ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

医療過誤に思うこと

2007-11-30 09:29:40 | 社会・政治・一般
ニュースなどでも度々報じられているが、現在産科医が激減している。

実際、私どもの事務所でも開業医で産科を掲げるクライアントは、今や一件もない。幾人かの若手医師に話を聞くと、皆一様に訴訟リスクを口にする。出産という行為は、一般に思われているよりも遥かに危険性を孕んだ医療行為になることが多いそうだ。

妊娠から出産まで、定期的に診察を受けた妊婦ならば、それほどリスクは高くない。事前の検査などで危険なリスクは予見可能だから。しかし、それでも100%安全ではないという。いかなる場合でも、予期せぬアクシデントの生じる可能性はあるのだから、当然だと思う。

困るのは、出産間際に突然訪れる妊婦が増えていることだと言う。経過が分らないので、リスクは急増し、安全な出産に自信が持てず、出来るなら断りたいくらいだそうだ。出来るなら、設備の整った大病院に回したいと、ある若い医師は真顔で主張した。医師が助けを求める患者から逃げるのかと、不信感を持つ人は多いと思うが、それ以上に医師は患者とその家族に不信感を持っている。

医師の不信感の背景にあるのは、道理をわきまえぬモンスター・ペアレンツの存在がある。かつて、出産における事故(死産とか)は、そう珍しいものではなかった。ただ、当時は多産であったので、あまり目立たなかったし、親もそれほど大騒ぎすることはなかった。

しかし、現在のように子供が少ないと、親の子供に対する期待は飛躍的に増大する。出産の事故なんぞ、断固認められないと依怙地になる親が急増している。おまけに、昔より医療技術の向上があり、死産にならざるえないケースでも無事出産できたケースが知られている。生半可な知識が、医師に無理難題を押し付けるようになった。

未だ合理的な解明はされていないが、都市文明が成熟した先進国では子供の出生率が低下するようになる。だからといって、出産がすべて無事になされているわけではない。おそらく出産時による死産等は、途上国のほうが多いだろうが、それでもその後の出産で子供の数は結果的に増えている。しかし、先進国では出産以前に、妊娠率自体が減少している。どうしても、出産時の事故は目立つ。

その結果が医療過誤訴訟の増大だ。小さな町の診療所なら、裁判に勝とうが負けようが、この裁判一発で評判はがた落ちして、廃業まちがいなし。開業を目指す医師が、産科を避けるのも当然だと思う。

もう一つの問題は、医師の対人能力の低下だ。成績が良いがゆえに医師になった、あるいは親に求められて医師になった結果、医師の人間性に問題があると思えるケースをしばしば散見する。データーを説明することは出来ても、患者の気持ちを納得させることが十分にできない医師が増えたと思う。

私は二十代の頃、2年あまりを大学病院の病棟で過ごした。インターンと呼ばれる研修中の若手医師を何人も見てきたが、ろくでもない奴がいたのは確かだ。ある若手医師は注射を失敗しても、謝りもせず「針がオカシイ」とつぶやくだけ。何度も刺されて腕が腫れ上がったのを看ると、急に立ち上がってナースステーションに駆け込む。しばらくすると、中堅の医師が申し訳なさそうにやってきて、謝りながら一発で終わらせる。

そんな場面を何度も見てたので、その若手が当番の日には、私は注射の時間には逃げ出して、後で看護婦さんにしてもらっていた。彼女らの方が上手いのを知ってたしね。

誰だって最初から上手いわけない。たとえ失敗しても謝りながらも必死で努力しているのなら、私だって我慢する。しかし、謝りもせず「注射器の針がオカシイ」では納得いかない。オカシイのはお前の腕だ。それ以上に人間としてオカシイだろう。

こんな医師が、ようやく妊娠した待望のわが子の出産に失敗したのなら、当然医療過誤として訴えたくなる気持ちも分る。

私は長く難病を患っていたので、医療が完璧ではないのは理解している。しかし、心無き医療過誤を怒るのは当然だと思う。多分ね、これからも増える一方だと思う。厚生労働省の対応策は、この問題から逃げている。診療報酬の点数の問題では断固ないぞ。
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「空の境界」 奈須きのこ

2007-11-29 09:49:54 | 
最近、気がついたのだが日本のSF小説に元気が無い。

サイエンス・フィクションは空想科学小説と訳されてきた。私が子供の頃は、科学に夢があった。超光速飛行やブラックホール、多次元宇宙に多種多様なエイリアンたち。

科学はどんどん進歩した。新たな解明が進み、既存の学説が塗り替えられ、未来は果てしなく拡がっていく・・・はずであった。いつからだか不明だが、次第に悲観的な未来論が、深く静かに広まってきた。

科学は本当に人類を幸せにするのか?

