ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

沖縄幻想 奥野修司

2014-08-29 13:20:00 | 

時として民主主義は愚かさを露呈する。

沖縄は日本屈指の観光地である。それは間違いないが、理想的な観光地と断言できるだろうか。

確かに沖縄の海は美しいし、海岸は南国リゾートそのものだ。しかし、よくよく見てみると、コンクリートで埋められた護岸壁や、美しい海辺に似合わぬ無粋な公共施設がある。

かつての那覇の町並みは、京都に勝るとも言われた美しい王都であった。しかし、太平洋戦争により完膚なきままに破壊され、その後復興した街に美観はない。

私は沖縄の美ら海水族館が大好きだが、あれが沖縄でなくてはならない理由はない。また沖縄屈指の高級リゾートホテルであるブセナテラスには二度ほど泊っているが、プラスチック製の滝の壁など安直な作りが目立つのも知っている。あれを高級と言われても困る。

沖縄が沖縄でなければならぬ、沖縄独自の観光資源はまるで活かされていない。私は沖縄に東京の高級ホテル同様な設備を求めていないし、似たような設備なら至る所にあるではないか。

はっきり言おう。日本政府主導の沖縄復興は決して成功していないと。

沖縄は観光以外に見るべき産業を持たない。もっといえば、軍事的拠点としての地政学的条件には優れている。だからこそ基地の街でもあるが、それは必ずしも沖縄を幸せにはしていない。

よく米軍基地が沖縄に集中しているのはおかしい、あれは沖縄に対する差別だなどという人がいるが、これは軍事音痴であり、平和ボケ以外のなにものでもない。

沖縄列島の地理的条件が、ユーラシア大陸と太平洋諸国との間における絶好の軍事的有利さを提供する以上、例えアメリカ軍が撤退しても他の軍隊が駐留するだけだ。

それが日本の軍隊ならまだマシで、下手すれば共産シナの人民解放軍であれば、沖縄はいずれ死滅する。嘘だと思うなら、チベットや中央アジアのウィグル族の居住地域をみてみることだ。

チベット族やウィグル族の男性は強制労働キャンプに送られ、そこで死ぬまで働く。女性は強制的に漢族の男性と結婚させられ、子供は漢族の学校へ通わされ北京政府への忠誠心を叩き込まれる。

独自の文化や宗教は弾圧され、民族の独自性は失われる。逆らうものにはテロリストの名を被せられて、追い詰められ、捕縛され、人知れず死んでいく。

敢えて諌言するが、日本政府は血を流してまでして沖縄を守る覚悟はあるのか。その覚悟がないなら、いずれシナに引き渡すことを想定しておくべきだ。

だが、沖縄を守りたいなら、米軍が撤退しようと沖縄基地は守らねばならぬ。だが、その一方で、沖縄自体が経済的に自立しなければならない。現在の沖縄経済は、日本本土からの支援なくして存在しえない。

呆れたことに、沖縄復興以来、14兆円のお金が沖縄に投じられているが、未だに沖縄は最貧県のままだ。あくまで平均値ではあるが、沖縄県の所得の4割は日本本土からの補助金で賄われている。

いわば自立していない地域が沖縄である。残酷な言い方ではあるが、沖縄は日本に寄生して生きている。だからこそ、歪んだ甘えが横行する。断言しますが、一生懸命働いている人間は、デモやら人間の鎖やらのパフォーマンスに費やしている余裕はない。

では、沖縄の自立とはなにか。どうあるべきなのか。

その提言をしているのが、「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で大宅賞を受けた表題の作品の著者である。この本を読めば、なぜに冒頭で私が民主主義を誹謗したのかが分かります。

ある意味、戦後の日本の経済成長優先主義の悪しき典型ともいえるのが、現在の沖縄なのです。是非、御一読のほどを。

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地底世界ペルシダー エドガー・ライス・バロウズ

2014-08-28 12:26:00 | 

どちらかといえば、私生活はいたってズボラである。

若いころからその気はあったが、やはり酷くなったのは一人暮らしを始めてからだ。それでも20代前半までは、それほどでもなかった。

実のところ、20代の大半を病気療養で潰しているが、自宅にいるにも関わらず、あまり部屋の掃除片付けをしなくなっていた。もちろん病気特有の倦怠感に襲われての影響はあったが、多少元気になってからも、この怠け癖はなおらなかった。

