ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

夏の終わりに思うこと

2007-08-31 09:30:53 | 日記
子供の頃、八月の青い空はいつも輝いていた。暑さよりも、輝きのほうが記憶に残っている。

だが、いつも青空だった訳ではない。いつまでも輝いていると信じていた空が、にわかに暗雲に覆われた時もある。あれは8月の終わりだったと思う。

いつものように、朝早くから虫取りに出かけ、一日遊びまわり、おやつを食べに家に帰る途中、近所の家の周辺が慌しい。近所の人たちの怒りの声と、その合間から聞こえる嗚咽が、何事かが起きたことを告げていた。

近寄ったが、強引に遠ざけられた。夕方幼馴染みたちと集まり、情報をかき集めてようやく分った。近所の家の青年が、反米軍基地闘争のデモに巻き込まれて、機動隊と衝突して頭をぶち割られて入院したらしい。

米軍基地の隣町だけに、時折デモや闘争があることは私も知っていた。当時はベトナム戦争真っ盛りであり、砂川闘争などもあり、けっこう物騒な事件が起きていることは聞かされていた。しかし、身近なところで悲劇が起きたのは初めてだった。

入院した青年は、植物人間になってしまったらしく、家族の人たちの悲哀があっという間に町を覆いつくした。その青年とは、ほとんど面識が無かったが、お姉さんとお母さんは顔見知りであった為、私ら子供たちでさえ憂鬱な気分に包まれた。楽しかった夏休みは、どんよりとした蒸し暑い憂鬱な雰囲気のなかで終わってしまった。

明るい家族だったと思う。でも、その日以来、暗く陰鬱な雰囲気が漂う家になってしまった。日に日に表情が暗くなり、挨拶するのも辛かった覚えがある。親たちから、決して興味本位でデモを見物に行ってはいけないと、きつく釘を刺された。やがて、私はその町を離れたが、その事件は脳裏に深く刻まれた。

その後十数年たった大学4年の夏だった。既に大半の同級生たちは就職先を決め、最後の夏休みを思いっきり満喫していた。私も山に海にと遊びまわっていた。帰宅すると、同じ学部の友人から交通事故の報を受けた。慌ててその病院に駆けつけた。

そこで見たのは、変わり果てた友人の姿だった。車から投げ出されて、頭を強く打ったらしく、意識がもどらないようだ。救急病棟に入らせてもらい、防菌ビニールの奥に覗ける友人の姿は、私の知っている彼ではなかった。形は同じなのに、生を感じさせない。私は心が凍り付いてしまった。

既に航空会社に内定を貰い、後は無事卒業するだけだったはずだ。遠く九州から駆けつけた母親の姿が忘れがたい。いや・・・その姿を見るのは苦痛だった。見ているだけで、その悲痛な思いが伝わってくる気がした。集まった友人たちも、あまりの衝撃に声を失していた。悲しみの情よりも、怒りの想いがこみ上げてしまう。

結局、植物人間と化した彼が亡くなったのは、それから2週間ほど後のことだった。正直言えば、私はほっと安堵した。あの姿で生かされていることは、決して良いこととは思えなかったからだ。

以来、夏の終わりになると心が疼く。誰にでも死は、必ず訪れる。それは避けられぬことなのだが、叶うなら植物人間状態での死は避けたいと思う。私はあのような姿になって、周囲の人間に苦痛をばらまきたくない。あれは見ているだけで辛くなる。つくづく、そう思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「蔵六の奇病」 日野日出志

2007-08-30 09:30:30 | 
人を見た目で判断してはいけない。

よく言われることだし、私もその通りだと思いたい。思いたいと弱気な言い様になるのは、実際は見た目で判断することが少なくなく、またその判断が結果的に当たることが多いからだ。

もちろん、見た目の印象とは大きく異なり、後日判断を大きく変えたことも少なくない。この場合、当初のマイナス評価が、大きくプラス評価に変わることもあるから、やはり人を見かけで判断してはいけないという警句は相応なのだと思う。