そもそも、科学は万能なのだろうか。未来のエネルギーであるはずの核融合は、まだまだ実用化には程遠い。既に石油の枯渇が予測されてなお、石油を完全に代替するエネルギーは発見されていない。かつて、あれほど光り輝いた宇宙開発さえ、現在は足踏み状態となっている。

携帯電話やパソコン、遺伝子治療、バイオ・テクノロジーと次々とかつてのSF的アイディアが実現しているのに、果て無き科学の未来は見えてこない。

だからこそだと思う。ファンタジーや伝奇ものがフィクションの世界で急速に増えてきている。「ハリー・ポッター」シリーズの世界的ベストセラーは、決して偶然ではないと思う。

日本だと、伝統的な伝奇ものが復活し、新たな展開をみせてきている。その代表ではないかと思われるのが表題の著者、奈須きのこだ。ゲームのシナリオ・ライター出身だというのも、なかなかに新味を感じる。

いつも思うのだが、伝奇が面白くあるためには、普通の日常的光景がうまく書けていなければいけないと思う。その点からすると、奈須きのこはちょっと弱い。異常な世界、異常な人物を描く手法は上手いと思う。ただ、それに対峙するはずに、平凡たる日常の描写が少し甘いと思う。

それでも面白いと思うのは、主人公に寄り添う平々凡々たる青年の、尋常ならざる温和さだろうか。恋は人を盲目にするみたいだが、無自覚に無作為に純情であることは、特殊な異能さえ無効にするのかもしれない。

なお、本の帯の「新・伝碕」の新は、おそらく今までになかった魔法に関する解釈を指すと思う。あの魔法解釈は、たしかに新しい試みだと思うし、けっこう面白かったのは確かです。むしろ巻末の笠井潔の解説は、ちょっと余計かも。あれは分る人にしか分からない解説だわな。

伝奇小説がお好みなら、手を出して後悔することはないと思う。まあ、私としては期待値の88%程度でしたが、それなりに楽しめました。
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「邪馬台国はどこですか」 鯨統一郎

2007-11-28 12:02:17 | 
本は好きだが、最近の本には少々長すぎるものが多い。

長くとも面白いから、読むのを止めるわけにもいかず、困ったもんだと複雑な笑みを浮かべて読んでいる。だからこそ、表題の本の短さは、むしろ新鮮に感じて実に楽しく読ませてもらった。

いくつかの章から構成されるが、中でも白眉なのが表題の章だった。今まで幾つもの「邪馬台国はどこか」をテーマにした本を読んできたが、これは斬新だった。まあ、仮定の一つが崩れると、全体が崩壊してしまう危うさはあるものの、面白い論議であることは確かだった。

「聖徳太子はだれですか」などは、あかひでさんのブログなどでいくつかの試論を読んでいたので、非常に楽しく読めた。もっとも、織田信長自殺論には少々閉口したが、興味深い指摘だとも思った。私は歴史資料の原典にあたるだけの力量はないので、その真否について語ることは出来ないが、歴史好きの一人として、このような試みは実に楽しい。

スナックにおける歴史好きのメンバーによる議論という形式をとっているので、必然的に話が長くならないのが魅力的。茶のみ話的な軽さが、論議のテーマの難しさを感じさせずに済ませている。こんな形の歴史ミステリーも悪くない。

文庫本でも出ているので、通勤ラッシュのなかでも気軽に読み切れます。軽い気持ちで、歴史談義を楽しみたい時には、うってつけの一冊ですよ。
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三年目

2007-11-27 09:27:44 | 日記
このブログも三年目に突入しました。ご拝読ありがとうございます。

ちょうど、2年前のこの日に始めたブログでした。AOLが掲示板に字数制限をつけたのが気に食わず、止む無く始めたブログでした。まさか、これほど続くとは自分でも驚きです。

基本的には休日以外は、更新するように努めています。ただ、読み返すと、少々波があるというか、手抜きして書いているような日もなきにしもあらず。また、勢いで書いて、論獅ノ矛盾を抱えた駄文も多々あり、お恥ずかしい限りです。

