ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

カレーの思い込み

2018-11-30 12:53:00 | 健康・病気・薬・食事

思い込みから脱却すると、けっこう幸せなことが待ち受けている。

寒くなってくると、私はスープを作りたがる。台所に独自の暖房がないので、冬場は台所仕事がつらい。でも、スープを煮込んでいると、自然と台所は暖かくなる。しかも、美味しそうな匂いが漂う暖かさである。

主に野菜スープを作ることが多い。作り方は思いっ切りシンプルである。まずニンニクを軽く炒める。香りがたってきたあたりで、みじん切りした玉ねぎを投入する。そして、弱火でじっくりと炒める。

その間に、他の野菜を刻みだす。プライベートではひどくアバウトな私は、少し油断すると冷蔵庫にはしなびた野菜が寝込んでいる。これを引っ張り出して、とにかく刻む。人参、大根、ブロッコリーの茎、芽が生えかけたジャガイモなど、腐っていない限り、とことん刻む。

玉ねぎがあめ色になってきたころあいに、他の野菜を入れて、中火にして炒める。途中でバターを入れて風味を付けることもよくやる。そしてホーロー鍋に移して、コンソメと共に弱火で煮込む。途中で、味加減をみて塩、胡椒を加えるだけ。

こんな大雑把なスープが出来上がる頃には、台所は暖かくなっている。さて、メインの料理にとりかかろう。

ところで、なんでも食べる私だが、同じ献立が続くのだけはダメというか、嫌なのだ。だから、この野菜スープも他の料理に転用することもよくやる。だいたい、シチューかカレーとなる。市販のルーを加えるだけの手抜き料理でもある。

牛肉を加えたり、芽キャベツを加えたりして作るシチューは美味しい。同様にカレーも作るが、そこで一工夫する。摩り下ろしたリンゴを加えたり、蜂蜜を入れるのは定番だ。

なかでも、大久保や上野のアジア食材を扱っている店で入手したカレー用のスパイスを少し混ぜて、これでカレーがパワーアップしたぜと一人、悦に入っていた。

ところがだ、ある日西原理恵子と料理研究家の枝元女史の料理本を読んでみて、ある一文に括目した。枝元先生が「今の市販のカレーのルーは超優秀で、なにも加えないのが一番美味しい」と。

そこで試してみた。本当に何も加えずに、プレーンカレーを作ってみた。いやはや驚いた。その時はハウス食品の中辛カレーを使ったが、確かに美味しかった。やはりメーカーの企業努力は凄いのだなと改めて痛感したものです。

ただ、私は野菜がゴロゴロ入ったカレーも大好きなので、これはこれで別に作ります。でもプレーンカレーを作る時は、野菜サラダを思いっ切り豪華にして両建てとしています。私のような単なる素人の料理好きの場合、なにも余計なことをしないのが一番美味しい。

少し悔しい気持ちもあるのですが、なにより美味しい幸せが一番なので、これはこれで納得しております。

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嘘の歴史博物館 アレックス・バーザ

2018-11-29 11:43:00 | 

私のような活字中毒患者の最大の欠点は、活字で印刷された文を信じ込む傾向が強いことだ。

特に新聞に対する信頼は相当なものであった。おかしいと思うことはあった。でも、疑っても、それを検証する術を持たなかったが故に、曖昧なままに新聞記事を信用していた。

疑念が疑惑となり、確信に変わったのは、大学4年の就職活動中であった。我が家は伝統的に朝日新聞なのだが、社会に出れば必ず必要だと父に力説されて、日経新聞を並行して読むようになった。

だいぶ前に、このブログでも書いたが、あのパーシングⅡ配備報道がなければ、まだしばらくは新聞信者のままであったと思う。朝日がどうこうではなく、複数の情報から検証することの重要性を実地で学べた経験は大きかった。

その新聞なのだが、表題の書を読んで驚き、呆れ、脱力してしまった。

新聞って創刊当時から、平気でウソを報じていたのか・・・。まァ、いろいろと思うところはあるのだが、人間って事実かどうかよりも、面白い話が好きなのですねえ。

私自身、自戒を込めて白状すれば、日常的な会話においても、話を面白、おかしくするために嘘を交えることはある。それを誇張とか、守秘義務からの止むを得ない処置だと言い訳してもいいけど、つまるところウソはウソ。

おそらくだけど、人間は嘘をつく生き物だと思う。なぜかといえば、嘘をつくことで日常生活を円滑にやり過ごしているからだ。嘘をつかずに生きていけることは素晴らしいと思うけど、多分息苦しいのだろうとも思う。

ただ、ウソを付く以上、そのウソは人を楽しませるものであって、人を傷つけるものではあって欲しくないとも思っている。嘘をつくことは良くないと断言できるほど人生は単純ではない。

ウソをつくことで、人を傷つけない場合もある。嘘をつくことで虚栄心を満たす場合もある。どうせウソをつくならば、人を楽しませたり、慰めるような優しいウソを付きたいものだ。

