問題に関する有効な対策を編み出せずにいる。お勉強エリートが最も苦手とするのが、社会の底辺を這いずる人たちとのコミュニケーションであることを思えば当然であろう。

私も似たようなものだが、仕事柄多少はこの手の底辺で働く人々のことは知っている。だから知っているのだが、意外にも彼らは生活保護を受ける可能性を恐れる一方で、その麻薬性にも気が付いている。だから、可能な限り働こうとする。

あんな惨めな暮らしは嫌だと言う。でも、現実は残酷だ。リストラの名の下で切り捨てられ、プライドをずたずたにされると、その嫌がっていた生活保護にすがり付くようになる。

以前は、私に対して堂々、正面から話してくれた人が、今では拗ねたように目を逸らし、半身でしか接してくれない。その生気のない目を見ると、無性に悲しく、そして情けなくなる。

生活保護には中毒性がある。そこから抜け出すには、一人では無理で、周囲の助けが必要となる。今のままで生活保護行政を続けるには、財政的にも難しい。もはや一刻の猶予もないと思う。

生活保護というセーフティネットは必要だが、そこから抜け出す手段を構築させないとイケないと思います。優しさだけではダメで、厳しくも温かい視線がないと、なかなか手助けさえ難しいと思いますね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スポンジ・ボブ

2015-05-26 12:02:00 | 映画

ゆるキャラも、アメリカだとこうなっちゃうらしい。

最初に言っておくと、スポンジとは台所で使う食器洗い用の化学繊維のスポンジのことではない。っつうか、私は当初、そう思っていたが、このアニメの主人公は海綿(スポンジ)のボブである。

海綿を知らない方の為に簡単に説明すると、原始的な海棲生物で,正しく動物類とされている。海水を吸い込み、プランクトン等を消化し、排水する海の掃除屋さんでもある。有益な生き物なので、決して馬鹿にしてはいけない。


先に食器洗い用ではないと書いたが、西欧では捕獲して日干ししたうえで、綺麗に洗い流した海綿を、化粧用のスポンジとして使ったり、はたまた高級食器の汚れ拭きに使っていた歴史もある。

今でも高級化粧用具として活用されることもあるようだ。日本でも同様に使われていたようだ。それはともかくも、アメリカでアニメの主役を張るとは思わなかった。イメージとしては、ニキビ面の白人少年ってところなのだろうが、タコやらカニやらのキャラも、そのゆるキャラぶりがおかしい。

子供向けアニメなのだが、実は意外に大人のファンも多い。実写を交えた変わり種のアニメで、そのぶっ飛んだ映像には驚かされる。使われるBGMも、如何にも現代アメリカ風のものであり、一見で日本のアニメでないことが分かるのも楽しい。

かれこれ10年くらい前から、日本でも放送しており、2006年には映画化されている。これは見逃したが、二作目である本作品は、劇場で観ることが出来た。

やはり映画館の大画面で、ひっちゃかめっちゃか暴れまわるスポンジ・ボブは楽しい。周囲を見渡すと、子供連れの家族が多いが、一人で観に来ている大人も散見する。一時間半ほどの映画なので、気楽に楽しめます。機会があったら是非どうぞ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新安全保障に思うこと

2015-05-25 11:55:00 | 社会・政治・一般

戦争法案でなにが悪いのか。

どんなに政治的修辞を施そうと、現在安倍政権が成立を目指している新安保法制は、戦争に参加するためのものだ。その意味で、野党が「戦争法案」だと呼ぶのは相応だと思う。

思うが、呆れた気持ちと侮蔑を隠しきれない。

戦前の日本が、ずるずると戦争へと引き込まれたのは、独走する軍部を政府が抑えきれなかったからだ。当時の内閣は、陸軍と海軍の推薦する大臣なくして組閣ができなかった。軍部は、政府が自分たちの意向に反するようだと、陸軍大臣らを出さず組閣を成立させなかった。

そのため、当時の内閣は軍部の意向に反対することが出来なかった。実のところ、軍の推薦がなければ軍務大臣が出せないなどという法規はなく、これは法令外の仕組みであった。

その根拠は、統帥権である。明治憲法では、統帥権を持つのは唯一天皇のみであり、内閣にはないものと解釈されていた。要するに、明治政府においては、戦争に関する権限は、軍部に大きく左右されていた。

これは明治憲法の欠点であり、有事法制の不備である。法令外の制度により、内閣が阻害されるという異常事態でもある。この欠点ゆえに、日本政府は軍がシナ東北部において侵略を進めることを阻止しえなかった。

シナへの権益を狙うアメリカには許しがたい行為であり、結果的に太平洋戦争へとつながる。このことを真摯に反省しているのならば、有事法制の整備は当然であり、平和を守るために必要であると理解できるはずだ。

しかし、言霊信仰に染まり、軍や戦争という言葉を忌避することが平和だと思い込む、平和原理主義者たちは現実を直視することをしない。

戦後の日本は、海外から原材料や食料を調達し、それを加工して輸出することで国民を潤す経済国家として再生した。そしてアメリカとの安全保障条約の下で、直接戦闘に巻き込まれる危険から逃れて今日の地位を築き上げている。

たしかに戦闘に直接関与したことはない。その意味で平和な国である。しかし、アメリカ軍は、日本で武器弾薬、食料医薬品を補給し、空母や巡洋艦を修理し整備して戦場に送り込んだ。日本製の武器で戦い、日本で補給された物資で戦い、傷ついた兵器や人は安全な日本で修理し、休ませることが出来た。

たしかに戦闘には直接関与していない。しかし、アメリカ軍の補給基地であり、休憩施設であり、修理基地として立派に戦争に関与している。これらの兵站行為は、立派な軍事的貢献であり、それを国策として行い、戦後の繁栄を築き上げた。

憲法9条は単なるお題目に過ぎず、実際には戦争に関与することで、現在の日本は存在してきた。そしてアメリカは今まで以上に日本に積極的に、アメリカの政策に貢献することを求めている。

そう遠くない将来、日本軍はアメリカか国連の指揮のもとで、兵站だけでなく戦争に直接関与することになる。平和を志向する日本国民の意思とは無関係に、大国として、争いごとに知らぬ顔を出来なくなってきている。

アメリカだけではない。シナの南方侵略の脅威にさらされている東南アジア諸国は、アメリカと日本にシナと対峙することを望んでいる。インドやオーストラリアもまた、日本との軍事的な関係を深めることを望んでいる。

彼らは戦争を望んでいるのではなく、平和を守るために日本との軍事的協力を望んでいる。平和を守るためには、軍事力が必要。これが国際的な常識であり、その軍事力を暴走させないためにも、有事法制の整備は必要不可欠だ。

人類の歴史を鑑みれば、独走した軍が戦争を拡大し、征服地を増やすと同時に敵をも増やし、終わりなく戦いへと突き進むことは珍しくない。だからこそ、法治国家としては、法令により軍を縛る必要がある。

現在、安倍内閣が進めている新安保は、間違いなく戦争法案である。その事実と浮ウを噛み締めてこそ、平和は守られる。間違っても戦前の過ちを繰り返してはならない。

戦争を恐れ、嫌うのはいい。でも、だからこそ、戦争は法令の下で合法に始められ、法令の下で終わらせる。それが出来てこその法治国家である。繰り返すが、それが出来なかったのが明治憲法下での日本政府である。過ちは決して繰り返すべきではないと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする