ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

今年を振り返って

2013-12-30 12:12:00 | 日記

多分だが、平成25年は私の人生で三指に入るほどの悪運に恵まれた年であった。

なんといっても今年2月の心筋梗塞による緊急入院である。このせいで、どれだけ予定が狂ったのか、思い出すだけで頭が痛くなる。更には腎臓結石が追い打ちをかけ、とどめは糖尿病の疑いを指摘されたことだ。

もっとも糖尿は体重を減量すれば、まだ十分余裕がありそうなので治療には至っていない。ただ、医師からは厳しく「今後はご自身の自覚次第ですよ」と釘を刺されている。もう深夜の夜食はやらないと決断せざるを得ない。

実は心筋梗塞をやらかして以降、昨年まで続けていたジョギングと柔軟体操、軽い筋トレを止めていたのが大きな原因だろうと考えている。その癖、甘いものや脂っ気の多いものを食べる習慣はそのままだから太るのも無理ない。

ただ、自分の自覚と努力次第で糖尿病はある程度回避できそうなので、現在試行錯誤しながら減量を実行中である。

私生活が散々であったのは確かだが、それに負けず仕事も辛かった。余裕がまるでない仕事が続いたことが痛い。なにせ心筋梗塞から退院して、その日の午後には仕事をやらざる得なかった。

確定申告という一年で一番忙しい時期にぶつかったので仕方ないが、すぐに法人決算が相次ぎ、更に相続税の仕事に振り回され、休む暇がまるでない。身体的に非常にきつかった一年であったことは間違いない。

そして、その苦労が経済的に報われなかったことが一番辛かった。顧問先の中小企業は昨年以上に赤字決算が続き、黒字決算をたまにやると戸惑うほどであった。梼Yした顧問先もあるし、夜逃げして行方不明の顧客も出る始末である。

仕事をしたのに報酬を頂けない未収の売上の続出は、私の財布を直撃した。「金がないのは、首がないと同じ」とは西原理恵子の言だが、実に身に沁みる金言である。首がないから回りもしない。

そんな辛さを読書で癒したかったのだが、今年はいささか不作の年であった。残念ながら衝撃を受けるような作品にはお目にかかれなかった。むしろ失望のほうが少なくない。

その代表が東野圭吾の「さまよう刃」だ。ずっと読みたいと切望していただけに、この作品の顛末はあんまりだ。ノンフィクションならともかく、フィクションでこんな半端なエンディングは頂けない。ただ作家としての力量の高さは感じ取れたので、いずれ他作品を読むつもり。

佳作として浅倉卓哉の「四日間の奇蹟」を挙げておきます。読んだ当初はけっこう感激したのですが、時間を置いて振り返ってみると、ちょっと演出が臭い。でも熱中して読めたのは確かなので、未読ならば読む価値ありです。

一方、望外な爽快感が味わえたのがドン・ウィンズロウの「ストリート・キッズ」であった。数年前に二作目、三作目をタイトルだけで興味をもって買っておきながら一作目を読むまで我慢していた。待った甲斐があり、これは満足のいく及第点。ただし、二作目三作目を家のどこかに仕舞い込んでしまって見つけられない私が落第。

だらしないにも程がある。

再読では、やはりジャレド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」に尽きる。未だにこの作品を超える知的興奮を与えてくれる本とは出会えずにいる。未読の方は是非ともトライして欲しい。難解というより、その知識の深さ、広さに圧倒され勝ちだが、このような歴史の描き方もあるのだと知って欲しいのです。

マンガに関しても、やはり今年はこれ!といった作品には出会えなかった。ただ、私が以前から注目していた三部けい「僕だけがいない街」がようやく少しだけ人気が出てきたらしい。拙ブログでも紹介した「魍魎のゆりかご」と「鬼燈の島」も機会があったら読んで欲しいです。

後、どうしても一言文句が言いたい。こら冨樫!あんたは季節労働者か?一年近く連載さぼっているんじゃない。映画じゃ誤魔化されんぞ。早く「HUNTER×HUNTER・暗黒大陸編」を再開せい。まったくもって困った作家である。

で、おまけは映画。あまり注目はされなかったようだが「飛べ、ダゴタ」は良かったです。終戦直後に佐渡島に不時着したイギリス軍輸送機と、地元の人たちとの交流を描いた実話の映画化。さりげなく、清濁併せのんだ懐の深さに感銘しました。

