ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

BLEACH 久保帯人

2011-05-31 09:49:00 | 

子供の感覚って鋭いと思う。

知人の子供が楽しそうにアニメの話を語っていた。ポケモンがどうこう、ナルトがあれこれ、ルフィー(ワンピース)がどうしたと、ほとんど一人語りの世界に浸っている。まァ、本人が楽しげなのでいいか。

車を運転しながら、フンフンと聞き流していたが、ふと気づいてブリーチはどうしたと訊くと、話を止めて少し沈黙してから一言「ブリーチは嫌い・・・」

なんでだろうと、妙に気になった。実は週刊少年ジャンプで連載されているげ原作の漫画のほうは、ほとんど読んでいなかった。当初は読んでいたのだが、そのうち読まなくなっていた。

でも、今でも連載されているし、アニメとして放送もされているので、相当な人気はあるのだろうと思っていた。たしか知人の子供も少し前まで、TVでブリーチを見ていたはずだ。

なんで、嫌いになったのだろう。

そこで、久々に読んでみることにした。読んで、すぐに気がついたのは伏線の多さだ。ストーリーの背景となる設定が、少々難解に過ぎる。単にバトルの場面だけだと、分りやすくスタイリッシュな絵柄なのだが、丁寧に読み込むと、いささか集中力を要する。

だが、漫画馴れしている今時の子供ならば、この程度は流せるはず。それよりも、信頼を裏切る登場人物が多すぎることが、子供が厭う理由ではないか。

優しそうで、物分りの良さそうな人物が、裏で陰謀を画策し、非情な姿に変貌しての裏切りと敵対。この作品に頻繁に描かれていることが、子供には辛いのだと思う。

もちろん、友情や信義の大切さも描かれている。しかし、どうしても裏切り者が敵として登場することが多い。これは、これで幼い子供には辛い。

多分、読者を少し高い年齢(中学生以上か?)に設定しているのではないか。

率直に言って、子供向けならば敵は単純に敵でいい。年齢を重ねるに従い敵には敵の事情があり、時としては友を裏切り、味方を騙しても守らねばならぬ事情があることも分ってくる。

単なる敵よりも、裏切ったかつての味方のほうが、敵としては激情を駆り立てる存在となる。これは、ある程度心が成長してからでないと、理解することも納得することも出来ないと思う。だから、幼い子供には辛いのだろう。

少年漫画であるならば、そのあたり配慮して欲しいと思うが、少年漫画を読むのは少年だけではない。そのあたりの難しさがあることは、私でも分るので一概に非難はしない。事実、私はそれなりに楽しめた。

でも、少年漫画ならば、心を傷つけるような残酷な場面は避けて欲しいな。あれは体の傷よりも辛いから。

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血まみれの月 ジェイムズ・エルロイ

2011-05-30 09:35:00 | 

心の奥底に、血まみれの獣が棲んでいる。

そのことに気がついたのは、小学6年の時であった。小柄な私は、背の順でいくと、いつも前から5番以内であった。ところが、成長期が始まり、気がついたらクラスでも中くらいにまで身長が伸びていた。

伸びていたのは身長だけではない。なぜか態度までもがでかくなっていた。もっとも、大半のクラスメイトも、私より少し遅れて成長期に入ったので、いつのまにやら元の位置に戻っていた。

背の順は元に戻ったが、態度はでかいままだった。鈍感な私はそのことに気がつかず、周囲からの反発を受けて、ようやく気がついた。

気がついた時には手遅れで、いじめというより制裁の的とされていた。幸い、この時の担任の先生がしっかりしていたので、短期間で終わった。

だが、遊び仲間の一人とは、どうしてもソリが合わなくなっていた。そのため、放課後一人の立会いの許で決闘することとなった。奴と一対一なら負ける気はしなかった。

結果は、あっけなかった。彼の喧嘩の癖を知っていた私は、あっさりと彼を床に引き摺りまわして倒し、馬乗りになって顔面をボコボコに殴った。指を亜脱臼するほど強烈に殴っていたことは、後で指が痛み出してから分った。

殴っている最中は、いつもやられていたことをやり返せる快感に酔っていた。鼻血を出し、泣きながら抵抗する彼を見下ろしながら、私は優越感と勝利の喜びに浸っていた。

だが、その酔いがとりとめもなく、腹の奥底から湧いてくることに戸惑っていた。自分が止まらなくなる恐怖に怯えて、我に返ると血まみれで泣いている彼の謝罪の声が耳に入ってきた。

聴こえていなかった・・・殴るのに夢中で、殴りつける快感に酔いしれた私には、彼の声が耳に入っていなかった。ふと、気がつくと、立会いを務めてくれたTの奴が私を薄気味悪そうに見ていた。

嫌な勝ち方をしたと後悔した。その後、私は二週間ほど村八分となった。これは堪えた。自分が悪いことが明白だったからだ。仲直りをして、ようやく元の平穏な関係に戻れた時は、心の底から安堵した。

同時に私は喧嘩を恐れるようになった。争うのが嫌いで、おとなしいはずの自分の奥底に、血まみれの獣が潜んでいることを知ってしまったからだ。

以来、私は我を忘れるような喧嘩はしていない。止む無く喧嘩をするときも、心の一部を冷静に保ち、心の奥底から血まみれの獣が湧き上がることを警戒していた。人を傷つける快感に溺れる自分がおぞましいからだ。

あれから40年近く経つが、血まみれの獣は今も私の心の奥底のどこかで眠っているはずだ。そう思わざる得ないのは、小説などで暴力の場面になると、妙に心が浮き立つことに気がついているからだ。

なかでも、私を浮つかせる代表的な作家がアメリカのジェームズ・エルロイだ。

最初に読んだのが、今から20年近く前に読んだ表題の作だ。初めて読んだ時から、こいつは危ないと予感していた。エルロイが書き記す暴力には、甘い腐臭を漂わせたスパイスが加味されている。

単なる暴力ならば、これほど惹かれることはない。人間の獣じみた本能に火をつけるような、危うい暴力だからこそ惹かれてしまう。

白状すると、エルロイのミステリーはあまり好きではない。プロットが複雑すぎるし、過剰に煽動的だし、主人公の異常さにも共感できない。なにより、取り扱う題材が陰惨であり、壮絶であり、邪悪に過ぎる。

にもかかわらず無視できない。数ヶ月経つと、なぜか読みたくなる。

認めざる得ないが、この香りは濃厚にして芳醇で、心の奥底まで届く。常識と理性で抑えられていたはずの危ない扉が、ゆらゆらと揺れているのが分る。

ライオンをはじめとして肉食獣の多くは、捕らえた獲物を一度埋めたりして、その肉が腐敗するのを待つことが多い。人間には腐臭としか思えないが、肉食獣にはたまらない香りであるようだ。

エルロイのミステリーもまた、一度埋められた肉に似ている。あるいは中毒性のアルコール過多のフルーツカクテルなのだろう。

どうも、私ははまっているようだ。少し恥じつつ、そう思わざるえない。

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真剣師小池重明 団鬼六

2011-05-27 12:06:00 | 

人として信用は置けない。

だが、その将棋は間違いなく強かった。どうしようもなく、不可解なくらいに強かった。アマは総なめし、プロ棋士との対戦でさえ大きく勝ち越している。しかも、当時脂の乗り切った高段位のプロ棋士相手にさえ連勝する凄まじさ。

その将棋は異形の型であり、江戸時代の棋士に近いと評される。序盤でもたつくが、終盤の追い込みの迫力は、プロ棋士でさえも黙り込ませる。

これだけの実力を持ちながら、決してプロ棋士界入りを許されなかったのは、その私生活のだらしなさにある。

人妻との駆け落ち三回、店の金の持ち逃げは7回、寸借詐欺なら数知れず。とにかく金にだらしない。人の信頼を裏切ることへの呵責など、ないに等しいろくでなしである。

何度も立ち直ろうとした。人妻に恋慕の末駆け落ちするが、そのための資金は恩人から任された店の金庫から盗み出し、あげくに恩人の新車までも転売する。

将棋から手を洗おうとしたが、競馬や競輪、果ては飯場での賭場にまで手を出し、生活を破綻させ、見るも無残な世捨て人の姿になっても、夢に見るのは将棋のことばかり。

どうしようもなくなって、最後にすがるは、恩人の許。そこでの賭け将棋で糊口を凌ぎ、嫌われ軽蔑されながらも再び賭場に立つというから、呆れて物が言えない。

それゆえ、晩年は悲惨であった。最期の駆け落ち相手に見捨てられ、40台の半ばで自殺に近い病死。その葬儀も、ごく限られた人たちだけが参列するのみ。

だが、表題の著者が言うように「小池の人格と、小池の将棋はべつもの」だと云わざる得ないのは、将棋の実力が飛びぬけていたからだ。忘れ去られるには、その業績は巨大すぎる。

将棋の世界で残した戦績は異様に巨大だが、それを上回る人としての負債の大きさが、世間からの真っ当な評価を妨げている。

そんな異端の棋士に注目し、個人的に支援もし、必然裏切られもしたのが作家の団鬼六氏であった。団氏本人も、官能小説家であり、SM小説の大家でもある。必ずしも世間から高い評価を受けているとは云いがたい異端の作家だ。

実際、スケベな私でも、団氏のSM小説は読みきれない。嗜好が違いすぎて、楽しむことが出来にないからだ。だが、作家として数多くの作品を書き、それなりに読者を持っていた人であることは間違いない。

団氏本人は、SM嗜好を実際お持ちなようだが、社会人としての真っ当な顔も保持していた。そんな団氏だからこそ、異能の棋士・小池重明を惜しむ気持ちを捨て切れなかったのだろう。

本来、世間から唾棄され、忘れ去られて当然の人である。しかし、その将棋は、将棋だけは世に残すだけの価値はある。そう考えて、世間から、棋界から、家族からさえ嫌われて、消え去るはずの小池重明の生涯を書き残す気になったのだと思う。

将棋に興味がなくても、この異端の棋士の物語は読んでみて損はないと思います。機会がありましたら、是非どうぞ。なお、団氏は先日、お亡くなりになりました。SM小説に興味がない私には、表題の作こそ代表作でした。

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様変わりした歌舞伎町

2011-05-26 12:08:00 | 日記
あっけにとられた。

何年かぶりで、久々に新大久保を訪れた。クライアントに会い、相談を受けた帰り道は、隣の新宿まで歩くことにした。かつては毎週のよう歌舞伎町を訪れて、数件のお店で帳簿をみていたものだ。

そのついでに、馴染みのホステスさんのお店で飲んで、夜遅くまで新宿歌舞伎町を徘徊していた。しかし、シナ人がらみのトラブルに巻き込まれてからは、とんと足が遠のいた。

たまに新宿で飲むことがあっても、歌舞伎町から離れた店で飲んでいたため、こんな風になっていたとは思わなかった。もちろん、石原頑固爺のせいで、歌舞伎町が寂れたことは聞いていた。

コマ劇場が閉めたことも新聞などで知っていたし、多くのスナックやクラブが潰れたことも知っていた。でも、まさか、こんなにホスト・クラブが増えているとは思いもしなかった。

かつて夜の蝶が華やかに舞い踊った新宿歌舞伎町は、現在長髪を染めた若い男の子たちが路上をたむろする。そしてホスト・クラブばかりが目立つ異様な街になっていた。

30代の頃、毎週のように通った外人クラブは、ホストの顔写真が飾られたホスト・クラブに様変わり。ここだけじゃない、路地のいたるところに細身で長髪の若いホストたちが立ち、女性が通るたびに勧誘に奔走する。

静かに落ち着いて飲めた職安通りのクラブが閉店したのは数年前だが、その後がネオンがギトギトしたホスト・クラブに変わっていたのには正直、失望を禁じえなかった。

俺はどこで飲めばいいの?

馴染みの居酒屋は昨年末で閉店していたので、致し方なく西口へ渡り、そこの寿司屋で軽く飲んで帰宅した。それにしても、なぜにホストばかりが目立つ?

不可解だった。ホスト・クラブで散財するような客は、自営業の女性や女社長を除けば、大半が風俗店で働くホステスさんたちだったはずだ。そのホステスさんたちをまるで見かけなかった。

私は仕事柄、ホステスさんたちを見分けるのには慣れている。私が通った時間は、丁度彼女らの出勤時間であったはず。かつては、彼女らの勧誘を振りほどくのに苦労したのだが、今回はさっぱりだった。

石原の歌舞伎町浄化作戦以来、歌舞伎町から風俗店が姿を消したはずで、ホスト・クラブは大切な顧客を失い大変なことになっていると聞いてはいたが、私の看た風景はそれとは逆だった。

いったい、あれだけの数のホスト・クラブの経営を成立させるだけの顧客は、どこから来るのだ?

風俗業が地下に潜ったのは知っているが、どうやら未だ盛況であるらしい。そうでなければ、あれだけのホスト・クラブが経営的に成り立つわけがない。

私は地下に潜った風俗店で遊ぶ気はない。堂々と店舗を構えた風俗店ならば、保健所の監督が効くし、経営者もそれなりに衛生には気を遣う。しかし、地下に潜ればそんな無駄な出費をするわけない。

そういえば、一昨年のAIDSの発症患者数が増加の傾向を見せているとの記事を読んだ覚えがある。風俗業が地下に潜れば、当然の結果だと思う。他の性感染症だって、相当数増えているのではないかと思う。

歌舞伎町は浄化されたのかもしれない。しかし、地下に潜った風俗店が撒き散らす性感染症は、むしろ増えている可能性は高い。

人類が都市文明を築いて以来、多くの治世者が性風俗業を止めさせようと努力してきた。しかし、誰一人成功したものはいない。旧ソ連のモスクワでも、北のピョンアンでも、根絶させることは出来なかった。

なぜかといえば、性欲は人間にとっ生存本能に根ざした欲望であるからだ。この欲望を禁じることが出来るわけない。この欲望を金銭に変えようとする者が出てくるのは必然であり、売春が人類最古の職業の一つといわれる所以なのだ。

だからこそ、賢明な治世者は、ほどほどに性風俗を規制した。四角い枠のなかを、丸くすくい上げるように汲み上げた。そのやり方だと、枠の隅はすくえない。この隅に性風俗を追いやり、根絶させない代わりに拡散も許さなかった。

いざとなれば、権力の手を伸ばせる範囲に棲息させて、時には利用し、時には取り締まって増長を抑えた。この権力者の度量あってこそ、治安は守られ、病疫は拡散を妨げられた。

私が聞き及ぶ範囲では、都内の駅前診療所の収入は減収の一途を辿る。そのなかで、皮膚科と産婦人科がわりと収入を伸ばしている。子供の数が減っているにも関らず、産婦人科の収入が増えるとは、どういうことだ。

行って見れば分る。産婦人科の看板には性病科が付け加えられている。もちろん皮膚科だって似たようなものだ。言うまでもないが、性病の多くは保険診療の対象だ。

これが石原の歌舞伎町浄化作戦の結果だ。性感染症患者の増加は、国民健保会計の赤字の増加となり、それは国民健康保険料の増税となる。つまり最終的に、このツケを払わされるのは国民であることを思い出して欲しいものだよ。
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土下座報道に思ったこと

2011-05-25 15:33:00 | 社会・政治・一般
その人の本性が見たかったら、緊急時の態度をみるのが一番分りやすい。

私自身の経験からいっても、かなり説得力がある。なぜなら、私は予定外の緊急時にこそ、慌てふためき、喚き散らし、不様な姿を曝していたからだ。

そのことをはっきりと自覚したのは、登山中であった。自然という奴は、ある意味誰にでも平等に過酷だ。背負うザックの重さに疲れ果て、予定外の荒天に気持ちを塞がれ、気持ちは沈み、膝を抱え込んだ情けない奴が私だった。

同じ状況であっても、笑顔を振りまき、率先して雑用をこなす奴もいる。その姿が羨ましかった。自分もそうなりたいと切望した。緊急時にこそ、皆から頼られるような人間になりたい。そう、切に願ったのは、十代後半だったと思う。

あれから30年あまり。少しは理想に近づけただろうか?

そんな、情けない自分を覚えているので、いささか忸怩たる想いはあるのだが、それでも敢えて言いたい。

あんたら、あまりに不様だぞ。

誰かと云えば、東京電力の幹部たちに土下座を求めるマスコミ様だ。なにを偉そうに、土下座を求めているのか。

福島原発の放射能漏れを受けて、住み慣れた家を離れねばならぬ住民たちが激高するのは、まだ分る。彼らには憤る根拠がある。ただ、行き過ぎだとも思っている。

福島原発周辺には原発御殿とまで揶揄される立派な家が少なくない。たいして産業がなかった福島に原発が仕事をもたらしたのは、まがうことの無い事実だ。だからこそ、同じ福島であっても、原発周辺の家屋は他の地域より立派だった。

それが今回の放射能漏れで砂上の楼閣と化したことは事実だが、原発により豊かな暮らしを得ていたことを自覚している住民は、あまり騒いでいない。そのことは、マスコミも報じていたはずだ。

ただ、原発とは無縁に生活していた周辺住民が憤るのは分る。でも、求めるべきは土下座ではなくて、今後の生活保障だと思う。その点、東京電力の対応は遅すぎるし、不安から怒りを招いたのは自業自得だとも思う。

でも、なんでマスコミまでもが偉そうに土下座を求めるのだ?何様のつもりなのだ。勘違いも甚だしいと思う。厚顔無恥な民主党政権の対応も、東電同様にヒドイと思うが、菅総理にも土下座を求められるのか、マスコミ様はよ。

いい気になって、弱い者虐めをしていると、いずれ跳ね返ると思うね。あの土下座報道くらい、気分の悪い映像は久々だった。恥を知れと思うぞ。
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