ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「Yの悲劇」 エラリー・クイーン

2008-03-18 12:38:37 | 
私は少し生意気な子供であったと思う。

なにせ、小学校の3、4年生の頃から大人向けの文庫本を読んでいた。以前にも書いたとおり、きっかけは不親切な担任の先生に対する反発からだった。

読書の時間、偉人の伝記を読むとの宿題が出たのだが、私はタイトルが人名の本を読むことだと勘違いをした。伝記の意味を知らなかったからだ。で、読んだのがシャーロック・ホームズもの。面白かったので、自信満々感想文を出したら、担任の野郎「これは架空の人物だから駄目だ。やりなおせ」と吐き捨てやがった。

私の勘違いであることは確かだが、これが教師の言葉か。教え導くのが仕事だろう。むかついた私は、以降推理小説を積極的に読むようになった。しかし、当時子供向けの推理小説はそれほど多くなく、図書室の本では物足りなかった。

祖父が古本好きだったので、神田の古本屋街に連れて行ってもらい、そこで安い文庫本を買った。小さな本で、小さな文字。なんか大人の世界に入り込んだようで、妙に嬉しかったのを覚えている。その時買ったのが、表題の本だった。

とはいえ、漢字の多くは小学生の手に負えるものではない。辞典を引きながら、悪戦苦闘しつつ読んだものだ。多分、あの不愉快な教師への反発がなかったら、この地道な努力を続けることは出来なかったと思う。

そのうち、漢字の意味が分らなくとも、全体の文脈から意味を嗅ぎ取ることが出来るようになった。こうなると、読むスピードは飛躍的に上がる。

決して勉強の好きな子供ではなかったが、この読書のおかげで国語だけは力がついたと思う。教わったのではなく、自分の努力だけで読んだことが、学力の向上に役立ったと考えている。

ただ、いくら文章を読めても、社会経験の未熟な子供では理解しえないことがある。男女の愛憎であったり、性愛に絡むこととなると、漠然としか分らないので、頭を通り抜けていたらしい。

だからだろう、この年になって読み返すと、まったく逆の印象を受けることがある。かつては嫌な野郎だと思っていたのに、断ち切れぬ愛情と、それを押し殺すが故の歪みなどが、かえって同情と共感を覚えてしまうことさえある。子供の頃にはまったく理解も共感も出来なかったことを思うと、私も大人になったものだと、妙な感慨を抱いてしまう。

表題の作品は、TVドラマなどにもなっていたらしい。今にして読み返すと、小学生には理解できぬわな~と苦笑混じりで反省。当時は分ったつもりでいたのだから、思い返すと恥ずかしい。まあ、これも再読の楽しみでもある。

はて?私が読み返すべき本って、いったい何冊あるんだろう?宿題は一杯たまっているみたいです。
コメント (4)
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