ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

朝日新聞の矛盾

2006-06-30 09:33:40 | 社会・政治・一般
笑ってしまった、それも皮肉な笑い。

水曜日の朝日新聞のスポーツ欄のコラムに、今回のサッカー日本代表には「誇り」が足りないとの趣獅フ記事が記載されてました。相変わらず素直じゃないね、「誇り」などと誤魔化さずに「愛国心」と書きなさいな。同じ紙面には、今回はレーマンに正GKの座を奪われたドイツのオリバー・カーンの愛国心が語られているから、なおのこと可笑しい。

別にサッカーに限りませんが、スポーツの国際大会においては、選手に普段の実力以上のパフォーマンスを発揮させるのは、母国の代表であるという誇り、すなわち愛国心です。オリバー・カーンの愛国心を讃えながら、一方で日本には誇りが足りないと書く。その矛盾ぶりに疑問を持たない朝日新聞。

日頃、日の丸君が代に反対し、教育基本法への愛国心の記載に反対する朝日新聞としては、外国人の愛国心は許容できても、日本人の愛国心は認めがたいのかいな。

いつも思うのだが、日の丸君が代が日本を戦争に導くとでも思っているのだろうか?愛国心を賞揚すると、日本が戦争を始めるとでも思っているのだろうか?

私は愛国心は、人並みに持ち合わせていると思う。オリンピックや世界大会で、日の丸を胸に付けた日本人選手の活躍には、胸が躍るし、負ければ悔しい。

私は平和な日本が好きだし、ありがたいことだと思っている。ただし、平和を守るために戦うことは否定しない。戦う覚悟がなくては、守りたいものも守れない。大切なものを守りたいなら、それを守るための努力が必要だと思う。だからこそ、軍隊は必要だと思っている。

さりとて、愛国心を強要されるのは好きではない。愛国心を他人に強要する輩ほど、愛国心に相応しくない行動を取ることが多いのは歴史が証明しているからである。他人の家の子供を、赤紙一枚で戦場に追いやる一方、自分の子供は安全な内地に止める戦争指導者の醜悪さは、もうこりごりだ。

だからといって、愛国心を否定はしない。自分の住む町、暮らす国を誇りに思いたい。清潔で、安全で、安心して暮らせる国であって欲しい。愛国心を否定して、それが可能とは思わない。いろいろ不満は多いが、それでも腐敗や汚職は少ない国だと思うし、どこより安全に暮らせる国だとも思っている。愛する国だからこそ、平和であって欲しい。

ただ、平和は与えられるものではなく、自らそれを守る覚悟と努力が必要だと思う。国旗を否定し、国歌を否定し、愛国心を否定して、平和を守れるとは思わない。私はぬくぬくと平和を満喫したい。だからこそ愛国心を否定したりしない。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今回のサッカー日本代表

2006-06-29 09:29:46 | スポーツ
ワールドカップが始まる前までの私の予想は、一分二敗。オーストラリアに引分け、クロアチア、ブラジルに負ける・・・はずだと。今の日本代表では、こんなものと思っていました。妙な当たり方でしたが、次回からアジア予選に入ってくるオーストラリアには負けないで欲しかったなあ。

現在の代表チームは、中心が中村俊輔なので、彼の不調が大きかった。風邪だの足の爪を剥したなどと聞こえてきますが、理由は何にせよ攻撃の中心を担えなかったのは事実。残念です。

FW・・・玉田以外は駄目と言いたい。結果が全て、ただそれだけ。それがFWというポジションでしょう。不満はあるけど、非難はしません。世界に通用するFWを育てる指導者が日本にいない。そこに尽きます。

MF 初戦の弱気ぶり以外は、まあまあ良かった気がします。ただ、中盤でプレスかけられると、ボールキープ出来ないのが不満。アジアなら問題なくても、世界ではまだまだってとこでしょうか。もう少し小笠原に経験積ませたい気がします。ボランチの福西、どうしちゃったのかねえ。稲本が思ったより良かった。中田は周囲と空回りしていた感があります。

DF あまり非難の声が上がっていないようですが、守りの要である中沢。不調だったと思います。今期はマリノスでも、あまり調子が良くなかった。それでも宮本より周囲から頼られていたから、中沢の代わりが居なかったことが問題。返す返すも田中誠のリタイアは痛かった。せめて茶野か松田がいたらなあ~

