ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

アドバンスド大戦略

2022-03-14 09:18:00 | その他
いささかうろ覚えなのだが、若い頃の病気療養中の時は読書だけでなく、ヴィデオ、ゲームと時間潰しをずいぶんとやった。

そのなかでも記憶に残っているゲームが大戦略であった。要は戦争シュミレーション・ゲームなのだが、これがなかなかの難物である。

ハードがスーパーファミコンだったか、それともセガ・メガドライブであったか覚えていないが、3カ月くらい熱中した。私が取り組んだのは、大戦略のうち第二次世界大戦の東部戦線を扱ったバルバロッサ作戦を範としたヴァージョンである。

ちなみにバルバロッサ作戦とは、ナチス・ドイツのソ連侵略作戦の一端である。ゲームではドイツ側、ロシア側の二陣営を選択できる。私は当初、ドイツ側でゲームを始めた。

初戦は大勝利であり、その後も序盤は楽勝であった。しかし、侵攻を進める度に援軍を繰り出すソ連軍に手を焼くようになった。今でも覚えているが、キエフ攻防戦のし烈さは、TV画面の前で歯噛みするほどであった。

苦戦の理由は兵站が延びすぎて、補給がままならず、戦線を維持できないことであった。一方、ソ連側はウクライナ東部の工業地帯から無尽蔵に補給を続けられる。何度もやり直したが、私はキエフ攻略は出来たが、戦線を維持できずに撤退、すなわち敗北している。

戦史に詳しい方ならご存知だと思うが、歴史上の事実としてもドイツ軍は、この東部戦線で苦戦し撤退を余儀なくされている。そこで物は試しと、ソ連側陣営になってみて、ドイツ軍の侵略に対抗してみた。

これが予想以上に苦戦だった。まァドイツ軍の強いこと、強いこと。戦線をまるで維持できず、撤退を繰り返さざるを得なかった。だが、撤退する度に後方の軍需物資製造拠点である黒海沿岸に近づく為、兵站が楽になった。

粘り強く戦線を維持できれば、なんとかドイツ軍を止めることが出来た。しかし苦しい戦いであったと思う。兵站の重要性を思い知らされたゲームであった。

ところで、21世紀の現在、ロシア軍がウクライナに侵攻しての戦乱状態になっている。ロシア側を批難する声は大きいが、私は少々疑問に思っている。

ロシアにとってウクライナは絶対防御ラインである。散々、ウクライナを食い物にしてきたロシアだが、このウクライナこそがロシアにとって生命線であることは誰よりも強く意識しているのだろう。

ユーラシア大陸指折りの穀倉地帯を抱え、工業地帯を有し、さらにロシアがのどから手が出るほど欲する不凍港を有するウクライナは、絶対に西側には渡せない。だからこその軍事侵攻であった。ロシアにとっては祖国防衛戦争である。

その一方、ウクライナを西側に誘いながらも、今回の危機に手をこまねいているEU及びアメリカ。特にEUの中核ともいえるドイツが及び腰である。当然であろう。第二次世界大戦時、東部戦線で敗退した苦い記憶があるドイツが、積極的になれないのだろう。

今回の紛争がどのような決着に至るのかは不明ですが、決して西側社会が望む結果とはならないだろうと予測しております。

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岩佐又兵衛

2021-11-05 11:49:00 | その他
絵は目で見て描くのではないよ、心で感じて描くものだよ。

そう教えてくれたのが誰だったのか、私は思い出せない。学校の先生ではないような気がする。もしかしたら、スケッチの最中に通りかかった見知らぬ通行人かもしれない。

でも、強く心に刻まれた言葉であった。もっとも、その意味が分かるようになったのは20代も半ばを過ぎてからだ。

幼少時より絵を描くのが好きであった。気に入ったものを、好きな時に、好きなように描き殴っていた。上手いとか、似てないとかは考えていなかった。よく描いていたが、スケッチ帳に描くよりも、教科書の端やノートに描き散らかしていた方が多かった。

