初めて本格的なフリークライミングをやったのは、大学4年の5月だった。
WV育ちの私はそれまでは、縦走登山と藪漕ぎ、沢登り、里ワンデリング(徒歩旅行のことです)が中心で、たまに山岳部の連中とエイド・クライミング(人工登攀)をするくらいだった。
道具に頼らず、自分の手足の力だけで垂直の壁に挑むフリークライミングは、頭と筋肉の両方を駆使して登る面白さが魅力で、あっという間にはまってしまいました。三つ峠、小川山、城ヶ崎海岸などのゲレンデをまわり、簡単なルートから困難なルートへと少しずつレベルアップしていきました。当時の私の技量では、5,10後半が限度で一度だけ5,11を成功したことがありましたが、どうも偶然臭い。
社会人になって金をためたら、会社を辞めてフリークライミングの修行で世界旅行がしたいと、密かに目論んでいました。なかでも一度は行ってみたかったのは、アメリカのイエローストーン国立公園内にあるヨセミテ渓谷でした。当時フリークライミングの最先端はフランスでしたが、フリークライミング発祥の地はアメリカ。雑誌などで見た美しい垂直の岸壁は、是非ともトライしてみたかったのです。
残念ながら、難病で身体を壊してしまい、フリークライミングどころか日常生活すら不自由を感じることになってしまい、その夢は断念せざる得ませんでした。今は普通の生活が出来ますが、激しい運動は難しいと思い、山は諦めています。
ところで、アメリカには多くのトッププロ・クライマーがいて、その一人がトッド・スキナーでした。逞しい上半身とは裏腹に、繊細な足裁きが記憶に残っています。上手な人ほど、足の使い方が丁寧で、良き見本となるクライミングでした。
先週末、新聞の死亡欄にトッド・スキナーの名前を見たとき、私の脳裏には褐色の花崗岩の岸壁と、日焼けした逞しい体つきの彼の笑顔を思い出しました。楽しそうだったなあ、彼のクライミングは。
あんな笑顔を浮かべられる彼のクライマー人生に、ちょっぴり憧れを感じたものす。過ぎ去る歳月の速さと、その重さをしみじみ感じた週末でした。
WV育ちの私はそれまでは、縦走登山と藪漕ぎ、沢登り、里ワンデリング(徒歩旅行のことです)が中心で、たまに山岳部の連中とエイド・クライミング(人工登攀)をするくらいだった。
道具に頼らず、自分の手足の力だけで垂直の壁に挑むフリークライミングは、頭と筋肉の両方を駆使して登る面白さが魅力で、あっという間にはまってしまいました。三つ峠、小川山、城ヶ崎海岸などのゲレンデをまわり、簡単なルートから困難なルートへと少しずつレベルアップしていきました。当時の私の技量では、5,10後半が限度で一度だけ5,11を成功したことがありましたが、どうも偶然臭い。
社会人になって金をためたら、会社を辞めてフリークライミングの修行で世界旅行がしたいと、密かに目論んでいました。なかでも一度は行ってみたかったのは、アメリカのイエローストーン国立公園内にあるヨセミテ渓谷でした。当時フリークライミングの最先端はフランスでしたが、フリークライミング発祥の地はアメリカ。雑誌などで見た美しい垂直の岸壁は、是非ともトライしてみたかったのです。
残念ながら、難病で身体を壊してしまい、フリークライミングどころか日常生活すら不自由を感じることになってしまい、その夢は断念せざる得ませんでした。今は普通の生活が出来ますが、激しい運動は難しいと思い、山は諦めています。
ところで、アメリカには多くのトッププロ・クライマーがいて、その一人がトッド・スキナーでした。逞しい上半身とは裏腹に、繊細な足裁きが記憶に残っています。上手な人ほど、足の使い方が丁寧で、良き見本となるクライミングでした。
先週末、新聞の死亡欄にトッド・スキナーの名前を見たとき、私の脳裏には褐色の花崗岩の岸壁と、日焼けした逞しい体つきの彼の笑顔を思い出しました。楽しそうだったなあ、彼のクライミングは。
あんな笑顔を浮かべられる彼のクライマー人生に、ちょっぴり憧れを感じたものす。過ぎ去る歳月の速さと、その重さをしみじみ感じた週末でした。