それでもだ、やはり見た目の判断が、その後の付き合いによっても変わらないことも多い。そりゃ、細かいところでの判断の修正は、当然にある。でも、不思議なくらい当初の見た目の判断が、結果的にぶれないことが少なくない。

どうも、他人の目から見た私もそうらしい。それどころか、初めて会う人から、掲示板やブログの文章の印象通りとまで言われる始末だ。どうも、書いている文章からも、また見た目からも、容易に判断できてしまうらしい。

多分、皆そうだと思うが、実際はいろいろと複雑なものがあり、見た目とは大きく異なる自分の中身を自覚しているので、少々複雑な気分である。その一方、見た目通りの自分であろうとする意図もあるから不思議なものだ。

現実問題として、外見というか見た目は大事だ。私は身体を休めたい時は、思いっきりだらしない格好をする。この夏場なんざ、短パンとノースリーブのシャツだけで家で過ごしていた。このほうが、リラックスできるからだ。一方、外出するときは、なるべくキッチリとした格好になるべく努力する。お洒落音痴なのでファッションセンスには自信がないが、せめて清潔さや機敏さは大事にしたいと考えている。

ただでさえ小柄で小太りで、おまけに薄毛なので鈍重愚鈍に思われるのは本意ではない。決して十分ではないだろうが、意識して外見を整える努力は必要だと思う。人間、堕落するのは簡単で、外見からだらしない格好をすると、いとも容易に人は堕落するものだ。

実際、あるNPOの人から聞いた話だが、ホームレスを立ち直らせる際は、まず外見から直すそうだ。髪を切り、風呂に入れ、新しい服を着させる。これだけで背筋が伸び、しゃっきりする人もいるそうだ。外見が人を形作ることは、そう珍しいことではないらしい。

しかし、そうは言っても、なまじっかな努力では変えられない外見のハンデキャップは、たしかに存在すると思う。とりわけ、病気からくる外見の醜い変貌は、時として残酷なまでの厳しい結果をもたらす。

表題の漫画なんぞは、その極端な例だと思うが、初めて読んだ時に感じたおぞましさは未だ忘れがたい。恐怖漫画家としては、かなりのベテランなのだが、読み手を選んでしまう漫画家でもある。一度は読めても、二度は嫌という人は少なくないと思う。それくらい衝撃的な絵を描く漫画家だと思う。

怖さよりも、おぞましさが先立つ恐怖漫画だと思う。多分3回くらいしか読んでいないのに、はっきりの脳裏に絵柄が刻まれた強烈な印象がある。凄く癖が強い漫画なので、気持ちに余裕がある時にどうぞ。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「エンダーのゲーム」 オースン・スコット・カート

2007-08-29 09:26:00 | 
ファミリーコンピューター、通称ファミコンが登場してから、早20年以上たつ。

あまり室内遊びを好まなかった私も、ファミコンではけっこう遊んだ。ドラクエをはじめとしたRPGゲームが中心だったが、たまにはスポーツゲームでも遊んだ。なかでもお気に入りだったのが、野球ゲームであるファミリースタジアム通称ファミスタだった。

PS3やWiiの流麗にして細緻な画面と比べると、ドットが透けて見えるような粗雑な画面ではあったが、実に面白かった。3頭身のキャラが、今となっては懐かしいが、それぞれ癖があり、使いこなす楽しみがあった。

当時はまだ、プロ野球協会との版権もとってなかったため、「すぐる」(カーブが曲がる曲がる、ただしスタミナなし)といった分る人には分る名前を使っていた。私のお気に入りはナムコ・チームのピノ。速い、速い。シングルヒットでも、下手すりゃランニングホームランを狙えた。ただし、打率が低いので滅多に打てない。

