ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

塗仏の宴(宴の始末) 京極夏彦

2010-05-10 14:37:00 | 
やっぱり私は詐欺は嫌いだ。

よく言われるのが、騙す奴も悪いが、騙される奴も悪いと。たしかに、そう思わないでもない。騙された人の涙ながらの悲嘆を聞いていると、同情よりも侮蔑感が湧き出ることがある。

そんなんじゃ、騙されても無理ないよ。咽喉元まで出鰍ゥる科白だが、たいがいが飲み込んで黙っている。口には出さないが、本心では騙される側にも悪い点はあると思っている。

それでもだ、やはり騙すほうが悪い。これを悪いとしておかねば、人間同士の関係がおかしくなる。人が集まって社会を作る以上、その人と人とのつながりを歪める詐欺を善しとすることは、断じて認めてはならない。

その詐欺のなかでも、私が一番嫌いなのが宗教がかったやつだ。神の名を騙って他人を操り、人の心の隙間に入り込んで己の欲望の糧とする。

実のところ、悪質さに反比例してその違法性を弾劾するのは難しい。まず騙された被害者が被害を認めないことが多い。また善意を装い、善意にすがり付き、善意を操る狡猾さが、法で裁くことを難しくしている。

更に悲劇的なのは、騙されたと気づいた人が、その苦しみを訴えても、傍目には滑稽に見えてしまうことだ。例えば、ノセタラダマスとかいう予言者を信じて、自宅の庭に大金を投じて核シェルターを作ったとしよう。

予言は当たらず、大金はドブに捨てたと同じこととなったが、その苦悩を訴えても世間からは嘲笑を買うばかり。核シェルターを作れとアドバイスした奴らも、またその紹介で核シェルターを建築した業者も、双方合意の上でのこととシラを切るばかり。

この手の事件には司法は、滅多に機能しない。さすがに近年は印鑑商法など悪質な奴(稚拙な詐欺でもある)は司法の裁きを受けているが、失った金は戻ってこない。それどころか、家族からも嘲笑われ、軽蔑され、家庭に居場所をなくすことさえある。

現代の陰陽師、京極堂が裁くのは、多くの場合司法が機能しない事件に限られる。その仕組みを暴き、心の闇を解きほぐし、罪を追うべき奴らに死霊を背負わせる。法が裁けぬ詐欺を、法外な方法で裁くところにこそ、この長すぎる長編にカタルシスがある。

だが、今回はさしもの京極堂も腰が重くならざる得ない。なにせ、京極堂を知り、その手口も熟知している宿敵が登場するからだ。動けなかった京極堂を救ったのは、歯牙にもかけていなかった元・警官の一言であり、古くからの知己である名探偵の檄でもあった。

恐るべき宿敵には弟子や部下はいても友人はいなかった。しかし、京極堂には沢山の友人・知己がいて、彼らの存在こそが京極堂を救い、かろうじての勝利を手にすることが出来た。

宴の仕度に始まり、始末で終わった今回の作品は、2000頁を超す大長編であり、長すぎる感も否めないが、その重厚さに相応しいエンディングであった。納得である。

あ~ぁ、これだから止められないのだよ、京極ものは。困ったもんだ。
コメント (2)
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