ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

深夜特急 沢木耕太郎

2011-01-31 12:18:00 | 

旅に出たからといって、自分が成長できるわけではない。

それでも若者に旅を勧める年長者が多いのは、旅に出ることで自分を客観視できることがままあるからだ。実際、自意識が過剰な若者には、自身を客観的にみることは難しい。

しかし、住み慣れた街を離れ、言葉さえ通じない見知らぬ街で孤独を味わってみて、初めて見知らぬ自分を知ることが出来る。

往々にして、それは惨めな体験からであったり、あるいは深い挫折から得られたものであることが多い。住み慣れた環境では、決して得られぬ、気がつけないことって奴は必ずある。旅がそれを教えてくれる。

人生は、概ね侭ならぬものだ。期待は裏切られ、当然との思いは愕然とした絶望に変る。それでも思わぬところから救いの手が差し伸べられ、どん底のドブ泥の中から宝物を見つけることもある。

私の場合は、登山が旅に相当したように思う。多感な十代の頃、自意識過剰な十代の頃、そして依怙地でありながら柔軟な吸収力を持つ十代の頃の山登りは、私の多くの挫折と希望を与えてくれた。

自然は美しいだけではない。人間の存在なんざちっぽけなものだと自覚せざる得ない強大な自然の猛威を知ってこそ、自然への畏れを知る。

強大な自然の力の前に、虚飾の衣を剥ぎ取られ、自尊心を踏み潰され、己の弱さを思い知らされる。そこで初めて自分自身の真の姿を知る。

知りたくはなかった惨めな自分。それを挫折の始まりととるか、それとも新たな出発の時ととるかで人生は分かれると思う。逃げちゃいけない、目を背けてはいけない。現実を見据えて、自身を見つめなおして、そこから向かうべき新たな道を考える。

旅に出ることが出来ないのなら、せめて優れた旅行記、ドキュメンタリーを読んで、人生の指針とするのもありだと思う。表題の書は、旅に出れない、出たことがない若者たちのハートを捉えた名著だ。

いや、この本を読んで海外に飛び出した若者もいたと思う。誤解を浮黷クに言ってしまうと、海外に一人旅に出たからといって、若者は必ずしも成長するわけではない。

むしろ悪い遊びを覚えて堕落した若者も少なくないはずだ。麻薬に賭博、詐欺に盗難、酒と女。ろくでもない体験をしてた若者は数知れずだと思う。

それでも敢えて薦めたい。若いうちに、一度は旅に出てみろと。なにもせずに、馴れている安全な世界だけで生きていたら、決して得られない経験、知識は必ずある。

成功は人生を飛躍させるが、失敗は足元を固める肥やしとなりうる。失敗をおそれて何もしないよりも、失敗をして傷つくほうが得るものは多い。もちろん、その失敗を活かせない人もいるが、そんな人は何をやっても活かせないと思う。

人間、年齢を重ねると段々失敗をするのがきつくなる。若いときだからこそ許されることって、たしかにある。だからこそ若者は是非とも旅に出てみるべきだと思いますね。

本音を言わせてもらえば、安全な場所でいい気になるな!です。

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ああ息子 西原理恵子+母さんズ

2011-01-28 12:30:00 | 

ボクはいい子でした。少なくともちっちゃい頃は、お母さんに叱られたことはありません。あ!笑ったな、でも本当ですよ~。だって、叱られた記憶ないんだもの。

この文、母が目にしたら、もしかして卒倒するかもしれない。いや、既に寝たきりだから、飛び起きるかもしれない。多分、妹たちだって、PCの前で憤激しているかもしれないが、ウソじゃないぞ。だって、本当に叱られた記憶はないのだもの。

でも、今だから分るが、ウソではないが事実ではないのだろう。表題の本は、息子に悩む西原理恵子が、全国の息子を持つお母さんたちからの投稿を募集して、そのなかから傑作を収録したものだ。少し西原の挿絵と、挿漫画が入っているが、大半は全国の息子たちの奇行に悩み、嘆き、脱力して笑うしかない母親たちの投稿だ。

