ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「ど根性カエル」 吉沢やすみ

2008-03-17 16:45:05 | 
精神論を否定しているわけではない。でも、他人から「根性出せ!」と言われて、根性出したことは一度もない。

根性でも気合でもいいが、この手の精神的パワーは大事だと思う。意思の力だと言い換えてもいい。覚悟の底力でもある。巨大な体躯、筋肉隆々の力瘤、走り込みにより絞り込まれた脚力。どんなに体力があっても、それを支える精神力がなければ、あっという間にバテて、へばってしまうのが現実。それは分っている。

分っちゃいるが、いくら怒鳴られても根性は湧き出てはこない。根性の呼び水は、自らの意志でなければならない。

それは自覚の表れでもある。いかなる逆境にあろうと、意思を絞りきり、覚悟を決めて、断固たる決意を持って臨んだ時に、はじめて根性は生まれ出る。

このとき、人ははじめて実力以上の力を出せる。

はばかりながら、怠け者の私は滅多に根性は出さない。要領よく、のらくらと過ごすのが好きで、必要以上に頑張るのが好きではない。

ただし、その気になった時は、自分でも驚くほど根性出せる。病院のベッドの上で、医者に睨まれながら勉強していた時なんざ、異常なくらい集中していた。さりとて、勉強が好きなわけではない。

治る可能性は見当たらず、このまま衰弱して死ぬのを座して待つのは嫌だった。なにか一つでいい、自分が必死に生きた記録を残しておきたかった。だから必死に勉強した。全国模試であっさり一位がとれたが、私は当然と思い歯牙にもかけなかった。ストレスの少ない模試なんて、ある意味楽なものだと分っていたからだ。

問題は本番の国家試験だ。科目合格でいい。何か記録を残しておきたかった。決して病状は良くなかったが、無我夢中で勉強した。主治医と何度も喧嘩をした。勉強のしすぎは、たしかにデーターの数値を悪くした。それでも構わなかった。合格という記録さえ残せば、死んでも良いと考えた。どうせ、治る保証はないしね。

本試験は一発勝負だ。本気で集中しはじめると、耳は何も聞こえず、目は紙面に釘付け。ボールペンを走らす手の動きと、汗を拭うためのタオルだけが、わずかに感覚を残している。数字を追い、文脈を読み、機械のごとく答案をはじき出す。

終えた後の心地よい疲労感だけは、よく覚えている。その後、フラフラしながらタクシーに乗り込み、病院に舞い戻って点滴を受け、主治医のしかめっつらを無視して眠り込む。

半年後、自宅療養中に届いた科目合格の通知書が、私に生きる希望を与えてくれた。どうやら、私にも出来ることはあるようだし、それが可能であることを証明してくれた。私はあの夏の試験のときほど、根性を出したことはない。

子供の頃、人気だった漫画の一つが表題の作品だ。TVアニメにもなり、大ヒットした覚えがある。正直、あまり好きな漫画ではなかった。やたらと「根性」という言葉が使われるのが、妙に不快だったからだ。

当時は、根性ですべてが解決するわきゃなかろうと斜に構えていたからでもある。でも、やはり根性は必要だ。でも、根性は与えられるものではない。自分自身の覚悟と決意が、根性を涌き出でさす。

ピョン吉は、平面という逆境に追いやられたからこそ、根性カエルとなったのだと思う。しかし、まあ、まさか胃薬のCMで再会するとは思わなかった。
コメント (4)
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