ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ベスト8ならず

2010-06-30 12:24:00 | スポーツ
負けは負け。

それが0対0からのPK負けだとしても、敗北は敗北。その涙に感動したとしても、敢えて褒めない。

前評判のきわめて低かった岡田ジャパンは、その低評価を覆しての決勝トーナメント進出。三戦全敗を予測した私もビックリの快進撃であった。その見込み違いは私のミスだとしても、低評価までは間違っていたとは思えない。

敢えて評価するとしてら「自分たちは弱い」と断言して、泥臭い守りから試合をつくった覚悟こそ褒めていい。でも、それでは先がない。

初戦のカメルーン戦は、Jリーグ始まって以来、絶えてなかった徹底守備による勝利だった。オシムから岡田監督になって、さかんにこだわってきた岡田コンセプトの片鱗さえなく、古典的守備一辺倒の不様で退屈な試合をやってのけたことが勝利の秘訣だった。まぁ、カメルーンの自滅に救われたのも確かだが、勝ちは勝ち。これで選手も監督も、土壇場の開き直りに確証を得た。

実績により確証は確信に変り、オランダには一失点で耐え忍んだことが、デンマーク戦の勝利の伏線だった。引き分けでもいい日本と、勝たねばならぬデンマークの差が、堅守を誇るデンマークの守備を綻ばせた。

ホーム以外のワールドカップでの決勝トーナメント出場は、快挙といっていいが、これは始まりに過ぎない。昨夜行われたパラグアイ戦は、文字通りの死闘となった。

率直に言って、やはりパラグアイ優勢の試合だったと思う。拙攻に救われたのは確かだが、DF4人にMF3人を守備に奔走させる戦略は功を奏した。だが、間隙を縫っての攻撃には厚みが足りない。だから得点出来なかった。

後半というか、阿部に代わって中村憲剛が入ってからの日本は、いつのまにやら以前の日本に戻っていた。ただし、中盤でボールをまわして崩す余裕がないため、どうしても攻撃に余力がない。疲労から出足の止まったパラグアイの強固な守備を崩すに至らなかった。

そして無得点のままのPK戦。これは運なので仕方ない。

こうして日本にとってのワールドカップ南ア大会は終わった。でも、終わった終わったで済ませてはいけない。古典的守備固めに土壇場で変更した岡田監督の決断は善しかもしれない。

しかし、それではその前の一年間はいったい何だったのか?

トルシェの時の確固たる戦術はなく、ジーコの時の諦めない闘志(ワールドカップ以外でしたが)は感じられず、オシムの時のボールと選手の走りが連動する華麗さとも無縁だった。未来への期待を抱かせない、古典的守備はそれなりに有効だが、先の見えた戦術でしかない。

実を言うと、デンマーク戦とパラグアイ戦はそれほど守備一辺倒であったわけでもない。自信をつけた選手たちが自発的に攻撃に向かう姿勢は、局所局所で見られた。だが、チーム戦術としてのものでないため、どうしても攻めが薄くなった。個人で局面を打開できるほどのスーパープレイヤーは日本にはいないため、個人の努力だけでは得点できない。

日本人選手個々の力量の問題ではなく、やはりチームとしての戦い方の問題だと思う。そう考えると、やはり日本人監督では限界なのだろう。

監督やコーチだけの問題ではない。日本サッカー協会及びJリーグ各チームの経営陣の問題でもある。不況から外国人コーチを断念して、日本人を採用してきたつけが若手の成長を阻害している事実を、はっきりと認識して欲しい。

そして煽動するだけの間抜けな報道を繰り返すマスコミの問題でもある。取材拒否をおそれて肝心なことには口を閉ざしてきた弊害は、今回も変らなかった。いや、むしろ悪化しているだろう。良心的な取材をしてきた現場の若手記者たちは、岡田ジャパンを低評価してきただけに、今回の躍進がむしろ彼らの立場を弱くしているはずだ。

次のブラジル大会には、果たして日本は出場できるかどうかきわどいと思う。次の大会の主力となるはずの20代前半の選手たちの層は薄い。本田、長友だけで、内田や森本は出場機会がなかった。もはや黄金世代は当てに出来ず、たよりのU21の選手は育っていない。

おそらくこの先、マスコミは南ア大会の勝利の記事を垂れ流すと思う。負けた試合さえ賛美するだろう。もちろん勝った試合は何度となく賛美を繰り返す。で、それでいいのか?

唯一の希望は、選手たちの涙だ。悔しかったと思う。日韓大会の時には、これほど悔しがってはいなかった。この悔しさを全選手が共有していることを願う。この悔しさが更なる向上の糧となるはずなのだから。
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いきものがかり

2010-06-29 13:00:00 | 日記
青臭くってもいいじゃないか。

久々にそんな気持ちにさせられた。少し顔を背けて言いたくなる気恥ずかしさと、若干の羨望をこめてそう思う。

日頃、ほとんど音楽に身を入れて聴くことは少ない。事務所にはJWAVEが常に流れているので、最新の楽曲がラジオから流れているが、BGMとして聞き流しているので記憶に残ることは少ない。

でも、昨年くらいから気になる楽曲があった。ラジオから流れてくる若い女性のボーカルに、ひどく惹きつけられた。ちょっと素人っぽい歌い方だが、健やかな歌声が脳裏に刻まれた。

率直に言って、声の出し方は少し不安定だが、そのゆらめきが十代の女性にみられる若さゆえのものであることが、むしろ印象を良くしている。

世間を、大人を、ちょっと信じきれないけど、自分の目で見て確かめて、それからなら認めてもいいわと語りかけて来る。未来に対する不安なら、ないわけではないけれど、それでも私は自分の可能性を信じたいとの気概が伝わってくる。そんな歌声だった。

私は十代の頃からひねた子供だった。私が脳裏に描く未来図は、崩壊した文明社会であり、既成の価値概念が意味をなさなくなった世界であった。輝かしい将来なんぞ、まったく信じていなかった。

だから無邪気に明るい未来を信じるクラスメイトたちを斜に構えてみていた。バカにしていたわけではないが、その素直さが信じられなかった。青臭い理想論など頭から排していた。

そんなひねた私も、数年後には五十に手が届く年になった。今でもひねくれている事には変りはないが、素直さに対しては羨望に近い気持ちを持つようになった。

十代のあの頃、もう少し素直に物事をみることが出来たのなら、未来は変ったものになっただろうか。青臭いと嫌った理想を信じていたのなら、今とは違った自分であったであろうか。

今だから言えるが、私のひねくれ度合いなんて、こそばゆい幼児の依怙地さに過ぎない。素直に事実を見る勇気に欠けていただけだとも言える。自分を信じることがなかったからこそ、他人をも信じることが出来ず、当然に未来をも信じることが出来なかっただけだ。

いきものがかりの歌は、若かりし自分の稚拙さを思い出させるが故に脳裏に刻まれたのだと思う。おかげで久々にCDショップに足を運びましたね。それがもうすぐ閉店する渋谷のHMVってあたりが、私らしい気もします。

多感な十代に素直であるべきであったにもかかわらず素直さを嫌い、中年となり過酷なビジネス環境に身を置く今となっては、とてもじゃないが素直ではいられない。にもかかわらず、素直さに羨望を抱くとは、なんとも皮肉なものです。
コメント (6)
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血族 宮崎学

2010-06-28 12:04:00 | 
シナといかに付き合っていくか、これが21世紀の日本に突きつけられた重要な課題だと思う。

私は素人の歴史好きだ。それ相応に歴史には関心は深く、けっこう詳しいつもりだ。ただ、部分的にしか分っておらず、全体を俯瞰するにはまるで足りない。歴史の専門教育を受けているわけでもなく、原典にあたるだけの教養にも欠ける。

つまるところ素人の自己満足に過ぎない。もっともそれを卑下するような可愛げもない。むしろ、これから学ぶべきことが沢山あることを期待と不安の入り混じった気持ちで楽しんでいる。

太平洋戦争には子供の頃から関心が強かった。しかし関心があったのは、日本海軍とアメリカ海軍との海戦であり、南方作戦には自分でも意外なほど分っていない。

そりゃ有名なシンガポール攻略戦やマレー半島攻防あたりなら、関連する本を何冊も読んできた。大英帝国が誇る不沈艦を空爆により撃沈した一戦なら、雑誌「丸」を熟読して写真までファイルしていたぐらいだ。

だが、あくまで大日本帝国対英米といった視点からのものであり、東南アジアの現地民の視点には無知であった。そのことを思い知らされたのが、表題の作品だ。

つくづく思うのは、シナ人ほど国家とか政府とかに縛られない民族はいないということだ。イデオロギーに媚びることもなく、宗教でさえ利用価値で判じる。条約も契約にも信を置かない。

そのシナ人が最も信頼するのは、血のつながりによる同族であり、義のつながりによる秘密結社だ。後者はマフィアのように伝えられることが多いが、その実態ははるかに広範囲であり、相互扶助組織が本質だ。

ただ、国家とか法に縛られないがゆえに犯罪すらも平然と行う。犯罪は手段の一つに過ぎないが、それに囚われることが多いが故にマフィアのように思われてしまう。

悪名高い蛇頭をはじめ三合会や洪門会、青パンや紅パンなどが知られているが、これらの組織を単なる犯罪組織だと思い込むと、むしろかえって実態が分らなくなる。

具体的に言えば、太平洋戦争後の東南アジアの歴史は、これらの秘密結社の活躍なくしては成り立たない。しばしば伝えられる日本帝国軍人の未帰還兵たちが、インドネシアやビルマなどで義勇兵としての暗躍がその典型だ。これらの日本兵たちの背後には、シナ人の秘密結社が深く関与している。

私はシナ人といえば、日本を敵視する人たちだと思い込んでいたが、実態はそんな生易しいものではないことが、この本を読むと分る。日本の掲げた大東亜独立の夢を真に引き継いだのは、シナ人の秘密結社かもしれない。

単に日本を敵視するのではなく、その優秀さや先進性を評価した上で、自分たちの大義を果たすために活用することさえしてのけたのが、洪門会らシナの秘密結社だ。彼らのネットワークが、日本兵たちの義勇軍を駆使して欧米を追いやり、東南アジアの独立闘争に一役買ったことは、ほぼ間違いのない事実だと思う。

私自身、一時期シナ人とかなり関っていたため、秘密結社の存在を感じることはあった。警戒して知らぬふりをしていたが、食事の時の作法や、何気ない仕種に注意を払えば、そこにある種のサインを感じることはあった。

あのまま彼らと親しくしていたのなら、私も秘密結社に誘われた可能性はあったと思う。私が他のシナ人のグループから敵視されたのも、私がそのグループの一員だと誤認されたからだと思う。もっとも、もし具体的に誘われていたら、多分断れなかった気もしている。

断言しますが、私自身は違法行為(粉飾決算とか脱税指南)には関っていませんでしたが、経営指南役というかアドバイザーなら間違いなくしていました。そこから多額の報酬も頂いていたので、無関係とは言えない立場だったのも確かです。ただ、私の認識が甘く、既に深入りしていたことが分っていなかった。

中途半端な関り方をしたことが、私の失敗であったと今だから分るのです。

18世紀以来、世界を席巻してきた欧米の近代文明ですが、21世紀は凋落の時代を迎えるはずです。欧米以外で最初に近代文明を受容した日本は、必然的に欧米の後を追い、結果的に衰退していくでしょう。

アメリカの軍事的庇護下にあるからこその繁栄を謳歌した日本は、この先難しい決断を迫られる可能性は高いと私は観ています。

その時、北京政府は間違いなく敵対的存在でしょうが、シナ人は必ずしもそうではない。単に敵味方という二分法で物事を考える人たちではないので、シナの秘密結社とかかわりを持つことが必要となる時代が来ている気がします。

明治維新の背後に欧米の秘密結社であるフリーメイソンがあったことは、教科書に書かれない史実でした。衰退する欧米文明に翻弄される時代を迎える以上、既成の国家、政府とは異なる行動原理をもつシナの秘密結社の存在が今後重要になるように思えて仕方ありません。

表題の本の著者は、あの「グリコ・森永事件」の際のキツネ目の男と目されてしまったことで有名なお方。裏社会とのつながりがある人だからこそ、この本は書けたと思います。それにしても、日本人でシナの秘密結社と深く関っていた連中が、これほど居るとは思いませんでしたね。ちょっと驚きましたよ。

教科書には決して書かれない、戦後の東南アジア史の裏面を知ろうと思ったら是非ともお勧めの一冊です。
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予選突破に思うこと

2010-06-25 12:17:00 | スポーツ
早起きした甲斐はありましたね。

なんと三戦全敗と予想した私もビックリの、一次予選突破。デンマークに3―1ですからたいしたものです。

やはり勝因は、岡田監督がアホな理想を捨てて、自分に指導できる唯一の戦術に立ち返ったことでしょう。つまり、徹底的に守って守って、隙をみての攻撃。

トルシェ、ジーコ、オシムと引き継がれた日本のストロング・ポイントである中盤でのゲームメイクを捨て、GKの前にDF四人、その前にMF三人を並べての徹底的な守備。しかも3トップにみえて実際は0トップ。FWにも中盤の守備に奔走させる。そして相手の攻撃をうまく跳ね返して、余裕があったら前線の3人を走らせての攻撃。

なんとも古典的な戦術ですが、弱いチーム向きの戦い方であり、岡田監督が現役の選手だった頃には普通だっただけに指導しやすかったのでしょう。

更に重要なことは、この不様で退屈な戦術を選手が一致して受け入れ、かつ団結したことでしょう。日本代表は、まとまった時は驚くほど強く逞しくなる。それが再び立証された試合でした。

ただね、間違ってもこれで岡田監督を名監督だなんて思わないことです。この超守備的な戦術は有効であることは、数年前にギリシャが欧州選手権で優勝して実証しています。

で、その後のギリシャはどうか。この大会にも出場していますから弱いとは言いません。でも、未来への展望が開けない戦術であることも確かなのです。今回も早々に予選敗退が決まったギリシアの試合を観れば分ると思います。つまるところ、選手の力を伸ばさない戦い方なのでしょう。

かつてはイタリアがこの戦術の名手でした。カテナチオ(閂をかける)と称していましたが、現在はまったく使っていません。オバカな日本のアナウンサーが恥知らずにも、イタリア戦を実況するとカテナチオを口にしていますが、当のイタリアが聞いたらウンザリするでしょうね。

イタリアの名監督として知られるアリゴ・サッキは「あれはイタリアが弱かったから採用したんだ」とはき捨てているインタビューを見たことがあります。今でもイタリアは守備を大事にしますが、攻撃のための守備であり、かつてのカテナチオとは似て非なるものです。

この弱者に相応しい古典的戦術が、岡田監督の限界でしょう。要するに選手の力、チームの強さを伸ばさない戦術なのです。事実、今回の岡田JAPANの主力選手が、海外で実力を伸ばしたいるのは否定しがたい。

オランダで本田が、フランスで松井、スペインで大久保、ドイツで長谷部。いずれも海外のチームで鍛えられた選手ばかり。やはり日本人監督やコーチでは、世界に通用する選手は育てられない。せいぜいアジア・レベルが限界なのでしょう。

もっとも中盤の底で必死に守備に駆け回った功労者の遠藤や阿部は、純粋に日本育ち。少なくとも守備ならば、低レベルの日本人コーチの指導でもなんとかなるのかもしれません。でもね、阿部と遠藤に走るサッカーを指導したのは、他でもないオシム監督です。

次のパラグアイは、日本が苦手な南米のチームであり、その守備のしつこさ、球際の激しさは格段に上のチームです。イケメンで知られるサンタクルスが有名ですが、地味に確実なプレーをしてくる試合巧者ぶりで知られています。このあたりで日本は守備的サッカーの壁にぶつかる気もします。

とはいえ、今の日本代表には勢いが感じられるので、このまま快進撃を続けて欲しいと思いますが、どうなることやら。まぁ、ここまで楽しませてもらえれば、私としては満足ですね。

岡田監督には、この大会を最後に拍手をもって退任してもらいたいものです。この人の下では、世界に通じる向上はないのは分っていますからね。
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改革の難しさ

2010-06-24 13:10:00 | 社会・政治・一般
率直に言って不思議でならないのが民主党政権への支持だ。

普天間問題での迷走や母子手当ての財源問題、はたまた高校無償化とやりたい放題だ。私だけでなく、周囲でもこのばら蒔きと迷走には批判が多い。

しかし、だ。にもかかわらず、自民党への支持は増えない。このあたりに民主党支持の秘密があるように思う。

たしかに民主党の政治には信が置けない。しかし、自民党よりはマシではないか。もう二度と自民党政治には戻って欲しくない。そんな庶民感情が民主党支持と自民党への不支持につながっているようだ。

この庶民の反自民党感情を狽チたのが、いわゆる小泉・竹中改革と呼ばれる財務省主導の構造改革だと私は思う。

この改革の背景は、少子高齢化により経済規模が縮小し、これまでよりも政府の収入が減る。その一方で福祉国家への転換を望む声が高まる以上、政府の従来の支出を減らさざる得ないとの財務省の意向を強く反映したものだ。

そうなると必然的に公共工事といった金食い虫の削減につながる。これが長年自民党政権を支えてきた建築土木業界の離反を招いた。私が聞き及ぶ範囲では、彼らこそが最も過激な自民党批判勢力と化している。

竹中がどこまで意図していたのかは不明だが、アメリカ型の経営改革手法の導入は結果的に弱い者を切り捨てることで利益を産みだす仕組みに他ならない。

90年代から始まったグローバリズムとは、アメリカ国内の中産階級から仕事を取り上げて、その仕事を人件費の安い国移転させて、その利益を経営者と株主が山分けする結果となった。必然的にアメリカ企業の株価は上昇したが、経営者を除いた労働者の所得は大幅に減少した。いくら国外から安いアメリカ製品を再輸入したところで、貧困者が増加するのは当然のことだ。

そのやり口を日本でも出来るようにしたのが小泉・竹中改革であり、その結果ワーキング・プアと呼ばれる新たな貧困層を生み出した。小泉氏がそれを意図していたのかは知らないが、改革を下層労働者の切捨てで成し遂げた以上、見かけ上で企業はリストラに成功したとされる。竹中は、それを改革の成果だと賛美する。

たしかにその当時、日本企業の業績は回復の基調にあったことは否定しない。しかし、熟練労働者を切り捨て、使い捨ての派遣労働者に代替したことで、むしろ日本の製造業は弱体化した。日本を経済大国に押し上げた原動力である自動車業界、家電業界は軒並み衰退業種への坂道を転がりだした。

かつてはトップを独走していた日本企業だが、現在は韓国、台湾はもとよりシナにまで脅かされる窮状にある。一方、竹中氏が力を入れていた金融サービスだが、これは製造業以上に内情は悲惨だ。

顧客と接していた女性行員をATMに代替させ、男性銀行員を生命保険と投資信託の営業マンとすることで利益を生み出すことに夢中になった。一方、経済の動脈ともいえる企業融資は減らす一方だ。

融資の判断は、財務分析ソフトに一任させる手法をとったことで、企業と銀行との信頼関係は断絶した。もはやメインバンクなんて言葉は死語と化した。

とりわけ中小企業融資は極端に落ち込んだ。当然である、大企業と異なり中小企業融資は社長個人に融資することに他ならない。つまり人を診る目が銀行に必要とされる。しかし、今の銀行員にそれを求めても無駄だ。もはや、そのような能力はなくなってしまった。

バブルの崩壊で危機的状況に陥った我が国の金融機関を救うはずだった小泉・竹中改革は、たしかにメガバンクを作り出して銀行を救済した。しかし、銀行の能力は結果的に大幅に低くなった。この融資能力が大幅に低下した銀行が、現在の日本経済の足を引っ張っている。

本来、日本企業のレベルを世界水準に引き上げ、21世紀の日本を牽引するような企業を作り上げるはずだった小泉・竹中改革の成果がこれなのだ。

切り捨てられた熟練労働者や、公共事業頼りから転換できずに苦しむ企業が自民党を支持するはずがない。経済の動脈は、銀行の低レベル化により動脈硬化を引き起こして、貸し渋り不況を生み出した。どうして自民党を信じることが出来ようか。

鳩山内閣があれだけ失政を繰り返したにも関らず、自民党への支持は回復しない。これはやはり構造改革路線の失敗に他ならない。

とはいえ、構造改革を必要とする環境に変りはなく、改革が必要であることに変りはない。問題は、改革のやり方に失敗したことだ。

敢えて言いますが、長年日本に慣れ親しんだシステムを変えようとする大改革に乗り出す以上、その言いだしっぺこそが、自ら率先して範を示すべきでした。しかし、しなかった。口先だけで過酷な改革を強要した。だからこそ、改革に抵抗するか、あるいは面従腹背の姿勢で誤魔化された。

結果として小泉・竹中改革は、当初の目論見からは程遠く、反発ばかりが残った。そして、今も自民党はどうしたら良いか分らずにフラフラしている。これでは当面、反日自虐政権が続くのも致し方ない。

夏の参議院選挙は、おそらくは民主は大きく議席数を減らすと思うが、自民もたいして伸びそうもない。自民党は、まず自らの徹底改革をして、改革の範を示すことで有権者の信頼を取り戻すことが必要だと私は思う。
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