枕元において、寝る前に読んでいるのだが、爆笑して眠気が吹っ飛んでしまう。しかし、笑いながら、あれ?俺ってどうだったのだろうと考えると、いささか心もとない。

私は割りともの覚えの良いほうだが、幼い頃母に叱られた記憶がない。思い出すかぎり、小学校高学年になるまで叱られた記憶はない。いや、無い訳ないのだが、さっぱり覚えていない。

何度か書いているが、私が一番問題を起こし、警察の世話にまでなったのは小学校3年前後だ。相当に荒れた子供であったのは間違いないのだが、肝心の私には叱られた記憶が無い。担任の教師の冷たい視線なら、今も忘れずに覚えていますけどね。

強いて思い出せるのは、警察からの帰りにおばあちゃんに手を引かれている時、叱られるのが怖くて、ずっと地面を見ていたことだけだ。でも母に叱られた記憶はない。いや、叱られない訳はないのだが、まるで覚えていない。

多分、嫌なことは忘れてしまう性分なのだろう。全国の息子たちも、多分同じだと信じたい。全国のお母さん方、息子どもなんて、そんなもんですぜ。担任の教師?あれは蔑視だから覚えているのです。

でもね、がっかりしないで下さい。そのかわり、お母さんの優しさや、暖かさなら絶対忘れませんから。それだけは断言できます。

ちなみに表題の本、続編に娘編もあります。こちらも笑えますが、女の子って、どんなに小さくとも女なのだなと実感できますよ。

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国の壊れる音を聴け 古森義久

2011-01-27 14:09:00 | 

ウソをウソで塗り固めた醜悪さ、それが日本の戦後に蔓延した平和主義だ。

なんといっても第一の誤魔化しは、敗戦を終戦と言い換えたことだ。終わった、終わったと安堵して済ませた。おかげで、何故負けたのかについての反省をやらずに済ませ、軍人に責任を押し付けた。

この第一のウソを正当化するため、戦争を否定すれば平和は叶うと、第二のウソを作り上げた。戦争を否定し、軍を否定すれば、平和であると歪んだ定義を作り上げた。

この第二のウソを真実と思い込むために、現実から目をそらし続けた。日本は朝鮮戦争、ヴェトナム戦争の後方支援を担ったわけだが、この米軍への兵站支援は立派な戦争行為である。

しかし、第二のウソを信じ込み、日本が戦争に加担してる事実を無視し続けた。日本以外の誰もが、日本の平和憲法なんて空文に過ぎないと知っている。それなのに、日本は戦後半世紀にわたり平和国家であり続けたと主張する醜悪さ。

戦争を否定すれば平和は叶うという、現実離れした理想を信じ込んだが故に、事実を直視せず、自分たちの理想の矛盾を指摘するような言論は排し続けた。

その尖兵となったのが、日本の新聞社であった。

彼らが如何に歪んでいるかを実証したのが、表題の本だ。著者は元・毎日新聞の海外報道記者であり、海外で知った事実と、日本で報道される歪んだ真実とのギャップに悩み、それを直そうと努力したがゆえに毎日新聞を追われるに至った。

その後、産経新聞に転職して華々しく活躍する。おかげで、私なんぞ元々産経の記者だと思い込んでいた。反日自虐報道で知られる毎日にありながら、海外で日本では報じられない事実に気がついてしまったが故の苦悩が、この本を書くに至った。

なりより印象的だったのは、平和よりも大切なものがあると断言したヴェトナムの人たちの言だ。奴隷の平和よりも、苦しくとも自由と独立の方が大切だ。そう宣言したヴェトナムの人々の叫びを、日本のマスコミは無視した。

日本のマスコミの虚偽は、万死に値すると思う。興味がありましたら、是非ご一読のほどを。

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手が出せない・・・

2011-01-26 12:44:00 | 社会・政治・一般

誰だって年をとる。

それなのに、お年寄りを大切にしない風潮が密かに増えているように思えてならない。私は守秘義務に縛られているので、以下の文は大幅に脚色がされていることをお断りしておきます。

