ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

NOと言える日本 石原慎太郎

2010-05-06 09:32:00 | 
甘ったれるな。

日本は敗戦国である。たかが一回負けただけだが、負けるだけなら、白村江でも負けてるし、秀吉の朝鮮侵略だって負け戦だ。しかし、これまで外敵に支配されたことのない国が、初めて外国の支配化に属したことは大きい。

世界の歴史を紐解けば、戦争に負けて支配された国々は悲惨だ。カルタゴのように徹底的に滅ぼされた国もあれば、言葉も民族も失い、まったく違う国になった南米の例もある。悲惨なのは、滅ぼされたことさえ忘れ去られた中央アジアの遊牧国家だ。

ところが、困ったことにアメリカは寛容な支配者であった。もちろん、アメリカにはアメリカの思惑があってのこと。もし、冷戦がなかったら、もっと徹底的にアメリカへの同化政策がされた可能性はあることは一応銘記しておきたい。

しかし、共産陣営との対立が、前線基地としての日本列島を重要なものとした。補給基地として、きわめて有意義な位置にあったがゆえに、アメリカは日本列島を円滑に支配することに重きを置いた。

だからこそ、アメリカは寛容な支配者であった。ただし、アングロサクソン独特の狡猾さは発揮された。戦争の責任を一方的に旧・日本軍に押し付け、庶民を軍部独裁の被害者の立場に置いてくれた。

あげくに民主主義というアルコール分過剰なお土産を惜しげもなくくれたものだから、アホな庶民はアメリカ万歳、ビバ!デモクラシーと喜び、なすべき反省を忘れて、平和憲法に逃げ込んだ。

与えられたが故に、民主主義(国民主権)とは、力で奪い取るべき血塗られた黄金の杵であることを知らずに済ませた。

アメリカ軍に守られたが故に、平和は自らの手で守るべきものであるという歴史的というよりも本質的な基本すら忘れてしまった。

平和と自由を与えられたが故に、義務を果たしてこその権利だとの前提を忘れて、傲慢にも権利だけをありがたがった。

アメリカの庇護下のもと、戦争で儲けて経済成長の基盤を築いたことを忘れ、平和的に経済大国となったと自画自賛することを醜悪だと自覚することを忘れた。

自称、愛国者である石原が苛立つのは分る。分るけど、認識が甘いと思う。日本は敗戦国であるにもかかわらず、狡猾に立ち回ったからこそ大国になれた。勝者の論理に擦り寄ったからこそ、現在の繁栄がある。

今更、アメリカにNOを言うべきではない。勝者の裾につかまって立ち上がり、そのおこぼれをもって肥え太った過去を屈辱に思う気持ちは分る。分るが、だからといってNOを叫んでも役に立たない。

アメリカとて永遠に覇者であるわけはない。覇者の随伴者としては、その没落に付き合うのか、それとも反逆して踏み潰されるのか、はたまた主従逆転を狙いたいのか。いずれにせよ、その選択は国家の存亡を賭けたものとなる。

覇権国であるアメリカに対峙することは、容易に決断できるようなことではない。たいして覚悟も準備もなしに、ただ口先でNOを言うなんて馬鹿げている。私には石原も鳩山も、アメリカに甘えているように思えてなりません。
コメント (2)
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