さて、来年は絶対、今年より良い年であるはず。根拠はないけど、これほどヒドイ年が続く訳がないので、きっと良いはず。いや・・・良くなってくれないと困ります。まァ、ヒドイ年だといいつつ、元気だし仕事も続いているし、最悪ではなかったのも確か。

ほんと、人生いろいろあるものです。それでは良いお年をどうぞ。

コメント (6)
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徳州会に思うこと

2013-12-27 13:08:00 | 社会・政治・一般

光が眩しければ、その光の作り出す影はより濃くなる。

一代で日本有数の医療グループを築き上げた徳田虎雄は、まさに眩しすぎる光であった。その眩しさゆえに、影も濃い。その一端が今回の息子である徳田毅議員の選挙違反追及につながったと思う。

予め断っておくと、私は徳州会とは税理士としても、また患者としても係わりがない。だから好き勝手書かせてもらう。

私がはじめて徳田虎雄の名前を知ったのは、キリスト教の集いの後のお茶会であった。「医療に差別なし」を謳い文句に24時間診療、医師への付け届けなしを広言し、離島やへき地での医院設立に尽くしている凄い人物だと聞かされた。

その後、この徳田氏は政界に進出したが、九州の小さな選挙区で凄まじい贈賄合戦を繰り広げていると報じられたことを知り、なぜに政治家になりたがるのか不思議に思ったことを覚えている。

その理由が分かるようになったのは、私が仕事で医療法人等の設立業務を担当するようになってからだ。御存じの方もあろうが、病院等の設立は厚生労働省の許認可事業である。それは町の小さな診療所から全国規模の大病院に至るまで、お役所の権限に縛られる。

それだけではない。地域医療の保護の名の元に、地元医師会の秩序維持と利権も絡んでくるので、一筋縄ではいかなくなる場合もある。実際、私が手掛けた仕事でも、何度も県庁の医療課へ足を運び、説明しご理解をお願いし、書類を何度も書き直して医療法人の設立認可を頂いている。

決して大病院ではなく、単なる一人医療法人でさえ、かくも面倒くさい。まして徳州会のように閉鎖的な地方の過疎部へ積極的に病院を設立するような野心的な存在は、さぞかし反発を食ったと思う。

意外に思う人もいるかもしれないが、医師の世界は非常に保守的で、医師会などは新しい形態の病院の進出を煙たがる傾向が強い。その地域ではやっていなかった時間外診療とか、最新の医療技術などで患者を集める若い医師は、後でネチネチと嫌がらせを受けることがあるほどだ。

小さな診療所でさえ、この様なのだから徳州会病院はさぞかし抵抗を受けたと思われる。だからこそ徳田虎雄は自ら立候補して国会議員の座についたのだと思う。厚生労働省と地元医師会の強烈な圧迫に抗するには、やはり政治力が一番だし、既存の政治家に頼むより自ら先頭をきって戦いたかっただろう。

だが虎雄氏本人が政治家でいられた間は良かった。自らが難病で動けなくなり、その後継に息子を据えたあたりからなんとなくおかしくなった。かつては子供たちへは病院を継がせないと公言していたと記憶している。

しかし、自ら病に倒れ動けなくなったあたりから考えが変わったらしい。現在の徳州会を子供たちに継がせるつもりであることは明明白白である。それは自らの事業を継ぐのは、やはり血の繋がった子供だけだと思うのは、なにも徳田氏だけではない。

今回の徳州会への攻撃も、かつて虎雄氏を信奉し、グループの中核において活躍したが現在は排除された人たちの反撃なくしてあり得なかった。身内をあまりに偏重し過ぎてしまった弊害だと思う。

選挙違反を追及するのはいい。だがへき地医療に功績ある徳州会に救われた過疎地の患者は数知れず。なぜに徳田虎雄は政治に力を得ようとしたのか。自らが動けなくなったら子供にまで政治家への道を歩ませたのか。

ここを追及しなければ、徳田虎雄は死んでも死にきれないだろう。

失政続きの厚生労働省の医療行政があるからこそ、徳田虎雄は政治を目指した。今回の徳田バッシングを単なる選挙違反に貶めると、むしろ却って弊害を残す。

毎日お忙しいマスコミ様、とりわけ大メディアの新聞、TVでは、そこまで追求するお時間はないかもしれません。どなたか真の志をもつジャーナリストに、医療行政と徳田虎雄の確執を真正面から捉えての報道をお願いしたいものです。