GK 川口 良くも悪くも目立ってしまった。失点はGKだけの問題ではないけど、初戦の後半はいい気になりすぎ。いや、のり過ぎと言うべきか。あの残り10分での失点が、あまりに大きかった。危機感が強すぎて、DFを信じてないかのような飛び出しが失点を招いた。実際は、ゴール前の相手選手をフリーにしていた他の選手が悪いのだけれどね。クロアチアとの引分けは、川口こそがMVP。さすがでした。

監督 4年間ご苦労様でした。残念ながら今の日本の選手の力量では、ジーコの理想を体現できることは出来なかった。それが敗因かも。それでも、この4年間で日本代表の可能性は広がったと思います。同時に欠点も、はっきりと曝しだされた4年間でした。監督としては、初心者だったと思いますが、日本を信じてくれたのは確かでしょう。それに応えられなかったのを恥と思うならまだしも、監督の采配非難にすり替えるのは感心しません。

次の監督が誰になろうと、一人一人の力量が上がらなければ、同じこと。いつまでも戦術に頼らず、個人で局面を打開できないと、世界には通用しないでしょう。体格が小さくとも、メキシコのように俊敏さと、テクニック、そして執念で世界と戦ってきた国もあります。あのアルゼンチンとすら五分の戦いが出来ているメキシコ(残念な結果でしたが)は、ある意味日本のお手本になると思います。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「おごってジャンケン隊」 現代洋子

2006-06-28 14:29:25 | 
食事などを奢るという風習は、国により、地域により違いがあり、なかなかに興味深い。

隣の韓国では、年長者が年下の者に奢るのが常識だそうだ。中華圏の国では一家の長、または一族の長が奢るのが普通らしい。もっとも私のみたところ、奢るというより、面倒をみるといった面が強い気がする。

アジア圏以外ではどうか。あまり詳しくないのだが、個人主義がベースにある西欧では、接待は別にしても、個人間ではほとんど聞かない。ただしパーティによる御もてなし等の習慣があり、これも奢りの一つの形かもしれない。

一方、中東やアフリカ、中央アジアなどの気候、環境の厳しい地域では、奢るというより、来訪者をもてなす意味合いのほうが強いようだ。

奢られるのが嫌だという人は少ないと思う。しかし、下心が透けて見える奢りだと気後れすることもある。そうでなければ奢ってもらうと、なんとなく得した気分になる。また、奢る側になると、偉くなった気分になることもある。もっとも親しい友人同士だと、奢りは却って水臭い気がして、割り勘の方が気楽なのも事実。まことに興味深い風習だと思う。

ところで表題の作品は、漫画雑誌の名物編集者と漫画家が著名人と食事をして、その代金を巡って「じゃんけん」で負けた人が払うという、なんとも無茶な企画を漫画化したものです。

インタビュー慣れした著名人たちも、この食事の代金を賭けての「じゃんけん」というのは、かなり珍しいようで、素顔というか本音の部分が覗けて大変に面白い読み物となっています。この一点をとってみても、この企画は大成功と言えるでしょう。著名人の方々は、なかなか本音や素顔を見せてくれることはありませんからね。また漫画によるインタビューという形は、漫画家の主観により表現がデフォルメしているため、非常に分かりやすくまとまっているのも特徴ですね。

漫画家の現代洋子は、それほど人気のある人ではないが、大人の女性だけにしっかりと著名人たちを上手く漫画で表現しており、あらためて漫画の可能性を再確認させてくれました。似顔絵の上手い人なら他にもいると思うが、それだけでは漫画は面白くない。人生経験の積み重ねにより磨かれた感性あってこそ、描けるもの、感じ取れるものって必ずありますからね。多分・・・十代の若い漫画家では無理でしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ぼくんち」 西原理恵子

2006-06-27 09:36:57 | 
まだバブル景気を迎える前、昭和50年代には東京ですら、貧民街としかいいようのない地域はあった。私が高校卒業までを過ごした街にも、そんな一角があった。

四畳半と台所だけの一室に、家族5人で暮らしていたり、アパートの脇の階段の下に板壁を立てて、居候している人とかが、逞しく暮らしていた。貧しいけれど、小ぎれいな街でした。なにせゴミを出す余裕すらなかったしね。