だが、いつしか描かなくなっていた。いや、描けなくなっていた。

そのことに気が付いたのが20代の難病の療養期間であった。薬を飲んで寝るだけの毎日に飽きていたので、暇つぶしに久々に絵を描こうと思い立ったのだが、描けない。いや、描くのが浮ュなっていた。

見た物をそのままに描くことならば出来たが、それでは満足できなかった。しかし、心で感じたことを描こうとすると、赴Cづいてしまい描けなかった。何故なら当時の私の心にはどす黒い感情がヘドロのように詰まっていたからだ。

当時はバブルの最盛期、本来ならば私は若手の有望社員として元気に働いているはずであった。実績も挙げつつあり、社内での評価も悪くなかった。本社からも注目株だと、営業担当常務から直々に励ましの電話を貰ったこともある。

前途洋々であるはずの私の社会人生活は、難病によりすべてを奪われた。原因も分からず、治療法も不確定で、社会復帰の目途は立たない。ただ薬をのむために食事をとり、衰弱した身体を生かすために眠る毎日。

私の心に、徐々に暗く重く、えげつない感情が沈殿し、石化しつつあるのを自覚するようになっていた。そんな自分が嫌で、そこから逃れようと読書、TVゲーム、ヴィデオ鑑賞に没頭するも逃げ切れず。

暇つぶしに絵でも描こうと久々にスケッチブックを開いて気が付いた。今の私には絵を描けないことを。私の心の目線は常に嫉妬と羨望と憎しみで溢れ、どす黒い感情に塗りつぶされていた。真っ白なスケッチブックはそれを映し出す鏡となることに気が付き、私は絵を描けなくなった。

そんな気持ちを持ちながら、それでも絵を描いた男、それが岩佐又兵衛だと思う。

戦国時代末期から江戸時代初期の絵師であり、浮世絵の初期段階の絵師だと評されている。その岩佐が描く絵には、暗くおぞましい喜悦が込められている。

それは絵を見てもらえば感じ取れるのではないかと思う。私なんぞ、浮「ほどに共感してしまったほどである。

代表作の一つである「山中常盤物語」のなんと凄まじいことよ。牛若丸として知られる源義経の母、常盤御前が山賊に襲われて殺され、その恨みを抱えて義経の枕元に立ち復讐を願う。その願いを聞き入れた義経が、山賊を打唐キ物語である。

平清盛にも見初められた美貌の常盤御前を襲い、突き刺し、切り殺す盗賊の愉悦の表情のおぞましさ。そして復讐に身をゆだねる義経の狂気と狂喜。絵師・岩佐もまた描く喜びに染まっていたことが伺われる画風である。

おそらくだが、岩佐は母であるだしの面影を追っていたのだろう。

今楊貴妃の異名を奉られるほどに美貌であったと伝えられる母・だしは、摂津の大名である荒木村重の側室であった。荒木が織田信長に反旗を魔オ、3年余にわたり有岡城に籠城したが援軍が来ない。その状況を打破すべき村重は、城を密かに抜け出して毛利の援軍を自身で頼み込むつもりであった。

城主不在の有岡城を支えたのがだしであったが、遂に城は陥落。裏切りに激怒していた信長の命により、だしは京都市中を引き回されて磔刑にて処刑されている。その際、300人以上の村重の関係者も処刑されているが、一番見事に、そして凛々しく死を慫慂したのがだしであった。

信長公記という書物には、あまり女性が書かれていないのだが、このだしに関しては例外的に詳細に描かれている。作者の太田牛一は信長の側近として、美女美少女には馴れているはずだが、だしの美しさは別格であったらしい。

そのだしだが、有岡城の陥落時、2歳であった又兵衛を乳母に頼んで密かに脱出させ、本願寺に預けた。断腸の思いであったことが、今わの際の詩句から分る。ちなみに逃亡した夫への愚痴は一切書かれていない。凛とした気性の女性であったと伺われる。

