ヌマンタの書斎

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天竺熱風録 田中芳樹

2010-05-31 12:23:00 | 
日本の世界史の教科書を単に読むだけだと、分らないことが多い。

その代表例の一つがヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰経由でのインド到達だ。なぜにこのガマの航海が、わざわざ教科書に載るだけの価値があるのか。残念ながら、現在の教科書指導要綱には記されていない。意味が分らず覚えされられることは、役に立たないだけでなく、苦痛でさえある。

これはユーラシア大陸の遅れた蛮族たち(ヨーロッパの人々)にとっては、大変革新的なことであった。はじめてオリエントを経由せずして、東の先進地域に到達できたからだ。

この時代、既にシルクロードは十分機能せず、イスラム諸国の強い干渉の下での交易であったため、東西貿易の事。は少なかった。ましてや貴重品である胡椒は、オリエントの地域(イスラム支配下でもある)で大半が費消されて、ほんの一部しかヨーロッパには入ってこなかった。

胡椒はインドネシアなど東アジアでしか産出されず、保存された食肉を調理する際に必須の調味料だった。しかし、量が少なく高額であるため、ヨーロッパの国々では貴重品扱いであった。ちなみに当時のヨーロッパの人たちは塩漬けの魚が主食で、肉を食べることは稀であった。

胡椒はほんの僅かな量で高額な取引がされたため、交易を目論むものにとっては垂涎の的であった。しかし、ヨーロッパと東アジアの間には強大なイスラム諸国があり、ここで中間搾取されるだけでなく、多量に費消されてしまうため、欲するだけの胡椒を入手することは、きわめて困難であった。

だからこそ、イスラム諸国を経由せずに直接インドへ胡椒の買い付けにいける交易路の開拓は、ヨーロッパの人々にとって極めて重要な事件であった。だからこそ教科書に必ず記載されている。欧米の教科書では、ガマのインド航路発見を、世界史の始まりだと記載しているくらいだ。

その重要性は理解できるが、かなりの誇張と欺瞞がある。

当時、オリエントとインドの間にはイスラム商人たちの大規模な交易路が確立されていた。インドに着いたガマの船を見たインド人たちは、そのあまりに貧相な姿にあきれ果てたぐらいだ。更に重要なのは、インドとシナの間には、既に数百年にわたる海上交易が行われていたことだ。

ユーラシアの西端の蛮族たちが知らなかっただけで、東の超大国シナとインド亜大陸、そして人類の中心地であるオリエントの間には、とっくの昔に交易路が拓かれており、世界史は(東西交流史)はとっくに始まっていた。ヨーロッパは遅れてやってきただけであり、知らなかっただけだ。

もっとも海上交易には多くの困難が待ち受けている。台風や座礁などはもちろん、マラッカ海峡は海賊の巣窟であり、利益は大きいが困難な交易路であることに変りはなかった。そのため、陸路による交易も盛んであった。

歴代のシナの諸王朝のなかでも国際色豊かな唐の時代は、交易がとりわけ盛んであった。「西遊記」のモデルともなった玄奘三蔵法師による天竺行が有名だが、その少し後に天竺行きを三度も敢行して成功させたのが、表題の作品の主人公だ。もちろん実在の人物である。

まったくもって、この時代のシナ人はダイナミックであり、その活躍ぶりには驚嘆せざるえない。近年歴史に埋もれていたシナのヒーローたちを鮮やかに甦らすことに傾唐オている田中芳樹の面目躍如だ。ちなみに表紙画とイラストは、「からくりサーカス」の藤田氏だ。この二人は対談をしているので、そこから生まれたコラボレーションだろう。

ただ、この作品の面白さは認めますが、中断している作品(アルスラーン戦記やタイタニアその他もろもろ)を放置していることへの免罪符とはなりません。しっかりとけじめをつけて欲しいものです。
コメント (5)
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