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ルパン三世 モンキー・パンチ

2013-12-26 12:03:00 | 

誰もが知っている著名な作品なのだが、原作を読んだことがある人は案外少ないと思う。

実は漫画アクション誌上に連載されていたのは、1967年から69年までの三年あまりに過ぎない。面白いアイディアだと思ったが、当時小学生だったので単行本さえ読む機会は滅多になかった。

しかし、読んでみて驚かされたのは絵柄の個性。アメコミとも劇画とも異なる長身痩躯のキャラクターは、あまりに印象的過ぎて忘れがたい記憶を残した。ただ、作品自体は、けっこう暗めのストーリーに思えたのは、後のアニメが違い過ぎたからだろう。

そう、人気が出たのはやはりTVアニメとして放送され出してからだ。放送時には中学生であったが、どちらかといえば大人向けのアニメであることに驚いた覚えがある。ただ、いつのまにやらキャラクターの性格やストーリー展開が明るくなっていたの違和感を感じた。

これは初期のルパン三世を観ていた人でないと感じない違和感だと思う。後で分かったのだが、TV局のアニメ制作部門と著者との間で話し合いがもたれ、子供向けにだいぶ変更をしたらしいのだ。

元々ルパンの敵方として現れた五右衛門なんて、いつのまにやらルパンの仲間と化し、ニヒルなガンマン次元に至っては、その渋さがお笑いネタになるキャラに堕してしまった。

そして、世紀の大泥棒ルパン三世は本来の闇社会の住人から脱して、明るいオバカキャラを演じるようになり、子供たちの人気に火が付いた。この人気は長く続き、現在では青山剛昌の人気漫画のTV版「名探偵コナン」とコラボされて映画化されるほどである。

元々の原作で暗く光っていた犯罪者ルパン三世は、今ではその痕跡を探すのも難しいほどキャラクターが変わってしまっている。きわめて個性的な絵柄を特徴としていた作者であるモンキー・パンチは、けっこう不満なのかと思っていたらそうでもないらしい。

ファンの間では名作として名高い「カリオストロの城」が人気を博した時も、もはや私のルパンではないと云っていたようですが、「デッドオアアライブ」で自ら監督を務めながらも、かつてのダークな雰囲気をまとった犯罪者ルパン三世の姿は描けなかった。

もはやルパン三世は、作者の手を離れて自由に出来ないほど巨大な人気キャラクターと化してしまった。だから原作漫画で描かれた敵を背後から撃つ抜いて、ニヒルに笑うルパン三世をTVに出すことは出来なくなっていた。


現在のモンキー・パンチ氏は漫画製作から離れて、某大学の講師をしているそうだが、子供たちの支持を受けてルパン三世が変わるなら本望だと述べていたと聞いたことがある。どこまでが建前で、本心はどうなのかは不明だが、ルパン三世の稼ぎは彼を十分満足させるものであったのだろう。

でも機会があったら是非一度は原作漫画に目を通して欲しい。TVの明るくてコミカルなルパンとは、まったく別人の犯罪者ルパンに驚かされると思いますよ。

余談ですがルパン三世といえば峰不二子。でも子供の頃はどこがイイ女なのか、さっぱり分からなかった。大人になってようやく分かりましたね、あの手の悪女の魅惑という奴が。まァ、知らずに済んだほうが良いのは間違いないのですがね。

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猪瀬・前東京都知事への攻撃

2013-12-25 11:58:00 | 社会・政治・一般

ああ、厭らしい。

断っておくと、私は猪瀬・前東京都知事の支持者ではない。それどころか、今回の徳州会からのお金は、間違いなく政治資金であると確信している。しかも東電病院からみの贈賄の可能性さえある。政治資金規正法にのっとり厳密に処分して欲しいと思う。

とりあえず、19日に辞職はしたが、疑惑は残る訳でその追及も怠って欲しくない。かつて追及する側にいた御仁だけに、追及される側に回った際の逃げ道はよく知っているはずだ。傲慢に過ぎた石原都政の後継者らしい末路でもある。