成長し、絵師として名を挙げた岩佐は、家康の孫のなかでも問題児として知られる松平忠直の依頼を受けて幾つもの絵巻物を完成させている。どうも、この暴君・忠直と又兵衛は案外と気が合ったのではないかと思う。

その忠直の依頼を受けて描かれたのが「山中常盤物語絵巻」である。そりゃ、凄まじい画風になろうってもんだ。戦争は人間のおぞましい面をさらけ出す。戦国時代には、そのような人の醜さがさらけ出されることは珍しくなかったと思う。

おそらくだが、又兵衛は自身の心の闇を自覚していたと思う。私のように怯えることなく、堂々とその心の闇を通して絵を描き続けたのではないか。彼の絵を見ていると、私はそんな想いに係られるのです。

私には、まだそれだけの覚悟はないですね。件pは人の心の闇さえも描き出してしまう。ある意味、恐ろしいと思います。

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38式歩兵銃

2021-07-02 13:14:00 | その他
幾つになっても、思い込みと誤解が解けるのはありがたい。

私は長年、太平洋戦争以前の日本の工業力の低さを蔑んできた。名機と持ち上げられぅゼロ戦は、単にエンジン出力が低いが故にアクロバット飛行で戦いを強いられた迷機に過ぎない。

戦艦大和は、時代遅れの鈍足のカメであり、1式戦車は砲台を据え付けたトラクターだと思っている。当然に日本兵なら誰もが装備していた38式歩兵銃なんて、弱い、脆い、遅いの三重苦の厄介ものだと思っていた。

ところが、21世紀の現代でも海外では、38式歩兵銃が趣味の狙撃銃としてマニアックな人気があると知り驚いた。

38式歩兵(サンハチシキホヘイジュウ)は、明治38年(1905年)に従来の30式歩兵銃を改良して作られた小銃である。40年以上に渡って作られ、太平洋戦争時にも、歩兵の主力装備である。

ボルト・アクション式の単発銃であり、日本人の体型に合わせて小型、軽量な銃として活躍したが、如何せんアメリカの半自動小銃である名機M1ガーランドに比べると時代遅れであり、攻撃力、射程距離が劣る。

これこそ、日本とアメリカの国力の差だと長年思っていた。

しかし、改めて調べてみると1940年代前半では、単発式ボルトアクション小銃が世界の主流であり、アメリカでさえスコフィールド小銃という単発ボルトアクションの小銃を使っていた。M1ガーランドが使用されるようになったのは、太平洋戦争後半の1942年以降であった。

だから必ずしも時代遅れではなかった。むしろ命中精度は高く、それゆえに現代でも一部のマニアを納得させている。ただ、当時の日本の工業力では部品の互換性が高くなく、職人たちの腕による差はあったようだ。

また小型軽量であるが故に、威力が弱かったため、火薬量を増やした新型小銃も作られたが、その信頼性は低く、現場の兵士は38式を好んだとされる。ここで日本の悪い癖が出た。

現場知らずの参謀本部では、38式に不足される破壊力を増やすための新たな銃を失敗作だと認めなかったが故に、38式には使えない弾薬が多く出回ってしまった。本土の工場で作られた弾薬の種類が複数あったことから現場では混乱が起きた。

兵站を軽視していた日本軍では、いざ補給品が届いても、それが38式歩兵銃には使えない新型弾薬であることも多く、その結果、銃剣を装備しての万歳突撃するしかなく、アメリカ軍の重機関銃の餌食となり戦場に唐黷ス日本兵は数知れず。

実は日本側でも重機関銃は用意していたが、銃弾を大量に消費するため、現場指揮官が嫌がって使わないことも多かった。また38式歩兵銃ほどの信頼性がなかったため、日本兵も使いたがらなかった。

