ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

感動をつくれますか 久石譲

2012-07-31 09:35:00 | 

映画音楽が好きだ。

もしかしたら映画そのものよりも好きかもしれない。その曲を聴けば、映画の場面が脳裏に甦る。あのときの感動が再び甦る気がする。でも、それだけではない。音楽を聴くと、その曲を聴いたときの場面だけでなく、当時の交流関係やら時代の雰囲気さえも思い出すことがある。

あの時一緒に映画を見た彼女さえも思い出す。あの時初めて握った手の触れた感触は、青春の思い出として淡い感動であったことは、忘れがたく覚えている。

名作と云われる映画には、必ず相応しい名曲が伴われている。ヘンリー・マンシーニの哀しい調べが奏でられれば、あの一面の向日葵とヒロインの大粒の涙が思い出される。ジョン・ウィリアムスの雄々しい曲が流れれば、星々を背景に輝く巨大な宇宙戦艦と、ライトサーベルを振るうジェダイの騎士が思い浮かぶ。

ジェリー・ゴールドスミスの軽快なメロディーが流れれば、富と名誉にあふれたセレブの犯行を探り出す汚いコートの敏腕刑事を思い出さずにはいられない。バフィ・セントメリーの軽やかな歌声は、いちご白書のページをめくり出す。映画音楽の力って凄いと思う。

日本映画にも名曲は多いが、ここ十数年ヒットを連発しているアニメのスタジオ・ジブリの映画音楽を担当している久石譲は凄いと思う。

私は十代後半から、ほとんどアニメ嫌いになっていたので、宮崎監督のアニメ作品も当初はまったく観ていなかった。たまたまTVの番組で、当時ピアノを弾きたいと思っていた北野武が、自分の番組に久石譲をゲストに呼んだことがあった。その番組の中で久石氏自らがピアノを弾いて見せたわけだが、その曲が「風の谷のナウシカ」だった。

映画を観ていなかった私は、ここではじめて映画音楽としての久石氏の作品を耳にしたわけで、その物悲しくも美しい旋律に魅せられて、翌日にはレンタルビデオ屋に足を運び、そのアニメ映画を借りていた。

映画については、またの機会にでも書きたいと思うが、私自身はその音楽に非常に惹かれた。以来、宮崎アニメは出来るだけ見るようになったのは言うまでもない。音楽の使い方のうまい作品が多いと思う。

曲を聴けば、映画の場面が甦る。映画音楽って、本当に素敵だと思う。そんな映画音楽を幾つも作曲している久石氏が、自ら筆を執ってその創作姿勢について書き記したのが表題の本だ。

なかでも、さりげなく触れていたが、やはり久石氏は少年時代に膨大な数の映画を観ていたようだ。その蓄積が目に見えぬ財産となって、作曲家久石譲を作る土壌となったことは間違いないようだ。

創作能力に乏しい私にとっては、なかなか勉強になる本でした。興味がありましたら是非どうぞ。

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砂場の思い出

2012-07-27 14:31:00 | 日記

近所にある幼稚園の砂場は、閉園時になるとブルーのシートで覆われている。

砂場って奴は、野良猫などのトイレの場になることが多く、猫の糞尿から寄生虫や病原菌が砂場に拡散することになる。だから、夜間、猫が入り込まないように、ブルーシートをかぶせてある。

隣のスーパーマーケットに行くのは、もっぱら仕事帰りの夜だけに、しばしばそのブルーシートで覆われた砂場を見かける。いつもではないが、それでも年に数回は軽い後悔に襲われることがある。

明確な責任があったわけでもなく、誰からも非難されたこともない。でもその砂場の光景は、私の心の奥底にぼんやりと苦く、物悲しい後悔の泡が浮き立つことを抑えられない。

あれは私がまだ小学生の頃だ。当時、公務員宿舎に住んでいたのだが、敷地内の自転車置き場の隣に小さな砂場が設けてあった。縦横3メートル程度の小さな砂場であり、日陰にあったので地味な遊び場でもあった。

公務員宿舎というやつは、案外出入りが激しくて、引っ越してくる家族、引っ越す家族がけっこうあり、なかなか落ち着かない。学校に通う子供は、それでも引っ越してすぐに友達を作れるが、幼稚園などに入れなかった幼児はいささか寂しい思いをする。

私と友達がその砂場で、ジオラマ遊びをしていた時だった。ちなみにジオラマ遊びとは、プラモデルの戦車や兵隊を並べての戦争ごっこである。いくつもの小山を作り、戦車を並べて歴史上の戦場を再現しているつもりだった。