このブログを始めて良かったと思えるのが、読書量が増えたことでしょうか。元々本好きですが、読みたい時に読みたい本を読みたいだけ読む、我が侭な本好きでした。しかし、このブログのために継続して、一定時間を読書に費やすようになったため、必然的に読書時間が増えたのは喜ばしい限りです。

反面、読みたい本が次々と増えてしまい、部屋の片隅に未読の本が山となす事態となったのは悩ましいところです。また、コメントを戴ける方々のブログを読んで、更に読みたい本が増えるのも嬉しいやら、辛いやら困った悩みでもあります。まあ、贅沢な悩みでもあるので、愚痴もほどほどにしましょうか。

一方、改善どころか、悪化の一途を辿っているのが、ネットの接続時間です。以前、一回15分以内で、一日30分と目標をたてたのですが、まるで守れていません。目標の設定に無理があったのかとも思いますが、ついつい閲覧に時間をかけてしまい、漠然と時間を費やす自分に悩んでいます。

楽しいから、ついつい時間を浪費しているのでしょうが、楽しいだけでは充実しない。少し安易に流れ勝ちだと反省しているところです。もう少し自分に厳しくあらねばなりませんね。

文章も徒に長文が増えています。もともと文章修行のつもりで書いているので、これではいけないと思います。もう少し推敲に時間をかけて、コンパクトにまとめることを目指すつもりです。

なんだか、反省点ばかりが思い浮かぶ2年間でした。最後になりますが、読んでいただける方々があってのブログだと思います。改めて感謝の意を表したいです。今後とも、宜しく御願い申し上げます。
コメント (19)
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「パンツをはいたサル」 栗本慎一郎

2007-11-26 09:22:31 | 
80年代から90年代にかけて、思想論というか、社会評論があだ花のように花開いた時期があった。浅田彰や栗本慎一郎らがやたらと小難しい議論を重ねていたのを、私は醒めた目線で眺めていた。

科学的思想といわれたマルクス主義が輝きを失くしたがゆえに、その総括と今後の展開を睨んだ動きだと思うが、あまりに難解で私のような庶民には縁遠い議論であった。事実、彼らの熱い論戦は、決して市民レベルまでには拡がることはなかった。

所詮象牙の塔のなかの論争であり、知識は実用に供されてこと価値があると考えていた私は、表面をなぞるような読み方で、読み流していたものだ。白亜の塔のなかで満足していた浅田らと異なり、表題の著者である栗本慎一郎は、自分の言葉が庶民に拡がらないことを不満に感じていたのだと思う。

彼なりに、分かり易く彼の思想を説いた本が、一世を風靡した「パンツをはいた猿」通称パン猿だった。浅田らの高尚な議論は、さっぱり関心を持てなかったが、この本は分かり易く書かれただけに、けっこう熱心に読んだ覚えがある。

もっとも、私が関心を持てたのは彼の歴史認識であり、都市論の一部だけであった。面白い認識だと思ったが、だからどうなんだ?との疑問も拭いきれなかったのも事実だ。所詮、議論は議論。知的娯楽としての認識に留まった。

どんな知識も現実社会に運用されるものでなければ、それはたいした価値を持たないと思う。その意味で、イスラム教とマルクス主義はたいしたものだと思う。もっとも、私自身イスラム教徒になろうとは思わないし、既にマルクス主義とは決別していたが、それでも栗本教授の指摘は面白かった。

読者としては、面白いだけで十分だったが、栗本先生は満足できなかったようだ。だからこそ、国政選挙にうってでたのだと思う。私は学者先生になにが出来るのだろうと疑問視していたが、なにもしないで議論するだけよりはマシだとも思っていた。

残念ながら、本人の健康問題もあり、政治家栗本慎一郎は短命に終わった。彼の論敵の一人であった舛添氏が、その後政界入りしたことに、少々複雑な心境でもあろうと思う。

わざわざ象牙の塔を飛び出して、薄汚れた俗世間に身を投じた栗本慎一郎に対する私の評価は複雑なものにならざるえない。いくら努力しても、それが結果につながらなくては意味がないと思う。思うが、その意気をよしと思わなくも無い。最近では噂さえ聞かない浅田彰ら学者さんたちが、身を汚さず、俗世間から距離を置いていることを思うと、判官びいきをしたくなる。

政界入りする前に、続編「パンツを脱いだ猿」を刊行しているが、正直言って不満の残る内容だった。もう一度、私を知的に興奮させて欲しいと思う。
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