ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

中波放送の廃止

2024-02-29 09:39:20 | 社会・政治・一般

時代は変わる、新たに生まれるものもあれば消え去っていくものもある。

ご存じだろうか。ラジオの中波放送が2028年までに廃止予定であることを。長い間、多くのリスナーから愛された中波放送だけに、何故にとの思いは強い。しかし、現実にはラジオ局としての売り上げは年々減少しており、経営自体が苦しい。

独立系のラジオ局もあるにはあるが、多くは全国規模の新聞社、TV局の関連会社である。親会社にとっても経営的重荷になっていたのは事実だ。そこで総務庁が音頭をとって、2028年までに中波放送を順次取りやめてFM波やネットラジオへの移行を目指しているそうだ。

10代半ばの頃まではラジオ少年でもあった私からすると、残念過ぎるニュースではある。FM波よりも到達距離が長く、短波放送よりも音質が良いのが中波放送の良さであった。しかし、中途半端な立ち位置であった。電波の使用は政府の許認可事業であり、致し方ない部分もある。

しかし、中波ラジオ放送は手軽に聴けて、しかも電池で動くラジオでも十分聴きとれる。大震災のような災害時にはラジオこそ最適な情報源である。また深夜のドライブ時には、中波ラジオの番組は眠気を防ぐのに格好であった。

ただ総務省もそのあたりは分かっているようでNHKの中波放送だけは残る予定らしい。言い換えれば民放各局の中波放送は消滅予定となる。

理屈では分かるのだが、やはり寂寥感は否めない。「オールナイトニッポン」や「タムタムタイム」「パックインミュージック」「セイヤング」と深夜放送に夢中だった私の青春の一部が消え去ってしまうのだから当然だ。

実は私の事務所では常時FM放送をBGMとして流している。夜になるとスタッフが野球の実況中継を聞くために中波放送に切り替えるぐらいで、たしかに聴かなくなっていた。これも時代の流れだと理屈では納得している。

それでも寂しく思ってしまうのだからわがままなものだ。。

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私はやっぱり悪くない

2024-02-28 09:32:19 | テレビ

私は悪くない。

そんな本音が出ていたのが、日テレが4月に放送予定であった漫画「たーたん」の実写化ドラマであった。製作スタッフは「セクシー田中さん」と同じメンバーである。既に主役などの俳優陣も決まり、撮影段階に入っていたのだ。

しかし「セクシー田中さん」の原作者が自殺した件を受けて事態は急変した。知らん顔して事件の立ち消えを狙ったTV局の思惑は外れ、ネットを中心に大炎上してしまった。そんな矢先に同じ製作スタッフによる漫画原案の実写化ドラマである。日テレ上層部もほっておけなくなった。

以下の情報元は、文藝春秋の記事を主にネット上で検索したものに基づくため、フェイクが混じっている可能性があることは、予め書いておきます。ただ、内容が内容だけに、本当に事実と異なるものならば、日テレのドラマ製作スタッフの名誉を大いに傷つけるものであり、日テレは断固法的措置を取らねばなりません。しかし現時点でその動きはありません。

さて「セクシー田中さん」の原作者が自殺したことを、自分たちには責任ないとしらばっくれて、却って世間の反発を買った日テレなのだが、現場の製作スタッフも同様に全く反省なぞしていなかったことが分かってしまったのだ。

原作の「たーたん」では、ある女性が飛び降り自殺を図ろうとする場面があるのだが、実写化ドラマの脚本では、その女性が少女漫画家に変えられていたという。その変更が「セクシー田中さん」の原作者の自殺の後なのかどうかは分からない。しかし、変更する必然性は原作にはまったくないことだけは確かだ。

誰がその変更を主導したのかもわからないが、原作者ではないはず。むしろ「セクシー田中さん」の原作者に対する当てつけではないかと疑われても致し方ないと思う。日テレ上層部もそう考えたようで、最終的には放送は取りやめとなった。

文藝春秋の取材によると、その取りやめ発表を受けての製作スタッフの反応は「悔しいです」であるそうだ。原作者の意図に反して原作を改変することを悪いことだと思ってないからこその反応だろうし、自分たちは被害者だと世間とは真逆の認識でいることが良く分かる反応でもある。同時に原作者に対するリスペクトどころか邪魔者扱いしていたことがはっきり分かる。

あの自殺事件から一か月が経つが、未だに件の製作スタッフからの謝罪表明はない。それどころか主導したと思われる女性プロデューサーは逃げまくりで表に出てこない。日テレもこのままでは拙いと気が付いたのか、社内に事件を検証する委員会を立ち上げた。

しかし、普通この手の検証委員会は第三者を入れるが、あくまでその気はなく社内の人間だけで済ませている。当然に検事出身の弁護士などは入れる予定さえなかったようだ。やはり同じ穴の狢なのでしょう。外向けの発言はともかく、内心では「やっぱり私は悪くない」との思いがひしひしと伝わる醜態です。

それにしても、自分たちで自殺に追いやりながら、他のドラマで追い撃ちを掛ける遣り口には嫌悪感しか感じませんね。

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セブン

2024-02-27 10:04:24 | 映画

間違いなく傑作だと思う。

それなのに、何故だかもう一度観たいとは思えない傑作、それがサイコ・ミステリーの金字塔でもある「セブン」だ。初めて観たのはレンタルビデオ屋で借りたヴィデオだった。当時社会復帰したばかりで、体力的な疲弊が激しく週末は近所を散歩するのがやっとだった。

その散歩のついでに図書館に通い、ついでにレンタルビデオ屋に寄って数本借りるのが習慣化していた。疲れているせいか、あまり深刻なものよりも娯楽性の高いものを選ぶことが多かったが、その時は妙にミステリー映画が観たくなり、予備知識なしで借りたと記憶している。

白状すると、ヴィデオを観終わった後での素直な感想は「しくじった」であった。途中までは良かった、定年間近の疲れたヴェテラン刑事と希望に燃える新人刑事がはじめはすれ違いながらも、次第にバディとして成長していく様子は見応えがあった。

しかし、あのエンディングはあんまりだ。駄作だからあんまりだ、ではない。傑作だからこそ、あんまりだと思ってしまったのだ。いや、現実は後者のような残酷な結末がほとんどなのだろう。それは分かっても、疲弊しきっていた私には辛い結末であった。

この時の印象があまりに強く、その後再び観ようとは思えなくなってしまった。今回はコロナ禍で暇を持て余していたので、観てしまったのだが、やはりエンディングの悲惨さはミステリー映画屈指のものだと痛感した。

もっとも病み上がりで働きだして間もない頃の初回の鑑賞と違って、多少は心に余裕があってでの鑑賞であった。だからこそ初回よりも細部にわたって映画を堪能できたのも確かだ。サイコものもかなり観てきたし読んでいたので、予想よりは辛くはなかった。

むしろまだ若々しいブラッド・ピットに新鮮な印象を受けたほどだ。モーガン・フリーマンは・・・この人の年の取り方って良く分からない。多分若い時の印象がほとんどなく、年を重ねてから俳優として熟成した人なのだと思った。

ただ、傑作映画なのに未見の人にあまり薦めたくない名作ってどうよと思う。ハッピーエンドの作品が喜ばれるアメリカで、この映画が3週連続でトップだったのも、ちょっと信じがたい。でも事実だから不思議ですね。

 

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ウォーターワールド

2024-02-26 12:44:26 | 映画

ここ数年、寒くなると私はスープを作る。

当初は味噌仕立ての鍋が多かったが、どうも塩分が多すぎる。そこで素材の塩分を活用するフランス料理のポタージュ、いわゆるポトフに切り替えるようになった。これが案外と種類が多く、多少の失敗を繰り返しながら、あれこれ作って楽しんでいる。

ちなみに失敗の原因の多くは具材の入れ過ぎである。種類が多いのは好ましいが、量を抑えないと結局グダグダになってしまい、味も落ちてしまう。私のスープ造りは如何に量を抑えて種類を増やすかが課題となって久しい。

これは映画製作にも共通するように思う。ケビン・コスナー主演のアドベンチャー映画なのだが、はっきり言って沢山の要素を持ち込み過ぎて、却って物語としての核が薄れてしまった典型的な駄作である。ただSF好きの私としては、大幅な予算超過を覚悟しつつ迫真の映像を作り上げた努力は認めたい。

駄作だと、予算オーバーだと誹謗されつつも実際には黒字を確保した映画であることも確かだ。大阪のUSJに行ったことがある人は見たことがあると思うが、この映画をモチーフにしたアトラクションは非常に楽しめる。実際私なんぞ3回も観ている。

映画として成功の可能性はあったと思うが、様々な様子を詰め込み過ぎて、却って印象が弱くなっているのが残念だ。そう考えると私が作るポトフも、もう少し具材を絞ればちったあマシな味になるかな。

あれこれ思うことはあるが、せめてケビン・コスナーの鰓の秘密ぐらい作中で明かせよとぼやきたくなる映画でしたよ。

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批判は検閲だ

2024-02-22 14:46:02 | 社会・政治・一般

大きな組織ほど傲慢になる。

> そして、裁判のなかで証言に立ったNHK幹部は以下のように発言していたのだ。

<放送局として、我々が作る編集内容に関して第三者が口を出せるということを認めてしまうこと自体が認められない。ほとんど検閲に当たります>(15年4月28日付け講談社リリース「『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』に関するNHKとの裁判の判決に対する講談社の見解」より)

ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2024/02/post_375341.html
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小説などの映像化を原作者が確認する。そのことを検閲だと断じて切り捨てたのが天下のNHK様である。

馬鹿なの?本気でそう抗弁しているの?

さすがに講談社も呆れたが原作者も本気で怒った。遂に映像化は認めず、せっかく製作した番組は放送中止となった。そこで製作にかかった費用などを講談社に求めての上記の訴訟となった訳だ。

既に判決は出ているが、NHK側の全面敗訴である。おそらくだけど、報道の自由は原作者の著作権を超越すると本気で思っていたのだろう。ある意味、日テレ以上の傲慢さであり、過去にも相当なことをやらかしていたと推測できる。

これはフィクションに対する原作の改変だが、ご存じの方もいると思うが、NHKの番組製作には問題が多い。過去にも昭和天皇に対する架空裁判をやらかしたり、事実を捻じ曲げて反日自虐ドキュメンタリーを放送したりとやりたい放題である。

おかしいのは他の民放TV局で、NHKの蛮行を否定的に報道することを避けること甚だしい。今にして思うと民放各局も大なり小なり似たようなことをしていたので、むしろ共感していたのかもしれない。

日本における報道の自由とは神聖なもので、捏造であれ改悪であれ第三者の誹謗は検閲として排除する。

私は報道の自由といった概念自体は否定しないが、マスコミ様の傲慢さには辟易しております。

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