とある不動産屋の前を通った時です。顔見知りの営業マンが挨拶してきたので、立ち止まって雑談を交わしていたら、見たことがあるような地形図が目に飛び込んできた。

話を中断して、よくよく見ると、私が以前財産評価をしたことのある土地だった。営業マンが目ざとく「これは、お買い得ですよ、どうです先生」と言ってきたのをさりげなくかわす。

番地から判断して、間違いなく顧問先のAさんの所有する物件だ。はて?これは相続対策で貸し駐車場としてあったはず。なんでまた売りに出すのだ?12月に電話した時は、そんな話はまったくなかった。

不動産屋に入って、顔見知りの社長に声をかけて事情を聴いてみる。私が「Aさん、なんだって売るのかな?」と訊ねると社長が顔を曇らせる。

なんと、Aさんが売りに来たのではなく、息子さんが委任状を持ってきたという。しかも、その委任状は白紙委任状に後から書き加えたものらしいと、社長がこぼす。

互いに顔を見合わせながら、とりあえず事務所に戻ってAさんに電話すると、息子さんが出てきて不在だという。おまけに申告は自分がやるから、もう連絡しないで欲しいとのこと。

この息子さんは、いい年なのだが長年無職で、A氏の悩みの種だった。そしてお孫さんも登校拒否の問題児である。これは怪しいと思い、A氏と懇意にしている保険代理店の社長に連絡してみた。

その結果分ったのは、A氏が正月に脳梗塞で倒れて、現在は入院中であるとのこと。見舞いに行っても会わせてもらえないらしいが、意識はあるらしいとの事。

思い余って、私は無断でその病院を訪れて、A氏に会うことに成功した。A氏は半身不随であったが、意識はしっかりとしていた。ただ、非常に弱気になっており、子供や孫が自分の財産を好き勝手にしていることを悩む一方で、彼らの世話にならねばならないため、仕方ないとも言う。

このような曖昧な場合は、非常に難しい。一番有効と思えるのは、成年後見制度の活用だが、A氏の意思がしっかりしていないと、やぶ蛇をつっつくことにもなりかねない。

もはや私の職域を越えているため、弁護士とも相談してみる。非常に厄介な問題だ。基本的には家庭内部の問題であるが、これではA氏があまりに気の毒だ。

現時点では、まだ土地は売れていない。だが、私が伝え聞く範囲では、A氏の息子さんはリゾートマンションを購入し、奥様は高級外車を乗り回しているとか。どうやら定期預金を解約したらしい。

そしてAさんは、特別養護老人ホームに移された。弁護士とも相談しているが、今のところ微妙すぎて難しいとのこと。なまじA氏がしっかりと意思能力を示しているだけに、成年後見は通らない可能性がある。

締まり屋のA氏の下で、金銭に苦労(働いていないのだから当然だが)した息子さんやお嫁さんたちの気持ちも分らないではない。またA氏が、しっかりと介護されているのも間違いないらしい。

だが道義的に気になる。さらには税金の問題もある。マンションや外車の名義がどうなっているのか知らないが、場合によっては莫大な贈与税が出る可能性もある。

そしてA氏が亡くなった場合の、相続税の納税資金はどうするのだ?

もはや私の手を離れた問題でもあるが、正直忸怩たる気持ちを拭い去れない。私にはA氏が幸せな老後を送れているようには思えないのだ。

実を言うと、近年このような形で老人の財産を、子供や孫が好き勝手するケースが増えている。共通するのは、子供や孫がろくに仕事もなく、あっても稼ぎが少ないことだ。彼らにしてみれば、はやく死んでくれれば、その財産を自由に出来るのに、とのことらしい。

どこか、おかしくないか?

このような事例にぶつかるたびに、私は民法が法定相続人に遺産を保証していることに疑問を感じざるえない。そして、それ以上に、老人を大切にしない教育をしてきた戦後のあり方に怒りを禁じえない。

誰だって、いつかは老いを迎えるのだぞ。金にしか興味がない拝金主義者どもが老人がコツコツと蓄えた資産を食い物にするような社会が健全であるわけない。

いずれ日本が向かえる少子高齢化社会とは、老人の資産を若者が奪う時代なのだろうか。もし、そうだとしたのなら、嫌な時代だと思うな。

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アジア杯報道に思うこと

2011-01-25 12:24:00 | スポーツ

寒いと眠くなる。

私は子供の頃から寒いのが苦手で、寒くなると布団にもぐりこむ癖がある。ただし、電気毛布や湯たんぽなどは使わない。冷たい布団が、次第に温まり、ヌクヌクしていく感じが好きなのだ。もう、こうなると布団から出たくない。

だから、冬の読書は布団にもぐりこんでしていることが多い。これはこれで幸せな時間なのだが、おかげでTVをほとんど観ていない。

一月はアジア杯が中東のカタールで行われており、ザック新監督の下で新生日本代表の活躍を観たかったのだが、眠気と寒さには勝てず、ほとんど試合を観ていない。

その代わり、新聞のスポーツ紙面やサッカー専門誌、ネットのサッカー情報には十分目を通したつもりだ。そこで気がついたのが、「中東の笛」といった表現だ。

予選リーグ第二試合のシリア戦での審判のPK判断と川島GKの退場を指しているようだ。

はて、どうかな?日本に与えられたPKだって怪しいぞ。でも、試合としては、そう悪いものではなかったと思う。

アウェイで試合をする場合、どこても地元のチームに有利な笛が吹かれるのは、サッカーの世界では常識だ。さすがにW杯やヨーロッパ選手権あたりになると、審判もなるべく公平であらんと努力するようだが、基本的に地元有利な審判がされることが通例だ。

審判は中立公正で、不偏不党であるべきとは正論ではあるが、ある意味現実離れした青臭い理想論である。人間が裁く以上、そこにある程度の偏りが生じるのが当たり前。神ならざる人が裁くということは、そういうものだと大人の割り切りがあってもいいのではないか。

もちろん、程度の問題はある。あまりに酷い偏った笛を吹く審判だと、試合そのものが壊れてしまう場合がある。しかし、上手な審判だと、ある程度偏りがあったとしても選手も観客も納得せざる得ない。実際、名試合と呼ばれた試合では、審判の判断は公正さよりも、試合を上手に進めることに重点が置かれていることが多い。

過去の名試合や、名ゴールシーンを集めたDVDなんかを観ると、これオフサイドでは?あれ、なんでカードが出ないの?と疑問に思うことがある。でも、結果的に試合は盛り上がり、名場面が生まれ、観客の熱狂と興奮が最高潮に達する。

審判もまた、試合を作り上げる重要な役割を負っている。極論だが、審判は試合を上手にコントロールすることが大事であり、公正中立な笛を吹くことは二の次なのかもしれない。多分、公言されることはないが、公正であるという建前よりも、良い試合をつくらんとする方が本音なのだろうと思う。

そう思うと、頭が痛いのが日本サッカー協会の対応だ。日本で試合をする場合、不思議なくらい審判が中立的な笛を吹く試合が多い。おそらくは、審判に日本有利な笛を吹かせるような殊遇を積極的にしていないのだろう。

それは日本的美点なのかもしれないが、世界と戦う場合はハンデキャップでしかない。また、青臭いアマチュアイズムに毒されているマスコミも悪い。

アジア、アフリカで行われている試合で、審判の笛が中立公正であることなんて滅多にないぞ。いや、南米や欧州だって程度の差はあれども、地元有利な笛が吹かれることが当たり前だ。その現実をマスコミは分っているのか?

いい試合とは、審判が目立たない試合だ。上手な審判は、試合が円滑に進むように目立たぬ配慮をしていることが多い。ラフプレーが目立つ選手に、軽く声をかけて落ち着かせたり、あるいはきわどいプレーを熟視して、選手に軽いプレッシャーを与えて試合を荒れさせない。

クソ真面目に中立公正を演じたがる日本の審判には、この配慮が足らない。だから世界的に見ればラフプレーの少ないJリーグの試合でさえ、選手や観客が荒れるような試合を作ってしまう。

そして、日本のサッカー報道は、審判の質にまで論じられるような良質な記事を書けるものは極めて少ない。日本サッカーは強くなったと思うが、それは選手だけで、サッカー協会幹部やマスコミのサッカー報道は、相変わらずアマチュア・レベルであると断じざる得ません。

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