表題の本には、歴史上有名なウソの実例があふれている。世の中、ウソと真実とが合い混じり合って動いている。それが現実である以上、ウソに対して上手に対応できる自分でありたいと思います

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押し寄せる難民

2018-11-28 12:00:00 | 社会・政治・一般

私は適切な解答を持ち合わせていない。

そんな無力感に悩まされるニュースが、現在中南米からアメリカへの入国を目指して行進している難民たちである。

主にエルサルバドルの人たちが中心であるようだが、この国は本来、決して貧しい国ではなかった。だが内戦が続き、終結後も土地の大半を握る支配階級だけが栄え、多数の国民は貧困の辛苦に喘いだ。

だからこそ、この国の人々は以前から国外で仕事をして、家族を助ける生活をしていた。このこと自体は、他の国でもよくあることである。大概は陸路をバスで北上してアメリカを目指す。

そこへ登場したアメリカのトランプ大統領が、不法移民を排除することを声たかだかに宣言したものだから、慌てたエルサルバドルの人たちは、突如として徒歩でアメリカを目指しだしたと言う。

エルサルバドルの人たちだけで2000人だというが、おそらくバスや車などを利用している人も含めれば、その数倍になることは容易に想像できる。

彼らが故国で貧困に喘いでいたことは確かだと思うけど、CNNのニュースで見た映像を見てしまうと、難民に対する同情よりも、アメリカ側の困惑のほうが理解できてしまう。

報道などをみていると、難民を受け入れようとしないアメリカの姿勢を批難する傾向が強い様に感じる。ただ、CNNでもABCでも、難民受け入れに否定的なアメリカ市民の声も報じている。

BBCなどが人道的見地からの受け入れを慫慂している意見を述べているが、正直言って他人事の私でさえ首を傾げざるを得ない。先進国は、途上国からの難民受け入れ先ではない。問題は難民を発生させている途上国、今回はエルサルバドルにこそあるはずだ。

南米やアフリカからの難民の多くは、経済的に困窮しての出国であり、それは家族の生活を賭けた命がけのものであることは分かる。だが、同じ命を賭けるならば、母国の政治を変えることが本筋ではないかとの疑問が頭を離れない。

中米の国々は、冷戦下にあって米ソの間接的な勢力争いの場であり、左翼ゲリラが内戦を起こし、アメリカの支援を受けた政府がゲリラ弾圧の過程で無辜の市民を虐げたことも確かだ。

また冷戦後も、グローバリズムの名の下に、国際資本の利益簒奪の狩場となったことも知っている。強者の都合により、国内をバラバラにされた無力感から、母国への信頼を失い、強国にすがり付こうとする心理も分からなくもない。

それでもだ、TV画面に映される数千人の難民の姿を見ると、同情心だけでなく、こりゃアメリカも大変だとの思いも拭いきれない。アメリカ政府というかトランプ政権批判のネタにされている観もあって、どうも報道のスタンスを疑わざるを得ない。

本当に批難されるべきは、これらの難民を生み出した母国の政治ではないのか。そこを見て見ぬ振りして、トランプ批判につなげる報道を見ると、日本のマスコミ同様に、欧米も決して安易に報道を信じるべきだはないと思います。

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ドラゴンヘッド 望月峯太郎

2018-11-27 12:46:00 | 

評価は立場によって違ってくる。

その立場とは、生き方であったり、信念であったり、あるいは集団の中に於ける位置であったりする。

また評価する対象によっても、その立場は変わってくる。

その場合の立場は、趣味であったり、嫌悪感であったりと、個人の心の在り様が反映されていたりする。

要するに、評価なんて絶対なものではなく、評価する者の事情により如何様にも変るものだ。もし、絶対的な評価があるとしてら、それは売上、あるいは観客数など数字で測れるものだけだ。

でも、好き、嫌いといった感情的な評価は、数値では納得できない。大ヒットしている作品でも、嫌なものはイヤということは良くあることである。

表題の作品は、その代表的なものだ。

修学旅行からの帰途、浜松近辺のトンネルのなかで新幹線は急停止した。負傷者続出なのに救助の手はなく、暗闇の恐怖に怯える生徒たち。そこからの脱出劇であり、緊迫状況の中での人間の異常な真理を抉り出す漫画であった。

正直、クライシスものとして傑作の予感はあった。しかし、物語としては、この漫画は多くの読者を裏切った。謎多き中途半端な終わり方は、後味の悪さを引き摺るもので、駄作との評が出るのも致し方ない。

私も物語としては失敗作だと判じている。しかし、これを物語ではなく、異常心理を描写を目的とした表現手段としての漫画ならば、高い評価があっても良いと思っている。

もしかしたら、文章だけで表現できたら、この作品は人間の異常心理を抉り出した文学として認められたかもしれない。でも、絵で表現するからこそ漫画である。

いずれにせよ、評価が割れるような作品であることは確かだ。白状すると、私はこの作品をあまり好きではない。でも表現手法の一つとしての価値は認めている。これで物語として完成していたら、嫌いでも高い評価なのですがね。