だって、楽だもん。

十代の頃は書棚の整理が好きだった。好きな本を並べて、揃えて、その背表紙に満足していた。あの頃はあまりお金がなく、好きな本を揃えるのは大変だった。私の古本屋通いの最大の理由は、やはり寂しい財布が原因だったのだ。

ところが、大学生になりバイトでけっこう稼ぐようになると、本が急速に増えて書棚が満杯になってしまった。こうなると如何に本を書棚に詰め込むかが問題となる。

卒業して働き出すと、忙しすぎて本を読む時間も十分とれなかった。そのうち身体を壊し、難病との付き合いが始まるのだが、この頃から書棚の整理をさぼりがちになった。

おかげで、今どこにあるのか分からない本がけっこうある。

今、困っているのが表題の地底世界ペルシダー・シリーズだ。バローズの人気作品の一つだが、全7巻ある。問題は早川書房版と、東京創元社版の二種類あることだ。

ちなみに下記が早川版です。


そしてこちらが東京創元社版です。


あの頃は版権の扱いが今よりおおらかだったようで、このようなことがしばしばある。ハワードのコナン・シリーズもやはり早川版と創元社版の二種類があり、私はいずれもコンプリートしている。

しかし、それほど熱心なファンでもなかったペルシダー・シリーズはうろ覚えだが、コンプリートしていないはずなのだ。翻訳の違いもさることながら、挿絵の武部画伯の絵もそれぞれ違うはずなのだ。

これは断固、揃えたいと切望している。ところが、私がどの版のどの巻を持っているのかが定かでない。これでは揃えられないではないか。

ちなみにトランクルームに送っていないことは確認済みだ。となると、我が家のどこかに眠っているはず。そろそろ引っ越そうと考えてるので、捜すイイ機会だとも思っている。

ただ、大半が古本屋で買った文庫本なので、保存状態が心配だな。あァ、しっかり虫干ししておけばよかったなァ。


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万引きは犯罪

2014-08-26 12:59:00 | 社会・政治・一般

一日一回は本屋さん。

特に用事がなくても、一日に一回は本屋さんを覗くのは、私の長年の習慣である。だからこそ、近年廃業する本屋さんが増えていることに胸を痛めている。

駅前の商店街に必ずあったはずの本屋さんだが、私が日ごろ使っている地元の駅周辺には、もはや一軒の本屋さんもない。ほんの20年前のは4軒もあったのにだ。

原因はいろいろある。店主の高齢化、後継者不足は本屋に限らず小さな店舗なら、どこでもある悩みだ。だが、本屋さんには「万引き」という悪辣な被害が多く、これが経営を圧迫していた。

本の販売は、利幅は薄く、それが雑誌や文庫本ともなると、一冊あたり十数円であることもある。なんだ、被害はそんなものかと思ってはいけない。

たとえば10冊を1000円で仕入れたとしよう。この本を一冊300円で売れば、利益は一冊当たり200円。つまり10冊完売すれば、2000円の利益だ。

しかし、この10冊のうち3冊が万引きの被害に遭ったとすると、売値300×7冊=2100円であり、一方仕入れ値は100円×10冊=1000円だから、粗利は1100円にしかならない。万引きさえなければ、粗利は2000円のはず。

つまり万引きによる損害は実質900円なのだが、問題は手持ち資金である。万引き後の7冊を完売したとしても、手元に残るのは1100円である。この中かから、次の本の仕入れ代を払えば、あと100円しか残らない。この100円から生活費やバイト代を払うのだ。

これでは本屋の経営が立ち行かないのも当然であろう。上記の数字にピンとこない人は、数字を1000倍にしてみれば、より現実的かもしれない。万引きの被害が如何に深刻か、お分かり頂けたでしょうか。

実際、万引きによる被害に根を上げて廃業した本屋さんは全国に数知れず。本屋さんだけでなく、全国の小売店は万引きによる被害と経営悪化に悩んでいる。

そんな最中に起きたのが、東京は中野にある「まんだらけ」という有名店で起きた玩具の鉄人28号の万引き事件である。話題になったのは、この犯人の映像を顔にモザイクをかけて公表し、12日までに返却しなければ、モザイクをはずして顔を公表すると発表したからだ。

結局、警察が介入してモザイクをはずしての公表は中止させられた。私としては残念でならない。

この事件で何が不愉快かって、人権をたてにモザイクを外すことを誹謗する一部の弁護士やら言論人がいたことである。馬鹿もいい加減にしろと言いたい。

だいたいが、この手の輩は被害者と加害者の人権を平等に扱うことに固執する人権至上主義者である。一見立派な考えにみえるが、実際は理念先行で現実をみない脳内お花畑育成者である。

現実を直視する勇気を持たず、理想に酔い痴れているだけの迷惑な酔っ払いのようなものだ。人権はすべての人に平等にあるのだろうが、その結果の行為の責任は平等ではない。

小難しく考えなければ、他人のものを奪う権利を行使している人が、奪われた人と平等な訳がないことぐらい分かるはずだ。万引き犯の人権を守ろうとするあまりに、奪われた人の権利を蔑ろにする悪しき平等主義であることが何故に分からない。

面子重視のお役所である警察は、まんだらけに画像公開を止めさせた以上、断固として犯人を捕まえる義務がある。警察自らがさっさとモザイクを外した画像を公開して犯人を追いつめろ。オレオレ詐欺の容疑者の画像を公開しておきながら、まんだらけから玩具を奪った犯人の画像を非公開にする理由が分からん。

ここまで書いた時点(8月16日)では捕まっていなかったが、先週後半逮捕されたとのこと。しかも写真週刊誌に顔が公表されている始末。営利目的の雑誌に公表が良くって、被害者が公表できないなんて、なんかおかしくありませんかね。

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るろうに剣心~京都大火編

2014-08-25 12:04:00 | 映画

リングと路上は違う。

そう私に話してくれたのは、ボクサー上がりの学生運動家であった。この人は、私の周囲にいる大人たちのなかでも、特に喧嘩が強かった。デモがあると、勇んで参加して、先頭切って機動隊員を殴り唐キので有名だった。

もっとも私はその現場を見たことはない。だが、見た人の話では、異様に身が軽く、盾で身を守る機動隊員の側面に回り込んで、首筋やわき腹にパンチを叩きこむ、えげつないやり口だそうだ。

怒られるかもと少し怯えながら、私はなぜ首筋やわき腹を狙うのかと訊いたら、ギロっと私を睨むと、少し真面目な顔になって私に言ったのが冒頭の科白だった。

機動隊員は分厚い防護服に身を固めており、まともに殴っても効かない。だが、動きやすくするため、いくつか無防備な場所がある。そこを狙うのは当然なのだと説明してくれた。

「いいかい、俺はリングの上で対等の敵と試合しているのじゃない。路上で弱くても正しいことを目指す仲間を守るために戦っているんだ。公平なルールの下で試合をしているんじゃない。敵を倒すために戦っているんだよ、その違いは男なら理解しなくちゃいけないぞ」

そういって、私の頭を撫でてくれた。そして、そのやり方を教えてくれた。親指を折り込み、その上に中指と人差し指を乗せて、拳を尖った形状にして、首筋の血管が浮き出るあたりに突き刺すパンチだった。

あれ?これってボクシングのパンチじゃないよね?と訊くと、彼はニヤッと笑って、よく分かるな。これは空手の拳でリュウトウシュと言うんだと、教えてくれた。多分、竜闘手ではないかと思うが、空手に詳しくない私は未確認である。

実は実戦空手の道場にも少し通ったことがあるのさと教えてくれた。でも、私はこの人が蹴り技を使っているところを見たことがない。そう尋ねると、彼は笑いながら「路上で蹴り技なんて滅多に使えないさ。一対一ならともかく、集団で喧嘩するときは、蹴り技なんて不安定すぎて使えないよ」と答えてくれた。

あァ、やっぱりこの人は喧嘩好きなんだなと再確認した。私はこの人から、いろんな喧嘩の対処法を教わったが、どれも学校の柔道の授業では教わらないような危ないことばかりであった。そして、それが実戦的であることはよく分かった。

もっとも臆病な私は、その危ない技を喧嘩で使うことはほとんどなかった。相手を確実に傷つけると分かっていたし、私にはその覚悟が足りなかった。戦うのに必要なのは、勇気でもなく、技術でもなく、体力でもない。

相手を傷つけることを厭わない覚悟こそ、絶対に必要なのだ。私は怒りに激昂して喧嘩をすると、知らず知らずに相手を傷つけ、それに気づいて落ち込む難儀な子供だったので、相手を傷つけることを厭う傾向があった。

今だから分かるが、この精神面での弱さが私が喧嘩が弱かった最大の理由であろう。でも、あまり後悔していない。山登りを始めて自然の強大さと、人の弱さを知ったからこそ、私は相手を傷つける強さよりも、自分の弱さに負けない強さにこそ重きを置くようになっていたからだ。

でも、今でも関心はある。街で喧嘩を見かけると、ついつい観察してしまう。どうしても無関心ではいられない。私の知る限りでは、路上の喧嘩すなわち実戦で通用する技術って、すごく地味なものが多い。派手な技なんて、路上の喧嘩では使わない。

だからこそ、私はいわゆるチャンバラ映画やTVが好きではなかった。黒沢の映画であろうと、銭型平次であろうと、あの殺陣という奴は派手なばかりで、あまり実戦的とは思えなかったからだ。

もちろん娯楽映像なのだから、派手でなければ観客の目を惹きつけられない以上、当然のことなのは分かる。分かるけれど、実戦とは違うとの思いがあって、私は侍が刀を振り回してのチャンバラ場面が、あまり好きではなかった。

そんなわけで、表題の映画の原作の漫画が週刊少年ジャンプで連載されていた時も、ほとんど素通りだった。ましてや、映画化された作品は観たいとは思わなかった。

ところが先だって日本を襲った台風11号のせいでシネコンから動けなくなったので、仕方なく時間潰しで観る羽目に陥った。意外だったが、けっこう楽しめた。あまり漫画を熱心に読んでいなかったので、むしろ漫画の実写化を意識せずに楽しんだ。

なかでも、私が従来あまり好まなかったチャンバラ場面に結構感心した。下半身を平然と狙う実戦的な殺陣には驚いた。現代の道場剣道とは異なり、戦乱の時代の剣法は、人を倒すための手段であり、きっと地味でえげつない戦い方であったはずだ。

そんな私の思いにそうはずれないチャンバラ場面であったことに感心した。もちろん娯楽映画であり、イケメンの俳優たちをクローズアップするような撮影である以上、過剰な演出は致し方ない。

ただ、無理して観るような映画ではない。なにせ続編があるので不満が残るが、原作は29巻あることを思えば、これも当然なのだろう。よくよく考えると、私が本当に久々に見たチャンバラ映画であった。

時代とともに殺陣も変わるのだと思いました。まァ、原作ファンにはいろいろ文句があるかもしれませんがね。

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楽しくない夏休み

2014-08-22 08:55:00 | 健康・病気・薬・食事

あまり楽しい夏休みではなかった。

なにをやっていたのかというと、病院に入って糖尿病の食事療法を実体験していたのだ。数年前から糖尿病予備軍と医者から言われていたのだが、今年に入ってから検査の数値が悪化した。

7月にした検査入院で肝臓の数値が悪化したことが原因であることが判明した。つまり脂肪肝がより進んだ訳で、厳密には糖尿病ではないのだが、このまま放置すれば糖尿病確定となると脅かされ、止むなく入院して糖尿病患者と同様な食事制限を実体験することになった次第だ。

いやはや驚いた。日頃、私が普通に食べている食事の、ほぼ半分以下なのだ。ご飯の量は普通だったが、おかずの量が違う。鯵の塩焼きだったら、私なら一匹丸ごとなのだが、病院では4割程度。

ミートボールはたったの3っつ。すき焼きの肉は鳥であり、しかも捜すのに苦労するほどの量しかない。代わりに野菜の量が多く、しかも味付けは薄い。塩分もだいぶ抑えているようだった。

この食事量を守っていれば、間違いなく減量するだろう。実際数日の入院であるにも関わらず、体重は2キロ以上落ちた。

私は付き合い以外では、滅多に酒を飲まないが、その分食事を楽しむ傾向が強い。とりわけ甘党であり、和菓子洋菓子を問わず好きである。コーヒー好きではあるが、コーヒーだけ飲むことはなく、必ず甘いものを添えて飲む。

おまけに出されたものは全て食べるので、少々大食いの気がある。味覚よりも、胃袋の満足感を優先する傾向すらある。これでは太るのは必然である。

だが、食べる量、飲む量は40代の頃と変わっていない。どうやら燃費というか代謝が落ちているようなのだ。もっとも昨年の心筋梗塞以来、多少は減量を心がけていたが、医者に言わせるとまるで足りないらしい。

どうやら覚悟を決めて本格的に減量に励まねばならないらしい。あァ~楽しくない。でも、文句ばっかり言っているのもつまらないので、野菜を中心として新しい献立を考えることにしよう。

しかし、まぁ、こんな時に限って野菜は高値傾向。でも、量は必要ないので、多種で多様で少量で済む野菜料理を研究してみましょうかね。

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