それでも、厭らしいと思うのは、いい気になって猪瀬を弾劾している政治家やマスコミ様である。相手が抵抗できないと分かっているから、ここぞとばかりに責め立てる。

責めて当然かもしれないが、その態度が見苦しい。よくもまあ、あれほど偉そうに責め立てることが出来るものだ。弱い相手にだけえばることが出来る、情けない虐めっ子に見えて仕方ない。

特に新聞やTVが厭らしく思える。彼らは本当に怖い相手、強い相手にはダンマリを決め込む。ペンは剣よりも強しと言いつつ、実際は剣が振りかざせないと知っている場合だけ、ペンを振り回す。

今までだってそうだ。某宗教団体の関与が疑われた議員の自殺疑惑はどうなった。あるいは日本に長期滞在する外国籍の人たちで構成される某圧力団体の資金疑惑はどうなった。はたまた、某右翼の大物に資金提供していたと疑われたあの超大物政治家への追及はなぜ止めた。

弱い相手には高飛車に偉ぶるが、怖い相手だとすぐにひっこむ報道の自由を行使して、恥じる事のないマスコミ様には恐れ入る。

私はアンチ石原都政であったので、当然にその路線を引き継いだ猪瀬は好きになれない。でも、それ以上に、プライドは高いが根性はないマスコミ様の偉そうな姿勢が大嫌い。

まったくもって不愉快千万である。

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話しを聞かない男、地図を読めない女 アラン・ビーズ&バーバラ・ビーズ

2013-12-24 12:05:00 | 

20世紀において最も流行った思想の一つが平等だと思う。

なかでも男女平等ほど性質の悪いものはない。

断っておくと、私は機会均等という意味での平等なら強く支持したい。しかし結果の平等には断固反対する。女だからと言って、機会を与えないのはおかしい。チャンスさえあれば、それを活かせることだってあるからだ。でも男女が同じでなければならないのはおかしいと思う。

現実問題、高度産業化社会では男女差よりも、その個人の能力の差が重要となる。高度な訓練(学業や労働経験)を積んだ人材に、個人の能力差はあるが、男女の差異はないと思っている。

しかし、だからといって男女が平等な能力を持つとは考えていない。むしろ異なる能力を持つものだと認識したほうが、より効率的に人材を活用できると考える。

実際、男女の能力にはかなり違いがある。例えば地図の認識能力は男性のほうが優れている。平面の地図から実際目にしている風景を照らし合わせて、現在位置を把握したりするのを苦手とする女性はかなり多い。

また車の運転でも違いがある。これは統計調査などからも分かっているのだが、交差点内での事故は圧倒的に男のドライバーが多く、逆に女性は少ない。これは男性が直線方向に視野を向けがちなのに対し、女性は広く視野をとる傾向が強いためだ。

ところがこれだけよく見ているのに女性は概ね縦列駐車は苦手だ。ハンドルの動きと車の動きの連動を把握したうえで、周囲の状況に合わせて車を適切な位置に動かす縦列駐車は、だいたい男性のほうが得意である。

もちろん訓練を積めば、このような違いはある程度解消できるが、統計値でみるとはっきりとした傾向が出てくる。同じものを見ているはずなのに、なぜか男と女では見ているものが違う。

この違いはかなり顕著で、パーティや会合などに顔を出すと、男性はそこで何が行われ、何が決まったかなどは良く認識している。しかし、誰が出席し、その時どのような服装で、どのような態度でいたかはまるで覚えない。

ところが女性は、誰がなにを喋り、誰と集まり、どのような雰囲気であったかを瞬時に把握する。当然のように服装のチェックも厳しく、かつ人間関係まで推察する慧眼ぶりを発揮する。

何故にこのような差異があるのか。この疑問に科学的アプローチで挑み、それを難しい用語を避けて分かり易く解説したのが表題の書だ。かなり売れた本であり、いろいろ物議を醸したようだが、概ね受け入れられたと思う。

しかし、未だに男女平等を結果の平等の観点から美化する人は少なくない。

もっと現実を見ろと言いたい。男と女は違う、違って何が悪い。違うからこそ惹きつけられる。違うからこそ、互いの共通点を大事に出来る。現実にそぐわぬ平等は、むしろ人を不幸にすると私は思うぞ。

コメント (2)
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