ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

殺戮の野獣館 リチャード・レイモン

2009-09-30 12:11:00 | 
史上最低の傑作。

この本の帯に書かれた言葉に惹かれて読んでしまった。マキャモンやクーンツを多く出している扶桑社ミステリーだけに、それなりに期待したのも確か。

しかし、まあ、驚いた。官能小説か?サイコ?ホラー?エログロ・ナンセンスなのか?とにかく驚愕のエロス&ヴァイオレンス小説。アメリカ版友成純一(エロ・グロ作家です)ってところでしょうかね。

つまるところ幼児強姦魔VS精力絶倫野獣。しかもオチがあんまりだ。おい!こんなエンディングでいいのか?と思わず突っ込まずにいられない。

大丈夫、ちゃんと続編「復讐の野獣館」がある。こちらも前作に輪をかけてお下劣。

あまりのストーリーと下劣さに、長いことお蔵入りされていた作品。欧米の出版社は案外保守的なので、このような奇書はなかなかに受け付けないらしい。

まあ、普通の良識或る社会人なら、表向き断固拒否するわな。

でも、ありきたりのモダンホラーに飽きた人。現実には御免だが、安全な場所から、ちょっとだけ異常な世界を覗き見してみたいなら、読む価値あるかも。

私?

~ん、実は再読してない。読んだのは十数年前だが、未だに覚えている怪作なのだ。なんだか人間の心の奥底のおぞましい部分に働きかける気がして、読む気になれない。

そんなわけで、これはお薦め出来ないモダンホラーです。

読まないように。読んだ後で恨まれそうで浮「です。
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サザエさん 長谷川町子

2009-09-29 12:17:00 | 
日曜日のTVはツマラナイ。

今でこそTVはほとんど観ないが、子供の頃は当然にテレビっ子であった。しかし、日曜日の午後は面白い番組は少なかった。競馬だのゴルフだのは、家でゴロゴロしていたい大人の男性にはいいのかもしれないが、子供には退屈そのものだ。

で、夕方になると定番のようにアニメ「さざえさん」が始まる。穏やかな歌声で「お魚咥えたドラネコ、追いかけて~♪・・・」とテーマソングが流れ出すと、子供たちはTVの前に集まったものだ。

ただ、私はあまり好きでなかった。嫌いとは言わないが、積極的に観たいとは思っていなかった。ただ、他に見るべき番組がなかったので、やむを得ず観ていた。

やがて読書に夢中になるようになると、TVは妹たちに任せて、私はベッドで寝転んで本を読むようになった。そんな訳で、国民的アニメと言われた「さざえさん」はあまり観ていない。

では、原作の漫画は?これはほとんどお医者さんの待合室で読んだと思う。医者に行くのが好きだったわけではないのと同様、漫画で読む「さざえさん」も好きではないが、時間潰しに役立った程度の印象しかない。実際、覚えているエピソードがほとんどない。

別に確認をとったわけでもないのだが、あの頃好きな漫画に「さざえさん」を挙げる子供ってどれだけいたのだろう。多分、多くはなかったのではないかと思う。

強いて言えば、家族で安心して観ていられる漫画であることにこそ、意義があったのではないか。家族=安心といった枠にはまった漫画、それが「さざえさん」であったと思う。

実のところ、家族は常に変化する。子供は大きくなり、いつまでも子供のままではいてくれない。夫は地位が上がるにつれ家庭での役割を減じ、妻は家庭での役割に不安と不満を感じざるえない。

それでも家族にとって家庭は安心して帰れる場所であって欲しい。現実とは裏腹な理想を体現した漫画、それが「さざえさん」であった。だからこそ長く続いたのだと思う。
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セルロイドの息子 クライブ・バーカー

2009-09-28 13:47:00 | 
別に浮「ものが好きなわけではない。

幼い頃から何度も怖い思いはしているが、決して怖がることを楽しんでいたわけではない。海に溺れそうになり、身体が硬直した経験は二度と御免だ。あるいは野犬の群れに囲まれて、獰猛な吼え声に怯えた時の感覚は今も脳裏に刻まれている。

恐怖が身体を縛り、怯えが自尊心を踏みにじり、動揺して声が裏返る。まるで自分が自分でないかのような喪失感。口が裂けても、怖いことが好きだなんて言えるはずがない。

霊感に乏しい私は、お化けとか幽霊などに直に怯えた経験がない。だからといって、怖くないはずないと、妙な確信をしている。きっとお化けに直面したら、ブルブルと震えて惨めに縮こまるに違いない。

だからこそ、安全な場所から恐怖を疑似体験できるホラー小説はありがたい。

幸いにしてキング、マキャモン、クーンツといったモダン・ホラーの大家の作品が多く出ているので、私はどっぷりと恐怖の疑似体験を満喫できる。

そんなホラー小説好きの私だが、いさかさ苦手に思うのがイギリス新進気鋭のホラー作家であるクライブ・バーカーだ。なにせ血と臓物を撒き散らす名人だ。死霊に現代風の味付けをしてふるまう名料理人なのだ。

快適な布団に包まれて朝を迎え、目を開けると隣に腐敗した内臓がむき出しの死体が、にやりと笑いかけているような驚愕がバーカーの持ち味だ。平凡に暢気なヌマンタ、ビックリの恐怖劇場の幕開けなのだ。

そんな訳で、好きなホラーだとは言いがたい。でも、ホラー小説の醍醐味を味わいたいなら、是非とも食すべき定番料理でもある。

表題の作品は「血の本・シリーズ」の第三作目。ちょっと怖い思いを味わいたいなら最適の一冊です。興味がありましたら如何でしょうか。
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クライマーズ・ハイ 横山秀夫

2009-09-25 12:21:00 | 
そこに山があるからだ。

高名な登山家が新聞記者の、「なぜ、山に登るのか」との問いかけに対して答えた科白だとされる。この答を高尚なものだと理解するのは自由だが、実のところは面唐ュさくて適当に答えたのではないかと、私は疑っている。

私自身、何度も何度も悩んだ問題でもある。なぜ、こんな苦しい思いをいをしてまでして、山に登るのか?

肩に食い込むザックの重さに苦しみ、激しい疲労と熱い呼気に喘ぎ、まだ着かないのかと不安に駆られた急な登山道。脳裏を駆け巡るのは、冷たいジュースであったり、快適なベッドでの休憩であり、自然を楽しむなんて余裕はまるでなかった。

登頂に成功した達成感はたしかにあるし、爽快な展望に心洗われる感動はたしかにあった。だが、その喜びを相殺するかのような苦しい思いも何度なく味わっている。

なんで山に登るのか?

正直、今でも完全な回答を自らの裡に見出してはいない。ただ、長距離ランナーの脳内に生じるとされる、脳内麻薬の分泌によるランナーズ・ハイと同様な、クライマーズ・ハイが実際にあることは、私自身何度も経験している。

重い荷物に喘ぎつつ、脳裏を駆け巡る様々な悩み。実際、驚くほどいろいろなことを考え、悩み、模索している。身体は急坂をのぼりつつ、頭の中では自分一人で会話を交わしている。独り言とは違う。私は一人脳内対話だと名づけていた。

脳内対話の中味は、必ずしも登山に関連するとは限らない。むしろ山とは関係のない悩みであることが多い。友達との諍いであったり、報われぬ恋の悩みであったり、あるいは不安渦巻く将来への展望であったりと一貫性はない。

だが、肉体的な苦痛がある一定段階を超えると、もうなにも考えられなくなる。決して苦痛ではない。それどころか脳裏に白く輝く世界が感じられる快感。まるで別世界へ跳躍したかのような錯覚を感じることさえある。これが所謂脳内麻薬の効果なのだと思う。

悩みの根幹が解決したわけではないが、山を下りた時には、かなり気持ちが落ち着いてたのは何度も経験している。これが目的ではなかったと思うが、山には息抜き、あるいは癒しの効果があったように感じたことは何度もある。

夢中になれることがあるのは素晴らしいことだと思う。今はもう、山に登れなくなった私にとって、なにかに夢中になれる瞬間はそう多くはない。

仕事は必死だが、ワーキング・ハイの経験はない。だがリーディング・ハイならあるかもしれない。読書に夢中になり、降りるべき駅さえ忘れるほど引き込まれる。そんな本は決して多くはない。

表題の作品は、その数少ない実例だ。実際読むのに夢中になり、私は駅を降りるのを忘れて終点の駅まで行ったことがある。帰宅時だったので、誰にも迷惑かけなかったのは幸いだった。

ただ、降りるべき駅を忘れるなんてみっともないのは事実だ。それでも私は全然、後悔していない。それくらい面白かった。さすがに再読時には、駅を乗り過ごすような失態はしないが、それでも満足のいく読後感だった。

映画化されたと思いますが、私は絶対観ない。だって、本で読んで得たイメージを大切にしたいから。
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漫画の時間 いしかわじゅん

2009-09-24 11:33:00 | 
漫画という表現手段が確立したのは、やはり20世紀に入ってからだと思う。

それ以前にも絵による情報伝達はなされていたが、メディア(情報伝達手段)として完成したのは、やはり20世紀だと思う。もちろん世界各地にあったが、日本とアメリカほど漫画が極端に発達した国はない。

アメリカのパルプマガジンに掲載された漫画は大量に売られたが、子供向けと低く見られてしまい、発展することがなかった。またディズニーによるアニメーション映画でなされた画期的な映像表現は素晴らしかったが、アメリカの市場がそれを子供向けと決め付けてしまったことが発展を阻んだ。

漫画の魅力は絵によるストーリー展開であり、国語力が低くとも理解できることでもある。そのために子供向けとして低い評価となった。

ところが不思議なことに、世界屈指の識字率を誇る日本において、漫画は単なる子供向けに収まらず、大人にも楽しめる娯楽として極度に発達するに至った。

漫画なんて子供向けのものだと考えているのが、世界の人々の常識だと思う。しかし、日本では大人までもが漫画を楽しむ。しかも列車の中など公衆の面前でも恥じることなく漫画を読む。

これはしばしば外国人の間で侮蔑の対象とされてきた。しかしながら、日本の漫画が翻訳され、広く世界に流布されるようになると認識は変りつつある。今では本場の漫画をもとめて来日したり、漫画の原本を読むため、日本語の勉強をする外国人もでてきている。

現在では国内の出版物のうち3割近くを漫画が占める。漫画を読んだことがない人のほうが珍しいほどに普及している。
にもかかわらず、漫画評論のレベルは高いとは言いかねる。

私が初めて漫画評論に出くわしたのは、共産党の機関紙である赤旗であった。想像はつくと思うが、イデオロギー的見地にたった漫画評論であり、評論というより共産党思想普及のための宣伝文に堕していた。

他にも週刊朝日などの雑誌にも漫画評論が載ることもあった。しかし、大半が漫画の娯楽性を認めつつも、その低俗性を指摘して貶め、漫画そのものを真っ当に論じたものは少なかった。

比較的マシな文章を書いていたのは夏目や呉あたりだが、やはり高所に立って漫画を論じる感は否めなかった。それでも正面から漫画を評論の対象としただけでも評価していい。ただし、いたし方ないことだが、文芸評論家の立場で論じたものなので、共感を呼ぶようなものではなかった。

表題の作品は、漫画家のいしかわじゅんが書いた漫画評論集だ。私が初めてまともな漫画評論だと認めた作品でもある。元々は漫画家である著者だけに、漫画の技法にも理解があり、作画者の立場からも論じた手法は実に新鮮だった。

この評論本が刊行されたのは90年代のことだが、本当の意味での漫画評論は、この本から始まったといいたいほどの完成度だ。なにより漫画家としての立場と、漫画ファンとしての立場のバランスがいい。

単に文芸評論という観点ならば呉や夏目も十分なのだが、漫画に対する愛着が違う。作り手の苦悩と読み手の喜びの両者を踏まえた上での評論だけに説得力が違う。

本人は不本意なようだが、私は著者を漫画家としてより、文章家として高く評価していたので、その意味でも満足のいく作品であった。漫画がお好きなら、一度は目を通して欲しいと思います。きっと、楽しい時間を過ごせますよ。
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