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使えないATM

2018-11-26 12:04:00 | 経済・金融・税制

今月、第二週の週末に、みずほ銀行が3度目のシステム改修を行った。

その期間、ATMなどが利用できない訳だから、みずほ銀行に口座をお持ちの方は不便を強いられたと思う。この社内金融システムの統合改変は、過去にも行われているのだが、未だに完全ではない。

みずほ銀行はこの件に関して、凄まじく神経質に情報漏えいを禁じているので、本当のところは分からないのだが、おそらく今回もシステム上のバグを完全には消せなかったのではないかと私は疑っている。

これほど利用者に不便を強いる、みずほ銀行の失態なのだが、金融庁は表向き静観を決め込んでいる・・・らしい。でも内心は相当に葛藤しているだろうと、意地の悪い私は邪推している。

先に結論を書いてしまうと、このシステム統合の失態の大元は、旧・大蔵省にある。

大蔵省が過熱した不動産市場と株式市場を落ち着かせようと考えて発した「総量規制」は、日本の高度成長を支えてきた土地神話を破壊してしまった。土地の値段が下がるとう現実が、過熱した経済を一気に冷え込ませた。

本来はソフトランディングを目的としていた総量規制なのだが、土地の含み益により企業価値を過大に見積もる日本の金融市場の歪みを直視してこなかったせいで、結果的にハードランディングとなってしまった。

とりわけ困ったのが住専である。農協から多額の出資を受け入れている住専が破綻したら、与党自民党の票田である地方農家への打撃は避けられない。住専救済のため自民党が動いた。

しかし、当時の都市銀行はバブル崩壊にアップアップしており、とてもじゃないが住専救済に金を出す余裕がなかった。大事な天下り先である銀行を救済するため、霞が関もまた動いた。

それがメガバンクである。要するに体力の弱った銀行を統合させて、住専を救済させた。あの頃の銀行は、大蔵省に箸の上げ下げの作法さえお伺いを立てるほどであったから、逆らえる訳がない。

でも、本音ではメガバンク構想なんて嫌だった。渋る銀行に対し、最後の押しの一手がペイオフ(銀行口座閉鎖)であった。この恫喝に怖気づいた銀行は、嫌々ながらも統合に応じた。

かくして世界最大規模のメガバンクが誕生した。

でも、元々銀行自身の希望ではない。嫌々、渋々の統合であったので、統合後も元の銀行の体質が色濃く残った。その代表ともいえるのが行内の金融管理統合システムであった。

実を言えば、当時の銀行の頭取クラスの人間で、自分の銀行の金融システムを完全に理解している人はいなかった。部下任せであっただけではない。その部下たちでも複雑なコンピューターの仕組み、運用についてのスペシャリストは極めて少数であった。

敢えて暴言交じりで云わせてもらうと、金融システム部門はSE天国であった。

そして困ったことに、当時のSEには上司がコンピューターをよく理解していないことを分かっていた。そのせいで、銀行であって、銀行でないような雰囲気の漂う特殊な部署であった。

皆が皆、とは言わないが、SEには他人とのコミュニケーション能力にいささか問題のある人材が少なくなかった。だから、メガバンクとなり、いざシステムの統合という実務段階に入った時の混乱はひどかった。

銀行は民間企業ではあるが、その企業体質は官庁に近い。肩書と書類で組織が動く世界である。しかし、その中にあって異端の部門がSEであった。他の部署と異なり、人事異動が難しく(SEの仕事は特殊業務だ)、長年居座っているような人材がゴロゴロいる。

他の部署ならば、書類一枚で組織が変えられる。肩書さえあれば、部下の動きは自由自在である。しかし、コンピューター・システム部門だけは、そうではなかった。

私が小耳に挟んだ話では、金融庁でも事態を重く見て、何度となく指導に訪れている。しかし、事務仕事のエリートである金融庁の役人でも、このコンピューター・システムでは門外漢であり、煙に巻かれて渋々退散するしかなかった。

そして、役人によくあることだが、自らの失態は決して認めないがゆえに、根本的な問題は先送りされ続けた。

旧・富士、旧・第一勧銀 そして旧・興銀と三行を無理やりくっつけたみずほ銀行の金融システム統合は、かくして今日に至るまで迷走を続けている。

元々の大蔵省の銀行統合構想に、このような事態は想定されていなかった。これはコンピューターによる金融システム管理を理解していなかった霞が関のエリートの失態だと、私は考えています。

コンピューター導入以前ならば、いかなるメガバンクも役人の思うがままに作れたのでしょうけどね。そして、言うまでもありませんけど、霞が関のお偉方で、誰一人として、この政策の失態(部分的ではあるのでしょうけど)について、責任を問われたり、マスコミから批難されたものはおりません。

それにしても、みずほ銀行。もう大丈夫ですよねぇ・・・(あたしゃ、信じていますよ、必ずバグがある方に、ですけど)

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