正直言えば、同情したり憐れむことはなかった。むしろ、当然というか無理もないとさえ思っていた。だって、馬鹿なんだもん。そりゃ、運、不運はあるでしょう。でも同じ失敗を繰り返していれば、窮するのは当然のこと。今も昔も、ギャンブルで身を持ち崩す馬鹿は絶える事はない。

私は子供の頃から、けっこう小遣い稼ぎをしていたので、稼ぐには頭が必要だと知っていた。騙す奴はどこでも居るし、騙されないよう努力する必要があることもわかっていた。そりゃ騙す奴は悪い。でも、単純に騙される奴も悪い、そう思っていた。

馬鹿だから貧乏、これが哀しくも冷酷な現実。貧乏人はいい人が多い?そりゃ、助け合わなければ生きていけないだけ。実際は、こすっからい人が多かった。強いものにはおもねり、弱いものには偉ぶる人も多かった。

同情はしない、でも・・・ある種の哀しさは否定できない。よく一緒に遊んだのは、いいとこの坊ちゃん連中よりも、彼等貧乏人の子供たちだった。子供心にも、彼らと一緒に遊べるのも今のうちだけかもしれないと、心の片隅で感じていた。彼らが貧乏から抜け出すのは、並大抵のことではない。

多くの場合、彼等貧乏人の子供たちは、親と同じ道を辿る。いや、結果的にそうなっている。なぜだか私も分からない。知っているのは、彼らがおそろしく頑固で、頑迷で、それゆえ生活を変えることが出来ないこと。

実のところ、我が家も貧しかった。父母の離婚の後、小学校の用務員をしながら私たち3人兄妹を育ててくれた母は、一応地方公務員だったから、生活は安定していた。でも余裕はほとんどなかった。私と上の妹は、中卒で働くつもりだった。多分、私は職人の道に入っていたと思う。そのはずだった。

ところが離別した父が、海外から帰国して結構な大金を用意してくれ、大学まで援助してくれることとなったので、私はなんとか貧乏な世界から抜け出せた。その代償として、幼馴染たちとは縁遠くなってしまった。

表題の著者、西原理恵子も又貧乏な世界を知っている。彼女の描く明るい貧乏な世界。明るいけれど、哀しい世界。逞しいけれど、救われない世界。安易な同情も、表面的な憐れみも受け付けない世界。救いようがないけれど、無視することも出来ない世界。正義や倫理では救われない世界。そして、もしかしたら、私も暮らしていたかもしれない世界。

多分、人間が人間である限り、このような社会はなくなることはないのだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光市母子殺人事件

2006-06-26 09:45:40 | 社会・政治・一般
山口県光市における母子殺人事件について、最高裁が無期懲役の高裁判決を差し戻すという判断を下しました。未成年者の殺人事件に対し、無期ではなく死刑判決を慫慂しているようですが、もう少し踏み込んだ判断をして欲しかったと思います。

そもそも強姦目的で侵入し、抵抗した女性を殺し、ついでに幼児まで叩き殺す残虐ぶり。未成年だからといって許されるわけがない。

未成年者の保護や、反省と更生を促す意味での死刑反対という考えもあるでしょう。死刑とは、国家による殺人ですから、人権とう面から死刑反対という考えも当然あるでしょう。

しかし、未成年者ならば何をしても許されるのか、殺しても良いのか。そもそも何のために死刑という刑罰はあるのか。法律が存在する所以は、その社会の安定にこそあるはず。安心して暮らせるためにこそ、法は存在すべきもの。悪い事をすれば、当然に罰せられる。この認識があってこそ、社会の安定は保たれる。

今回の最高裁の判断をみて思ったのは、法の番人たる裁判官にその覚悟がないこと。未成年者に対する死刑判決を下すのは、相当な覚悟が必要でしょう。無期懲役ではなく、死刑が相当だと思うなら、それを下級審に任せるのではなく、最高の立場である最高裁において責任を果たすべきでしょう。こうゆうのを姑息な卑劣漢(官?)と云います。

妻を殺され、子供を殺された男性の言葉「無期懲役といえど、いずれ出所する。その時は私が彼を殺す」。こんな事態を避けるためにも死刑は下されるべきでしょう。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする