ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

検討中

2022-03-31 11:40:00 | 日記
元より三月は忙しい。

仕事柄、確定申告という繁忙期であるのはもちろんだが、今年は自身の入院も重なり、ネコの手を借りたいどころか、ネコ様に跪いてお願いしたいレベルで忙しかった。

まァ愚痴っても仕方ない。やるべきことを粛々とやるだけだ。そんな最中、古株のブログ仲間であるニシタツさんからTeacupのブログサービス停止の報が知らされた。青天の霹靂である。

ブログ自体、どちらかといえばもう流行ではないらしいのは知っていた。オンラインによる無料サービスは、いつかは停止の可能性もあることも分かっていたが、よりにもよってこの時期とは参る。

ただしサービス停止は8月らしいから、まだ時間の猶予はある。

AOLのダイアリーから始めた私のブログも17年目に入っている。率直に言えば、もう引越しはしたくない。せめて過去記事は残しておきたい。出来るならばコメントなども含めて残しておきたい。

だが、案外とこれが難しい。永続的なブログサービスを考えるとワードプレス一択なのだけれど、ここはいささか敷居が高い。面棟Lいのを厭うナマケグマの本性が出てしまう。

あれこれと調べていたら、Teacupのほうで簡単に引越しできる相手先としてGooを紹介している。正直、さほど人気があるブログサービスではないらしいが、コメント欄を含めて過去記事も引越しできるようなので、とりあえずこちらに避難しようかと思案中。

まァ連休までに決めるつもりですが、暇を見て他も調べてみます。でも、記事だけでなく、コメントや画像まで同時に引越しできるので、そうなるとGoo一択かなとも考えています。

長年書き続けてきたブログなので、備忘録としても重要というか、私の読書録でもあり、また思索の表現の場でもあり、とても思い入れの深いものとなっています。元の原稿自体はPCに保管してあるのですが、コメント欄も含めてのブログだと思うので、上手に引っ越したいものです。
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折り畳み傘

2022-03-30 11:47:00 | 日記
私はわりと物持ちの良い方だ。

よく失くすことで知られている傘だって、10年以上使うことも珍しくない。だからこそ安直に壊れる傘は許せない。つい先日、壊れた傘は某デパートで買ったものだ。多分、5千円程度はしたと思う。

高級品ではないが、作りがしっかりとしていたので愛用していた。ただ最近、傘の骨と布部分をつなぐ紐が切れたりしていたので、気になっていた矢先に壊れた。

無理すれば使えるのだが、それが煩わしくて捨ててしまった。一応国産品である。買ったのは8年ほど前だから、私としてはまだまだ使いたかった。しかし、壊れ方がみっともないので諦めた。

安かろう、悪かろうなら分かる。しかし、銀座の一角に店を構える一流デパートで扱っている商品の質がここまで落ちているとは思わなかった。5千円はこの店では安い部類なのかもしれない。でも十数年前に買った普通の傘は、今も現役で使えるぞ。

もっとも、こちらの普通の傘は冠婚葬祭用の真っ黒な傘なので、日常品としては使い辛い。また使用頻度が少ないので、使えて当然かもしれない。だから単純に比較は出来ない。

ここまで質が落ちているとなると、これはドンキなどの格安店で安い傘を買って、3年程度で買い替えるほうが良いのだろうか。私としては、一つのものを長く使ったほうが環境に優しいと思うのですがねぇ。

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カタール大会出場決定

2022-03-29 11:09:00 | スポーツ
とりあえず喜ばしいニュースである。

アウェイでのオーストラリア戦に2―0で勝利したサッカー日本代表です。

正直、引き分けなら上出来だと思っていたので、勝つとは思わなかった。実際、前半も後半も互いに守備的に過ぎて、どちらのチームも得点できる感じがしなかった。だが、森保監督の選手交代の采配が的中した。

後半の終盤で登場した三笘が二得点。よもやの勝利であった。だが、これは必然でもあったと思う。お気づきの方もいると思うが、現在の日本代表は、フロンターレ川崎の選手が事実上、チームの中核を担っている。

得点した三笘もそうだが、守備の守田、板倉、谷口、山根、中盤の田中碧もかつてフロンターレで活躍したメンバーだ。今回は招集されていないが、セルティックで活躍する旗手もいる。彼らはJリーグで優勝した時のメンバーばかり。当然に息もあうだろうし、互いのプレーが分かっている。

ちなみに解説が、フロンターレ一筋であった中村憲剛だというから笑ってしまう。現在、フロンターレはけっこう苦戦しているが、それは優勝時の若手メンバーの多くが海外のチームに移籍したからだ。

フロンターレのサッカーは一言では言えないが、中心選手であった中村憲剛のプレーが基盤となっていた。パスを受け、素早く展開する攻撃サッカーなのだが、そのパスの受け方のレベルが高い。プロのサッカー選手ならば当然だと思うかもしれないが、その更に一段階上の技術だと思っている。

世界的な名選手であり、現在ヴィッセル神戸でプレーするイエニスタが、一度は一緒にやってみたい選手として中村憲剛を挙げている。彼は30近くになり、当時フロンターレの監督に就任した風間氏から、基本であるパスの受け方、出し方を徹底されたことで、更に技量が上がったと自ら述べている。

風間といえば、まだ日本のサッカーが弱かった時代、ドイツのプロリーグで活躍しただけに、その理論的な指導には定評がある。残念ながらフロンターレの監督としては、好成績を残したとは言い難い。

しかし、彼の指導を受けた若手たちが、こうして日本代表として花開き、活躍しているのだから大したものだと思う。監督としては、まだまだ未熟な森保監督が、敢えて自分が関わっていない元フロンターレの選手をチームの中核に据えたことが、今回のワールドカップ予選の突破に大きく役立ったと私は考えています。

7回連続でのワールドカップ出場は嬉しいのですが、この先は更に茨の道でしょう。アジアとは異なるレベルの欧州、南米、そしてアフリカ勢との戦いであり、まずグループリーグ突破さえ厳しいのが実情です。

森保ジャパンは、選手だけでなく、監督、コーチの底上げまで狙った発展途上のチームです。今回のオーストラリア戦で苦しんだ理由の一つは、FWの柱であった大迫の欠場でしょう。

大迫がいないと南野が活きてこない。また代役として森保監督の秘蔵っこであった浅野を先発させています。でも芝の荒れたピッチで浅野の強みであるスプリント力は活かされず前後半苦戦しました。その浅野の交替で入った三笘が得点しているのです。森保監督の交替は適切でしたが、ならば何故に最初から使わないのか疑問です。

はっきり言って、森保監督の力量は、ワールドカップに挑むレベルには達していないと思います。下手すると、岡田氏や西野氏よりも低いかもしれません。しかし、プロ化されて以降、ようやく育ったプロ選手上がりの監督です。苦しみながらも育って欲しい想いは、私にもあります。

でも、そうなると結果を望むのは酷に過ぎるかも。ベスト8とは申しませんが、せめてグループリーグを突破して欲しいですね。
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ガソリン代の高騰

2022-03-28 10:46:00 | 経済・金融・税制
ガソリン代の高騰が止まらない。

これをウクライナ危機と結びつける報道などがあるが、高騰自体はそれ以前からある。政府が補助金を支給した程度で収まるとは思えない。

なぜなら、このガソリン代の高騰は石油という化石燃料の枯渇と深く関わっているからだ。もちろん、まだまだ原油はあるし、決して油田が枯れ果てた訳ではない。しかし、産油国は強い危機感を持っている。原油が枯渇する前に、出来るだけ稼ぎたいのが本音だろう。

さらに言えば、原油の高騰は今後も続く。日本政府の小手先の補助金ばら撒きなんざ、なんの役にも立たない。では、この価格高騰はいつまで続きのか。

答えは分かっている。原油を代替する化石燃料の採取から精製、販売価額が見合う値段まで上昇してからだ。私の予想だと、天然ガス、もしくはシェール・ガスが相当程度ガソリンを代替すると思う。

期待の大きい水素に関しては、技術的制約からまだ当分は難しいと思う。液化石炭もやはりコスト面での制約が大きく、ガソリン価額が相当に上がらない限り、採算が合わないと予測している。

いかなる優れた技術も、市場社会ではコストの制約からは逃れられない。ガソリン代の高騰は、ライバルとなる他の化石燃料のコスト次第だと思う。

ただ、原油の枯渇は21世紀の世界に大変動をもたらす可能性が高いことは指摘しておきたい。

特に中東において劇的な変化をもたらす。その中心となるのはサウジアラビアだ。20世紀より不思議なほどにアメリカと蜜月関係にあったが、原油という戦略物資の枯渇は、必然的にサウジの政治的地位を押し下げる。

サウジはイスラム教スンニ派の国だが、王家はワッハーブ派というスンニ派でも異端な存在であり、そのせいでアラブ社会において指導者的存在にはなれずにいる。石油輸出機構では中心的存在であるが、アラブ社会では思いの外評価は低い。

かつてのサウジ王家の人たちはそれを分かっていたし、アメリカあってのサウジである現実も理解していた。しかし、生まれついて大富豪の地位にあった現在のサウジ王家の人たちは違う。

自分たちの政治的地位が低いことが我慢できない。アメリカの保護下にあることに我慢できない。だからこそサウジは反米志向が強いテロリズムの温床となって久しい。ビン・ラディンはサウジの富裕階級出身であることを思い出して欲しい。

多量の原油を有するからこそサウジは、アメリカとの友好関係を維持できた。しかし原油が枯渇したら、どうなる。これはいささか大胆過ぎる予測だが、アメリカとイランは再び友好を取り戻すかもしれないと考えている。

もちろんイスラエルのこともあるので一筋縄ではいかないだろう。でもパーレビ王朝のイランは、アメリカ第一の友好国であったことも事実だ。イランは反米を口にすることは多いが、案外と本気でアメリカと戦う気はない。ただ友好を取り戻すきっかけがない。

もしサウジがアメリカから離反すれば、それは絶好の機会となる可能性がある。

まァ、いずれにせよ、それは原油次第である。現代文明は石油に支えられたことを改めて痛感しますね。
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分かれ道

2022-03-25 11:54:00 | 日記
他人を励ますのは難しい。

その点、私は恵まれていたのだと思い出した。

2月末に某大学病院に入院したのだが、ここはかつて新社会人の頃に長期入院をした病院でもある。訳も分からず地元の病院から転院という形で移ってきた。そして、自分の病気を碌に理解せぬまま透析室へ運ばれる毎日。

教わるまでもなく、私は人生の扉が閉じていくことを呆然と自覚していた。もう今までの生活は戻ってこないと、静かに、でも着々と理解しつつあった。本来ならば泣き騒いでも良かったように思うが、その時は茫然自失の状態で愛想笑いを浮かべるのが精一杯であった。

心配されるのも、同情されるのも嫌だった。一番嫌だったのは「頑張れ」と中身のない励ましをされることだった。いったい何を頑張るのだ?薬を多量に飲むことか、それとも大人しく寝ていることか?

でも、その憤りを顔表に出さない程度の自制心はあった。悪気がないのが分かっていた為でもあるし、自分自身具体的にどう頑張るのかも分からないのに怒るのも理不尽だと思ったからだ。

私はけっこう意地っ張りで見栄っ張りなようで、病気の苦しさを他人に知らせることが苦手であった。だが、分る人には分かるのであろう。

その頃、私が居た病室は本来4人部屋であった。だが重篤な患者を入れる関係で、病室内に医療機器が幾つも置かれていた為、実質2人部屋であった。この部屋の別名が「天国に一番近い部屋」であったことは当時は知らなかった。

でも、私がその部屋に居た2か月あまりで無事に他の部屋に移ったのは2人だけで、他の人は静かに居なくなっていた。朝、ベッドの周りのカーテンを開けると、隣のベッドが空っぽになっていたことが良くあった。看護婦さんに訊いても「引越ししたのよ」と軽くいなされた。

私は動けないながらも耳を澄ませて聞いていたから、深夜に医師たちが緊張感を伴う声で動き回っていたことに気が付いていた。どこに引っ越したのかぐらいは、もう気が付いていた。そして、自分がそうならないことを祈っていた。

寝たきりの生活が2か月ほど続き、遂にこの先腎臓の機能は回復しないと判断され、シャントという透析用の血管を作る手術も既に予約済みであった。私は二十代の若さで、週に3日ほど透析を受けねば生きていけない身体になったことを適当に受け止めていた。

適当・・・そうとしか言いようがない。当時の私は理屈は受け入れていたが、その中身を真剣に受け止めることが出来なかった。薄ら笑いを浮かべながら、医師の説明を聞いていたと思う。

その時、私の隣のベッドにいた方がAさんでした。ほとんど口をきいたことがない方でしたが、私が投げやりな態度でシャント手術の説明を聞いていたのに気が付いていたようです。

その直後だったと思う。Aさんの方から話しかけてきた。「年寄りの昔語りに付き合ってくれ、退屈なんじゃ」と前置きして話し出したのは、Aさんの半生でした。

戦争中、アメリカに居て収容所暮らしの後、アメリカ駐在の商社員として働いていたAさんは、ある日胸が苦しくて唐黷ス。アメリカの病院で当時、最新のペースメーカーを埋め込む手術を受けたが、その結果商社員としては出世街道を外れてしまった。

そこで一念発起して独立して会社を作り、自分の病気に合わせた働き方が出来るようにして20年頑張ってきた。ただ年齢を重ねるたび、老後をアメリカの地で暮らすことに不安を感じた。そこで会社を売り払い、日本に帰国して不動産運用会社を作って、病気の身体でも稼げるようにしてきた。

おかげで、今回も半年近い入院だけど、金には困らないと笑っていた。それは羨ましいですねと答えると、「ワシは君の若さが羨ましい」と返された。そのくらい若さがあれば、もっと稼げたはずだよなァとぼやいていた。

私はどう返していいか分からず、英語がペラペラなんですねと言うと、こればっかりは人一倍努力したからねと言っていた。事実、Aさんは毎朝、英字新聞を読み、英語の中波放送を欠かさず聴いていることには気が付いていた。

ちなみに今回の長期入院は心臓ではなく、他の疾患だそうで、数日後には一般病棟に引っ越していった。その時はよく分からなかったが、社会人としての最初の一歩を踏みちがえた私にとって、Aさんの話は強く記憶に残った。

後年、私が税理士の資格を取り、自分の事務所を持とうと考えた時、最初に脳裏に浮かんだのはAさんの姿であった。今にして思うと、Aさんは生きることに投げやりになっていた私を励まそうとしていたのだろう。

ところでシャント手術だが、これは受けずに済んだ。手術予定日の前の晩、忘れかけていた尿意を覚えて看護婦さんを呼んで、尿瓶を用意してもらったら、本当に尿が出た。ほんの少量だったけど、たしかに出た。

看護婦さんが嬉しそうにナースステーションに駆け戻っていったのを覚えている。その日の深夜、主治医の先生が来て、シャント手術は中止すると教えてくれた。その時、私がどんな顔をしていたのか思い出せないが、薄ら笑いを消していたと思う。

それから数週間後には尿は普通に出るようになり、透析も中止となった。内心すごく嬉しかったが、その時は既に一般病棟に移っており、周囲に透析患者が多数いたため、その喜びを表に出さないよう気を遣った。

奇跡といったら大げさだろうが、レアケースなのは確かだと思う。実際、私はN教授(当時は講師だった)の担当患者になったのは、このことが大きいはずで、後には医学論文に掲載されたと聞いている。

先月、久々にその大学病院に入院した時、私のいた循環器病棟から、昔私が二か月を過ごしたあの「天国に一番近い部屋」が覗けた。思い出したのは、あのAさんのことだ。

私にとって、あのAさんとの邂逅は、人生の分かれ道であったのだと今にして痛切に思います。私はけっこう恵まれていたのだと云わざるを得ませんね。
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