ふと気が付くと、小さな男の子が興味深げに、こちらを見ていた。近づいてくるでもないが、その小さな眼差しには興味があって仕方がない風情が見て取れた。たしか一階の端の部屋に越してきた家族の子供だと思う。

たしか、幼稚園に空きがなくて困っていると聞いたことがある。だからだろう、一人でポツンと宿舎の広場に立って、ぼんやりと時間を潰していたのだと思う。引っ越したばかりで遊び相手がいない寂しさなら、私は何度も経験しているので、気の毒に思いその子を砂場に誘ってみた。

ちょっと心配げに、でも嬉しさを隠しきれずにその子はやってきた。余っていた戦車のプラモを渡して、遊びに誘い入れた。よほど嬉しかったのだろう。戦車を砂場で一人、走らせながら嬉しそうにニコニコ笑っていたのは今でも覚えている。

その後、その子は年の近い子供たちと遊び仲間に入れたようで、一緒に遊ぶことはなくなったが、朝のラジオ体操の時なんかには、真っ先に私のもとへあいさつに来ていた。私も悪い気はしない。

ところがだ、しばらく見かけない日が続いた。どうも入院しているらしいと聞いた。やがて、自治会の回覧板により、その子供が亡くなったことを知った。少し前に目を赤く腫らしていたが、どうも悪い病原体か寄生虫にやられたらしく、その結果入院することになり、治ることなく幼い命を失ったそうだ。

そんな話を大人たちの立ち話から盗み聞きした私は、自分の顔色が真っ青なのに気が付いていた。もしかして、あの砂場が原因じゃないのか?

私たちは知っていた。あの砂場には猫の糞などが混じっていることを。砂場で転んで傷口が化膿して入院した子供がいたことも。もしかしたら、あの砂場が原因ではないのか。

大人たちに言おうかと思ったが、口が凍って言葉にならない。心の奥底が凍結したかのような重く苦しい気持ちが、私から言葉を奪ってしまった。それでも勇気を振り絞って言おうとした矢先だった。

私の目の前に、憔悴しきった表情のあの子のお母さんが現れて「今まで遊んでくれて、ありがとう」と言ってくれた。動揺した私は何を言っていいのか分からず、ただただ頭を下げることしか出来なかった。

もう、砂場のことは口に出来なかった。

ただ、他の大人たちも砂場の危険性には気が付いていたようで、いつのまにか砂場は誰も立ち入らなくなっていた。私も砂場で遊ぶ年ではなくなり、いつしか忘れてしまうようになっていた。

でも、やっぱり忘れられない。その子の死亡と砂場の因果関係が証明されたわけでもなく、誰からも非難されたわけでもない。でも、もしあの砂場に誘わなかったら、あの子は砂場で遊ぶことはなかったのではないか。

そんな疑念が私の心を苦しめる。杞憂というか、心配しすぎだとは分かっているつもりだ。それでも忘れられない。人間って簡単に死んでしまうものなのだなと、妙に悟ったような態度で誤魔化してきたが、心の奥底の悔恨まで打ち消すことは出来ない。

もう、あの子の名前も表情も思い出せないのに、この後悔だけは忘れ去ることが出来ない。

心って不自由だと思います。

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ワースト 小室孝太郎

2012-07-26 12:17:00 | 

生き残ったのはどちらか?

そんな謎を残して、この漫画はエンディングを迎えた。沢山の漫画を読んできたが、これほど記憶に残る最後を提示した漫画は希だと思う。

その絵柄から手塚治虫の弟子筋であることは、誰にでも分かると思う。1970年代に週刊少年ジャンプに連載されていた幻の傑作として知られている。なぜに幻かといえば、作者である小室氏とジャンプ編集部がもめてしまい、結果として漫画の世界から消された漫画家だからだ。悪名高いジャンプ編集部の専属システムの最初の犠牲者とも言われている。

だから小室氏の漫画を見た人は少ないと思う。その長いとは云えない漫画家としてのキャリアのなかで、最高傑作とされたのが表題の作品だ。

高度成長を迎えて未来にまい進する日本に、突如謎の生物が出現した。生命力が強く切られても撃たれても、なかなか死なず、しかも人を憎み襲い掛かってくるこの新種の生き物(ワーストマンと呼ばれる)は、当初陽の光の下では活動できないがゆえに、あまり目立つことはなかった。

しかし、本当に恐ろしいのは進化のスピードだった。あっという間に環境に適応し、羽を生やして空を飛んだり、呼吸器系を変化させて海中生活に適応したりと次々と変種が現れ、気が付いたら世界中に蔓延して、人類との生存競争を繰り広げる。