つまるところ38式歩兵銃が悪かったのではなく、むしろ弾薬等の兵站の混乱が日本軍を劣勢に追い込んだのが実情であるようだ。また確かに38式歩兵銃は威力が弱かった。シナの日干し煉瓦の壁を崩せないくらいに破壊力に乏しかった。

だから私は38式はダメだと思い込んでいた。しかし、実際の戦場では銃の弱さは欠点とは云えなかった。弾丸も大きく火薬量も多い強力な銃は、ブロック塀を破壊し、一発の命中で敵兵の命を奪う。

しかし38式銃では威力の弱さゆえに、大怪我を負わすことは出来ても、一発で敵兵を殺すのは難しい。ところが実際の戦場では、死んだ味方兵と異なり、怪我をした味方の兵は可能な限り助けねばならず、救護と移動に手間を取られる。

破壊力の弱い38式歩兵銃は、シナ兵やアメリカ兵に負傷を追わせて、結果として救護運搬に人出を割かざる得ない状況を作り出す。一発で殺すよりも厄介な結果をもたらしていた。だから現場の指揮官は、破壊力の強い新銃よりも旧式の38式を好んでいた。戦場を知らぬ私の盲点でもあったわけだ。

敗戦後、多くの38式歩兵銃は廃棄されたが、東南アジアなどには数多く残っており、反政府ゲリラなどに軽量でタフな小銃として愛用されてきた。敵であったアメリカにおいてさえ、その使いやすさを好まれて、一部の熱心な愛用者を産んでいる。

頭の片隅に置いておいて欲しい。日本軍が負けたのは、アメリカの物量のせいではなく、日本の軍指導部の頭が悪かったからなのだと。お勉強エリートは成績が良くても、実際の戦いには強い訳ではない証拠です。

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北畠具教

2021-04-28 14:11:00 | その他
戦国大名の強さといえば、当然に戦争での勝さである。

戦争とは集団戦闘であり、個人の武力よりも集団としての武力により、その優劣が決まる。単に兵士たちの鍛錬度、武器の優秀さだけでなく、食料などの集荷、運搬、配膳などの兵站とその基盤となる経済力を含めて総合的な国力が重要となる。

そして、なによりも重要なのが情報である。

如何に相手の情報を入手し、それを活用して有利な局面を作り出し、戦局を優位に進める。戦争とは、実際に戦闘が始まる前から、情報、軍備の装備、訓練など総合的な能力が決め手となる。

ただし、実際の戦場では、大名自らが先頭に立って戦う姿勢を見せることが、部下の兵士たちの士気に大きく影響する。

戦場に立つことは、当然に危険性が高い。だからそれを厭うた朝倉氏などは、戦場に出ることが少ないが故に、その優れた軍才を活かせずに消えていった。

逆に甲斐の武田信玄や、越後の上杉謙信などは、実際に兵を率いて戦場に立ったからこそ、その配下の兵士たちの能力を最大限に活かせる。これは信長にせよ、秀吉、家康なども同様だ。

ただし、行き過ぎはダメである。その典型が伊勢の公家大名であった北畠家の8代目、北畠具教(とものり)である。

公家大名ではあるが、戦国時代末において武力により領地を拡大させて、伊勢の大半を支配した立派な戦国大名である。しかし、具教はやり過ぎた。

なにせ戦国時代にあって無敗の剣豪として知られた塚原卜伝の直弟子であり、秘伝「一の太刀」を伝承された数少ない高弟でもあった。相当な剣好きであり、槍の宝蔵院や柳生家など錚々たる武人たちとの交流で知られており、その屋敷は剣豪たちの交流の場であったとされる。

大名となっても己の武撃フ鍛錬は欠かさず、伊勢を平定後は家督の座を長男である具房に譲ったが、実質的支配者であった。家督の座を譲ったのは、戦場の最前線に立ちたかったからだと噂されるほどの戦闘狂であったらしい。