あの頃、時々やっていたのが「賭けファミスタ」だ。一試合100円を賭けてゲーム。友人の家で、酒を飲みながら遊んだ。だいたい15分前後で一試合終わるので、丁度良かった。

ところがだ、この遊びに子持ちのママさんが加わると、驚いたことに強い強い。なんでも子供たちとの遊びで馴れているらしく、あっというまに連勝だ。昼間仕事があるため週末ゲーマーに過ぎぬサラリーマン連中は、見事なカモだった。

でも、その強豪たるママさんも子供たちには勝てないそうだ。やはり、あの手のゲームは子供が強い。子供の遊びに対する執念もさることながら、TVゲームのような新しい遊びに対する適用能力の高さが決め手だと思う。

このTVゲームは、現在アメリカ軍では兵士の育成に使われているそうだ。とりわけ操作の難しい軍用ヘリや、今やコンピューターの塊と化した戦車、戦闘機でも、操縦士養成のためのシュミレーター・ゲームとして活用されていると聞く。たしかに効果的な使用法だと思う。

その使用を極限までに高めたのが表題の作品だ。けっこう長編なのだが、最後のどんでん返しは見事の一言に尽きる。あたしゃ、びっくりして思わず本のページをしみじみ眺めちまった。

「やられた~」

参りました、感服です。こんな楽しみがあるから読書は止められませんね。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝青龍バッシングに思うこと

2007-08-28 09:20:40 | スポーツ
私はプロレスも好きだが、相撲も好きだ。

どちらも素人にも分りやすい楽しさだから好きなんだ。以前にも書いたが、プロレスは胡散臭いから面白いと思っている。実を言えば、プロレスの興行の仕組みは相撲を元にしている。元・関取だった力道山が始めた日本のプロレスだから当然といえば当然だ。

どちらも原点は興行にある。支援者がいて、観客がいることが必須の仕組みになっている。間違っても柔道や空手のような武道ではない。相撲の取り組み(試合形式だが)を観て喜ぶ観客あってのビジネスだ。そのビジネスを成立させるためには、会場を使用させる支援者が必要だし、観客を集める宣伝も必要だ。沢山の相撲取りとその関係者を受け入れる施設も当然に必要となる。様々な人たちの協力があって、はじめて成立するビジネス、それが相撲興行だ。

相撲は興行であることを認識しないと、どうしても誤解が生じる。相撲の試合(取り組み)は真剣に行われることが望ましい。望ましいが、それはあくまで喜ぶ観客があってこそだ。試合と呼ばず、取り組みと呼ぶのもそのためだ。観客が喜ぶ取り組みを構成することが大事となる。

やっかいなのは、試合形式をとるため必然的に真剣勝負の趣が重要となることだ。このことが、八百長を厭う風潮を生む。そりゃあ私とて、真剣勝負がかもし出す緊張感と、その結果として素晴らしい試合が観れれば嬉しい。しかし、真剣勝負が常に観て楽しいものではないことも知っている。嘘だと思うなら、幕下の取り組みを観て欲しい。髷もまだ十分結えない若手力士たちの試合は、ほとんどが真剣なものとなる。でも、素人が観てみて必ずしも楽しいものではない。

若手力士たちの真剣な相撲を見ていると、時折素晴らしい試合に恵まれることもあるが、大半はたいして面白いものではない。その点、十両以上の試合になると、力士たちも心得ている。力の入った(ように見える)面白い試合が観れるのも、力士たちが観客を沸かすことを重要だと考えているからだ。

いい取り組みをする力士には、必ずスポンサーがつく。これが力士たちの励みになる。相撲協会からの給与(給金)だけが、力士の収入ではないのだ。

その結果、上位の取り組みは必然的に八百長が蔓延しやすい。下手な八百長は、相撲ファンの私も願い下げだ。しかし、相手力士の怪我を思いやった相撲や、観客の期待に沿うような相撲なら、それが八百長であろうと歓迎する。一方、安易に勝ち負けが決まるような真剣勝負は、観ていてツマラナイので勘弁して欲しい。