その圧倒的な生命力に苦闘を余儀なくされる人類だったが、遂にこの新生物がある種の細菌に弱いことを突き止める。この細菌を兵器として全世界にばら撒きだそうとした矢先、遂に人類に最悪の事態(ワースト)が訪れる。

それが氷河期であった。冷気に弱い細菌が新生物を滅ぼすのが先か、それとも人類が新生物に滅ぼされるのか。20万年後、氷河期が終わり、洞窟から生き残った生物のシルエットだけが漫画の最後のページに描かれている。

生き残ったのは人類なのか、それとも新生物ワーストマンなのか。

真の答えは現されることなく、漫画家・小室孝太郎は姿を消した。そのほとんどの作品もまた書店から姿を消したが、唯一この漫画だけは一度だけ朝日ソノラマから単行本として再販されている。

私は何度も手に取り、買おうかどうしようか迷ったが、遂に買うことはなかった。後悔先立たずというが、本当に悔いが残る。もし、古本屋で見かけたら、是非とも手にして欲しい。それだけの価値ある漫画だと思いますよ。

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ズボンの裾上げ

2012-07-25 12:33:00 | 日記

近年、ズボンを新調するのが憂鬱だ。

週の大半はスーツなので、こちらは問題ない。困るのはプライベートで着るズボンなのだ。あまりジーンズを好まず、綿布のチノパンが好きだ。流行なんぞ、まったく考えず、学生時代と相変わらぬスタイルを貫いている。

ボタンダウンのシャツとチノパン。あるいはポロシャツとチノパン。この組み合わせだけで数十年生きている。後は季節に合わせて上着をどう着るか、だけの問題でお洒落を済ませている。お洒落というには、あまりに怠惰だとは思うが、別に困ることはない。

ただ、社会人として働き出してみると、運動をしない分だけ確実に太る。太って何が困るかといえば、それはズボンだ。少しきついだけならいいが、胴回りが入らない事態には、真剣に悩まざる得ない。

やはりズボンだけは、数年に一度新調せざるえないのだ。いざ、お店に出向いて、適当にズボンを決めて試着室へ。そこで店員さんにお願いして、すそ上げをしてもらうのだが、これが困る。

なぜだか知らぬが、揃いもそろって店員さんたちは、ズボンの丈を踵が隠れるギリギリのポイントにしたがるのだ。ベルトをしっかりと締めていれば問題はない。しかし、ちょっとベルトを緩めていると、気が付かぬうちにズボンの裾が地面にこすれている。

履いている時は気が付かないが、脱いでみるとズボンの裾がこすれたせいで切れているのだ。しかもボロボロに切れているから、ことさらみっともない。

いくら外見に無頓着な私でも、裾がボロボロのズボンを履いているのは楽しくない。暇があれば、自分で勝手に裾を折って縫いこんでしまうのだが、最近は多忙でそこまで手間暇かける気になれない。

仕方ないので、ズボンを新調するが、その際店員さんと必ず裾上げの場所で揉めることとなる。別に踵が隠れなくてもいいじゃないかと思うが、妙にこだわる店員さんが多くて閉口する。それでも、ずうずうしくお願いして、踵ギリギリは避けるようにしている。

別に踵のくるぶしが覗いたって、靴下履いているのだから良いように思うが、どうも店員さんたちからは評判は良くない。なんでだろう?

私は気に入った衣服は長年使い続ける。単に無精なだけかもしれないが、単なる安さよりも、長く安心して着られる方が望ましいと思っている。だから流行だとか、ファッションだとかは気にせず、好き勝手している。

このくらいの自由、認めろとは言わないが、ほっておいて欲しいものだ。

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大津市中二いじめ事件に思うこと

2012-07-24 12:04:00 | 社会・政治・一般
敢えて断言するが、いじめはなくならない。

社会的動物である人は、集団を作らずにはいられず、集団の内部での地位こそが重要なものであることを本能的に知っている。だからこそ、弱い個体をみつけて、いじめの対象とすることで、自らの存在をアピールして、集団のなかに強い地位を保つ。

これは人だけではない。確認されているだけでも、バンドウイルカ、チンパンジーなどにも同様ないじめがあると報告されているぐらいだ。ほぼ本能的な行動ゆえに、いじめをなくすことは出来ないと、私はほぼ確信している。

だが同時に、いじめを止めさせることも出来ると断言できる。簡単なことで、上位の地位者の命令で、いとも容易にいじめは止まる。もともと、集団内部での出来事に過ぎず、集団内の上位者には、強い権限があるがゆえに止めることが出来る。

だが、ここに厄介な障害がある。その障害の名を平等思想という。

この平等思想なる一見、素晴らしい思想が教育現場に踏み込んできたのは、やはり戦後のことだ。教え子を戦場に送り込んだ負い目からか、教職者の多くがマルクス主義の悪しき平等思想に染まった。

マルクス主義はすぐれて政治的な代物で、しかも閉鎖的な性格を持つ。学校という空間を閉鎖させて、内部を治外法権化させるのに大いに貢献したのが、このマルクス主義に染まった教職員組合であった。

私も数人そくざに思い浮かぶが、この平等思想に染まった教師たちは異様なほど、教師と生徒は平等だとの信念を持っていた。簡単に言えば、生徒と友達になりたがる。もっとえいば、壇上から降りてきて、生徒の輪の中に入りたがる。

私が小学生の頃、トラブルになった先生こそが、まさにこの生徒と友達になりたがるタイプだった。当の先生自身は、崇高な思想を自ら実践する喜びに浸っているように思えた。しかし、子供たちの視線は辛辣だ。

教師とは本来、生徒を教え導くものだ。教室という密室内部における最高権力者であると同時に、生徒に勉学を授ける重責を担っている。この責任あるがゆえに、強い権威をもつべき存在なのだ。

その特別な存在が、大人も子供も人としての権利は平等、などと言って壇上から降りてきやがるのだ。教師が自らまとう権威を脱ぎ捨てて、お友達の距離まで降りてきやがるのだ。なんだ、この自信の無さは。

私ら子供には、子供たちを教え導く自信がないからこそ、「僕、お友達だよ。だから言うこときいてね」とヘラヘラ薄ら笑いを浮かべて近づいてくる弱気な大人にしか思えなかった。

私の経験からすると、集団内部における強い地位を望む子供、すなわち「いじめっ子」にとって、この手の「お友達」先生は絶好の鴨である。この「お友達」先生を仲間に引き入れれば、どんないじめだって出来る。こんな面白いチャンス、滅多にないぞ。

現在、さかんに報道されている大津市の中学2年生自殺事件を引き起こしたのは、この手の「お友達」先生と、その先生を利用したいじめっ子だ。いじめた3人は既に転校しているようだ。なかには姓まで変えている奴もいる。親が離婚したのか、はたまた通名なのかは知らないが、ずいぶんと素早い対応だ。

そして、事件が発覚して以来、一度も姿を現さない担任教師。こいつが一番責任が重い。学校内でのいじめを止めることが出来るのは先生だけだ。その先生が、お友達のいじめっ子たちとの関係を重視して、いじめを黙認した。

私は自分で経験しているので分かるが、先生が断固たる態度でいじめを止めさせれば、必ずいじめは止まる。それが出来ないのは、まず間違いなく先生と生徒は平等などとうそぶく、情けない「お友達」教師である。

そして、子供の教育よりも組織の安泰を考える、本末転唐フ学校の最高責任者・校長が、今回はとくにひどい。ひたすらに責任回避、現実逃避に走り、保護者から如何に非難されようと、素知らぬ顔で「なかったこと」にしようと時間稼ぎ。

さらに悪質なのは、いじめっ子たちが転校して逃げ出す時間稼ぎを許した教育委員の面々だろう。もちろん被害届を受理することを避けた警察も同罪だ。当初「いじめっ子」たちの人権を口実に、責任回避を図り非難され、世論の非難を浴びて、ようやく問題があったことを認めだす始末だ。

組織ぐるみで、いじめは隠ぺいされ、子供を自殺に追いやったのが大津市だ。私に子供がいて、大津市の学校に通っていたら、転校さすことを第一に考えるし、大津市に住みたいとも思わない。

いじめって奴は、戦前どころか昔からしばしばあった。あったが、昔は大人がそれを止めた。いじめが悪質化し、暴走し、ついには自殺においやるほどひどくなったのは、戦後の民主主義教育が始まってからだ。

先生と生徒は平等だなんて、先生の責任回避に他ならない。教育現場から、この悪しき平等思想を一曹オない限り、今後もいじめを止められない教師の下でいじめは暴走するでしょう。

だが、教師のやるべき義務を怠っていても、その責任放棄を許す教職員組合ある限り、いじめは止められないと私はほぼ確信しています。実に苦々しく、憎悪さえ感じる確信なのが無念でなりませんね。
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