私の見立てでは、一個人としては戦国大名最強である。ただし一人の武人としてである。その後、伊勢平定を目指す信長の包囲網に屈し、信長の子、信雄を養子に迎えることで織田家の配下となる。

如何に個人として強かろうと、戦争は集団戦である。信長の敵ではなかったと思う。私が残念に思うのは、北畠具教には有益な情報があったはずであることだ。彼は塚原卜伝一門の高弟として足利義輝や細川藤孝、柳生家や上泉家ら武家とも交流があり、当然に京の事情や、各地の戦国大名の情報も入手できたはず。

しかし、彼はそれを活かすことが出来なかった。私の推測だが、おそらく先の戦いでは信長の包囲戦に屈服したことが不満であったのだろう。勇将の下に弱卒無しというが、北畠軍は日頃から鍛錬されており、戦場では非常に強かった。

北伊勢を任せていた滝川一益からその情報を得ていた信長は、戦場で雌雄を決するのではなく、大軍を擁して城を包囲し、食糧難に追いやり北畠軍を屈服させている。戦場の勇者であった具教には、それが不満であったのだろう。だからこそ、反逆の機会を狙っていたのではないか。

信長の配下にありながら、本願寺、武田、朝倉らの織田家包囲網に密かに参加し、それを危うんだ部下たちに討ち取られて最後を迎えている。天下の趨勢は、信長に傾いていた。部下のほうが余程天下の事情に通じていたのだろう。

しかし、ただでは討たれなかったのが武人である具教の矜持。19人を切捨て、数十人と切り結び脱出を試みるが、かつての腹心の部下に背後から槍で刺されての壮絶な死に様であったとされている。戦国武将でこれほどまでに最前線で戦った大名は、まずいないと思う。

名門であった北畠家は、ここで滅び織田家に乗っ取られることとなる。ただ後継があの本物のウツケとされた信雄であった為、伊賀と揉めてしまう。それすらも天下統一の過程に組み込んでしまった信長の手腕には驚かされる。やはり天下人は器が違うのだろう。

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帰ってきた宇宙猿人ゴリ

2021-01-27 11:49:00 | その他
もしかしたら宇宙猿人ゴリは、本当にいるのかもしれない。

1970年代にTVで放送された「宇宙猿人ゴリ」のちの「スペクトルマン」において、文明の遥かに進んだ惑星Aから追放された宇宙猿人ゴリは、地球侵略を企てる。

天才的科学者であるゴリの目から見ても、地球は美しい星であった。その星を公害で汚す人間は許せなかった。だから怪獣を送り込み、自ら地球を支配して美しい惑星に戻すつもりであった。

結局は銀河連盟から派遣されたスペクトルマンに、ゴリの野望は阻止されるのだが、子供向け番組ながら、いささか考えさせられる内容であった。

ちなみに私は十代の頃から筋金入りのSFものである。空想、夢想は大好きである。以下は完全に私の妄想であることをお断わりしておく。

宇宙猿人ゴリ企画「地球人絶滅計画」

1 感染力は高いが毒性は弱いウィルスをばら撒く。

2 貧弱な地球人の科学力で作られたワクチンを引き金として、ウィルスの毒性、感染力を高める。

3 意図的に感染者、死傷者の地域差を生み出し、地球人相互間に不信感を植え付ける。

4 極めて少数しか作れないワクチンの存在を餌に、地球人同士での戦争を起こさせる。

5 人口が減少した地球に、環境怪獣「クジラドン」「つぶらな瞳のワンコザウルス」「いたいけなニャンコラス」などを送り込み、地球人を全滅させる。

かくして、美しい地球は宇宙猿人ゴリ様のものになる。ちなみに最後までスペクトルマンは出てこない。博物館には、かつて地球を汚した害獣として「人間」の標本が展示される。

めでたし、めでたし、である。

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