ところで、現在マスコミのバッシングを受けている横綱・朝青龍だが、相撲取りとしては歴代上位の必ず残る強者であることは間違いない。確証はないが、八百長相撲も上手いほうだと思う。先々場所のお手つきは、多分皮肉というか意趣返しのようなものだろう。ほとんどの相撲は、十分観客を沸かせるもので、私的には合格なのだ。

ただ、本人の勘違いがあった。日本の大相撲の横綱は、モンゴルのそれとは違う。モンゴル相撲の横綱は、文字通り英雄としての扱いを受ける。しかし、日本ではあくまで相撲という興行のシステムに載せられている。多くの利権が絡む相撲で、その利権の巣窟たる地方巡業をないがしろにしたのは拙かった。

また、朝青龍は相撲を武道的に真剣に捉えているふしがあり、練習であっても厳しい相撲を取りたがる。これが、ぬるま湯につかっている他の力士から嫌われた。当然に大事な弟子を怪我された親方勢も、朝青龍を厭いだす。ただ、一人横綱である時は、皆不満を我慢せざる得なかった。

ところが、本人が怪我から力量が落ちだし、白鵬ら若手が伸びてくると、次第に横綱バッシングが芽吹いてきた。先場所は、その意味で朝青龍自身も必死だったと思う。その場所を優勝したのだから、本人も安堵して気が抜けたのだろう。

親善サッカーなんざ、遊びみたいなもので怪我に影響あるわけない。今回のバッシングの大本は、相撲と言うビジネスの根幹をないがしろにしてしまった本人の勘違いと、相撲にスポーツ的偽善をふりかけるマスコミの横暴だと思う。相撲というのは利権構造の塊みたいなものだ。清廉潔白さとは無縁のビジネスであることを認識すべきと思う。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「月光浴」 石川賢治

2007-08-27 09:19:04 | 
夜も照明が明るい都会に居ると、月の光の妖しさを忘れてしまう。

月の光は妖しい光でもある。一度は死んだ光だと称したのは、作家の京極夏彦だが、たしかにそう思う。太陽が沈み、その明るさを失した夜の暗闇を照らすのは、なにも星だけではない。明るく静かに闇夜を照らす月の輝きほど、人の心を惑わすものは無い。

太陽の輝きは、人の心を素直に照らす。一方、月の輝きは人の心の闇を浮かび上がらせる。月を見詰ていると、妙に妖しい気持ちに誘い込まれる気がする。

統計的に満月前後の夜は、犯罪の発生数が増加するとかいう文を目にしたことがある。本当かどうか未確認だが、案外そうかもしれないと感じている。狼男が月夜の晩に暴れるのも、まったくの偶然という訳ではないらしい。

表題の本は、気鋭の写真家である石川賢治の作品を集めた写真集です。月の光に照らされた、夜の風景だけで構成されています。初めて手にした時の感動は今も忘れがたい。青い月の光だけで写された光景は、妖しくも心静まる不思議なものでした。

当時は年に二ヶ月は山暮らしでしたから、当然に私も目にしている光景なのですが、気がつかなかった。月の光で照らし出された山の風景は、何度も私の目に留まっているはずですが、そこに着目したカメラマンの視線に感動したものです。

同じものを見ていながら、それを見過ごした私と、そこに気がついてクローズアップした石川氏の感性の違いは、私の将来に少し影響を与えました。あの頃は、少々写真に凝っていまして、山岳写真家になりたいなぞと大それた希望を持っていました。が、この写真を見て自身の感性の乏しさに気がつき断念した次第。

石川氏は、その後も月の光に拘った写真を撮り続けています。もし機会がありましたら、是非とも一度は見て欲しいです。その妖しくも静かに輝く光景を目にして欲しいと思います。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする