ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「笑わない数学者」 森博嗣

2007-09-29 15:07:44 | 
嗚呼、気分がイイ。

半ばにして、作中で天才数学者が問いかけたトリックが解けてしまったからだ。ただし、殺人事件のトリックは最後まで解けなかったから、竜頭蛇尾も甚だしい。

問われたトリックを正確にもう一度なぞれば、殺人事件も或る程度は解けた気もするが、物語の急展開を追うのに夢中で、そこまで脳味噌が回らなかった・・・

まあ、作者の術中にはまったといえば、そうかもしれない。早くトリックの正体が知りたくて、いつもにも増して本の頁をめくるペースを上げたものです。これじゃあ、熟慮する余裕があるわけない。

いつも思うのですが、建築学者である森博嗣のミステリーは、論理が透徹している。だからこそ、謎解きが快感なのだと思う。読みながら、私も探偵気分で謎解きに挑むのですが、大概が敗北に終わります。終盤で探偵役の犀川助教授の謎解きを読みながら、いつも成程なるほどと唸っています。

興味深いのは、森先生いつも最後の最後に微妙な端数を残す。次回作へつながるものではなく、奇妙な余韻を残す。世の中すべからく論理で透徹して作られているわけでない現実を、この端数という形で表現しているのでは?私はそう勘ぐっています。

もうしばらく、素人探偵の犀川&萌絵を楽しませてもらいましょうかね。この二人の微妙な距離感、どうかたをつけるのでしょう。それも微妙に気になるので、読むのを止められません。
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「I am ナム」 細野不二彦

2007-09-28 13:37:23 | 
「太郎」「ギャラリーフェイク」と次々とヒットを飛ばす人気漫画家である細野不二彦だが、この人もけっこう息の長いベテランだ。始めはギャグ漫画を描いていた人で「GuGuガンモ」や「さすがの猿飛」あたりが人気の発端であったと思う。

でも、私が一番気に入っていたのが表題の作品。なにげに着てしまった着ぐるみ人形が脱げなくなってしまったナム少年のドタバタ劇。なんといっても、作中の駄洒落が可笑しかった。従来のギャグ漫画とは明らかにセンスが違った。なにより絵柄が繊細で、ギャグ漫画らしからぬ綺麗な線で描かれていた。

この人は絶対人気が出ると私は思ったが、案外私の周囲では人気はなかった。ギャグとしては上品に過ぎたし、アメリカン・コミックのようなセンスの駄洒落は、笑う人を選んだ感があったからだと思う。なによりも、ギャグ漫画としては、絵が上手すぎた。

残念に思っていたのだが、いつのまにやら活躍の場を青年誌に移して、そこで描いた大人向けの漫画が人気を博したから不思議だ。いや、もともとギャグ漫画よりも、劇画調のストーリー漫画のほうが合っていたのだろう。

ただ、細野氏本人は、けっこうギャクにこだわりを持っていたのだと思う。だからこそ、漫画の作風の方向転換に時間がかかったのだろう。最新作「電波の塔」になると、もはやギャク漫画の残り香さえ感じさせない。

ヒット作を生めずに、消えていく漫画家が多数いることを思えば、成功したといって間違いないと思う。思うが、私は少し残念に思う。

時折見かけるのが、自分自身の夢に取りつかれた人だ。自らやりたいことのため、順調だったはずの会社勤めを辞め、好きな道で食べていこうと奮闘する。頑張って欲しいと思うが、失敗の結果に終わることも少なくない。好きなことで食べていくのは難しい。冷静に傍で見ていると、どうもやりたい事と、求められている事とのギャップを埋め切れていない。

善いものが売れるとは限らないのが、世情の常だ。妥協は夢を自ら汚す行為であり、それを厭う気持ちは分らぬでもない。だが、生計が立たなくては、夢の実現など出来るわけもない。

仕事のために、夢を封印して稼ぐ仕事に徹した成功者は少なくない。生きていくためには、それが必要だったのだろう。非難するいわれはないが、それでも惜しいと思う。

現在はストーリーものの漫画に徹している細野氏だが、もう一度ギャグ漫画を描いてくれないだろうか。あの繊細で奇妙に可笑しい駄洒落の連発を再び見てみたいものだ。
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「嫌われものほど美しい」 ナタリー・アンジェ

2007-09-27 08:31:06 | 
一応、書いておきますが、私のことではありません。副題に「ゴキブリから寄生虫まで」とあるように、新進気鋭のサイエンス・ライターが最新の生物学を分りやすく書いた本です。

誰が言ったのか忘れましたが、この地球という惑星の地表で最も繁栄を謳歌しているのは、案外昆虫類かもしれません。多分、そう遠くない将来、現世人類は滅ぶのでしょうが、間違いなく昆虫は生き残ると思います。

私は20世紀後半より、人類の科学は停滞しているとの疑念を捨て切れていません。現在の文明の根底を支える火力、原子力、電力などの基礎技術は、全て20世紀前半までの発明を育んだものであり、基礎科学に関してはマクスウェル以降革新的な発見はないと思うのです。

さりとて応用技術的科学は、今もなお進展を遂げているのも事実。なかでも生物学の世界では、遺伝子工学やコンピューターによる分析技術の向上により、新たな発見が相次いています。これが面白い~♪

いらぬ雑学的知識ではあるのですが、私はこの手の話題が大好きなのです。でも、この本の数あるエピソードのなかで、一番印象に残ったのは、科学では対処しきれぬ心の闇を抱えた人間たちの話だったりします。

エイズに感染した事実を認めようとせずに、死を迎えた友人の話。心が病んでしまった、大好きだった祖母の話。どれも、科学の進歩では解決できなかった辛い思い出話。知識は人の幸せに貢献してこそ価値があると、私は信じています。しかし、その知識の限界を認識しつつも、著者は科学の進歩に関心を持ち続けます。

人間に嫌われてきたゴキブリや寄生虫などから、その人間に役に立つ知識が得られるかもしれないとしたら、なんとも皮肉な話です。嫌うばかりでなく、ちょっと興味を向けてみれば、思わぬ発見があるかもしれません。むやみに嫌わずに、ちょっと冒険してみませんか?
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「超整理法」 野口悠紀雄

2007-09-26 12:23:42 | 
白状すると、あまり整理整頓が得意ではない。

仕事に直接関係するものは、なるべく整理するように努めている。ところが私生活では、いたってだらしない。本は山積み、衣類はハンガーかけっぱなし。ただし台所の水周りだけはいつも片付ける。これは狭いキッチンなので、片付けないと料理が出来ないし、放置するとゴキブリがやってくるのが嫌。だから遅刻したって、流しの食器は洗ってからでないと、出かける気になれない。

その点、本はイイ。ほって置いても虫がわく(本当は食われるが)でなし、ネズミが齧るでなし。ただ、いささか勘に触る。早く読みたいのだが、物理的な限界があって、読まずに置いているだけだ。

困るのが郵便物や、整理して保管しておきたい書面だ。後でやろうとすると、何故か無くなる困りものだった。長年けっこう困っていたのだが、表題の本を読み、時系列式に整理するようになって、ずいぶん改善したと思う。

ただし整理したい対象によっては、時系列式が適さない場合もある。新聞の料理に関する記事なんかは、時系列式が適している。しかし、美味しいお店に関する資料は、時系列式は向いていないようだ。これは私が料理の名称やお店の名前をなかなか覚えず、もっぱら「あそこのお店の肉料理は美味しかった」といった大雑把な覚え方をするせいだ。つまり場所で覚えるので、地図に書き込むことで折り合いをつけている。

また登山に関する記録も、必ずしも時系列式が適しているとは言い難い。実は山行記録のメモは、すべて保存してある。しかし、ほとんど読み返すことはない。私は登山を、誰と行ったかで覚えている。だからその時のメンバーから、記憶を導き出す。これはアルバムの写真を見るのが一番だ。

それでも、時系列式の整理法が有効であることは、私も認めざる得ない。ベストセラーにもなった表題の本だが、私が一番驚いたのが、著者が私の嫌う霞ヶ関のエリート官僚であったことだ。この人たちは、官職をはずれると、弾けたように自由闊達な思考を炸裂させる。まるで組織と慣習に縛られた現職時代の鬱憤を晴らすがごとくの活躍ぶりだ。

少子高齢化社会を間近に迎える日本では、優秀な高齢者をどう社会に活かしていくかが、大きな課題になると思う。もはや悠長にご隠居生活を楽しませてる余裕は無い。高齢者であっても、活用できる人材は大いに使うべきだ。ゆとり教育の結果、学力の低下した若者が増えていく現状を思うと、優秀な高齢者活用は必然とさえなると思う。
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「礼儀作法入門」 山口瞳

2007-09-25 09:25:26 | 
私が小学校2年の時に、父母は離婚した。以来母子家庭で育ったわけだが、十代の頃は父が不在であることに劣等感などないと考えていた。

実際、経済的支援は父より受けていたし、年に1,2回会うこともあった。完全な母子家庭であったのは7年間ぐらいだ。だから影響なんて無いと思い込んでいた。

しかし、この年になって冷静に振り返ると、やはり影響はあったと思う。特に父が日本に居なかった(知らなかったが)間は、母が父親の役割をも果たそうと悪戦苦闘していたのを、冷淡に観ていた。無理だと思っていた。やはり母は女で、男ではない。父親の代わりにはならない。

おばあちゃんは、私に「長男なのだから、一家の長として振舞うんだよ」と言いつけた。素直に「うん」と肯いたが、具体的に何をしたら良いか分らなかった。子は親をみて育つものだ。見本がなければ、分らないものだ。

下はともかく、上の妹には明らかにファザコンの気があった。私よりも年長の男性と結婚したのも、そのせいだと思う。私はといえば、そもそも父親像を具体的に描くことが出来なかったので、父親の存在自体を敢えて無視した。

父と再会したのは中2の冬だが、「おとうさん」という言葉はついに言えなかった。言えるようになったのは、20代後半だったと思う。親父も頑固だが、私も相当に依怙地だと思う。

父がいないことに劣等感はないと思い込んでいたが、その私が中学生の頃に熱心に読んでいたのが、表題の著者である山口瞳だ。江戸っ子の頑固親父である。

生前は毎年4月1日の朝刊に、新社会人に向けてのはなむけの言葉を書いていた人でもある。筋が通った、謹厳な親父さんのイメージそのままの人だった。ただし、私生活では巨人馬鹿で、遊び達者な江戸っ子親父。正直言って、中学生が夢中になって読む対象ではあるまい。やはり父親が不在の家庭にあったことが、影響していたのだと言わざる得ない。

古臭い考えかもしれないが、やはり子供には父親と母親の両方が必要だと思う。男と女の事情は、分るには分るが、やはり子供のことを第一に考えて欲しい。あるべきものがない現実は、子供にはなんともしがたいものなのだから。
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