All Things Must Pass

森羅万象 ~ 歩く印象派

大地震の夢

2007年04月18日 07時47分03秒 | 
明け方、いきなりドスンという音と共にこれまで経験したことのない大きな揺れを感じ目が覚めた。まもなくスッとエレベーターが急降下するように一瞬身体がふわっと宙に浮くような感触に襲われたと同時に今度は家全体がねじれるような大きなうねりが襲ってきた。渦巻きの中にいるような、一歩も動けない激しい揺れが続いた。本棚の本やCDやらありとあらゆるものが落下し散乱し、このまま家が倒壊するのではないかと思ったが、揺れはそこでピタッと収まった。なんとか持ちこたえたようだ。窓の外に目をやるとコンクリート製の電柱が真ん中から二つに折れて倒れていた。隣家の軒は通りに面した部分が瓦ごとそっくり落下していた。この間わずか一分足らずの出来事なのだが、非常に長く感じた。揺れが収まり、外へ出てみたところで、本当に目が覚めた。

なにかリアル過ぎて、空恐ろしい気持の朝だった。

TVを点けてみたが、地震らしいニュースの報道はなく、米国の大学で起こった銃乱射事件の続報と昨夜銃で撃たれた長崎市長が死亡したことを伝えていた。

いばらとみよ(趣茶酒楽会山形旅行記)秀鳳編その4

2007年04月17日 23時39分14秒 | 趣茶

これがほんとの一番搾り!

いやはやうれしいこの一杯♪

上槽(圧搾機)の前で乾杯!

お次ぎは「火入れ」を見学。

お酒がお風呂に入っているように見える。

どれ、湯加減は?  50度!

「火入れ」の済んだ雄町


貯蔵は冷蔵庫。入り口のドアの前。

中の様子。

毎年、一つずつ冷蔵庫は増えている。

出荷を待つ秀鳳の酒達。

事務所の壁には地元山形や宮城エリアの地図が貼ってある。
いつも関東の地図を見慣れている私たちには理解するのにすこし時間がかかる。頭の固さが取れてよい。

下の写真は近くの清流に住む「いばらとみよ」という絶滅危惧種の淡水魚で清らかな川の流れに巣をつくる。しかも雄が巣を作り雌がその中に卵を生むという他の魚にない習性なのだ。秀鳳の純米吟醸「いばらとみよ」は清流清酒の名をとる。  

              (産卵に入る雌を見守る雄)
いばらとみよという魚を巡っては
仲間はずれのトンゲンツを参照されるとよろしい。(トンゲンツとはいばらとみよの別名。)

東京ドームの屋根を造った会社

2007年04月16日 18時11分29秒 | 仕事
今年のGIANTSは昨年までとはちょいと違う。
なによりピッチャーそれも2人の左腕投手(高橋(尚)と内海)が大活躍である。
写真は高橋(尚)が完封で3連勝を飾った日曜のものだが、その後方、レフトスタンド席の企業広告名に目が止まった。
高橋の掲げる拳のすぐ右に「TSP太陽」という文字が読める。

TSP太陽は大阪にある太陽工業(株)の関連会社である。
太陽工業は日本最初のドーム球場である東京ドームのあのもこもことした天井を造った会社である。
ドームに屋根がつくいきさつについてはNHKのプロジェクトX(02年5月21日放送)「東京ドーム 奇跡のエアー作戦」でも取り上げられ、当時としては画期的な工法であったことがうかがい知れる。
1970年の大阪万博で一躍脚光を浴びた太陽工業であるが、少し前までダイハツ工業の仕事もしていたことを知る人は少ない。
それもあの「ミゼット」という大ヒット軽三輪車にかの太陽工業の製品が使われていた。トラックの幌(ほろ)である。そのころの社名が太陽テント商会だから、理由はすぐに判る。

やりくりアパートに出演していた大村昆と佐々十郎がTVのCMでミゼットを宣伝していた。ここでもミゼットのロゴが誇らしく荷台の幌に書かれている。(昭和30年代)

その頃太陽テントは大きなスローガンを掲げていた。
「世界一のテント屋を目指す」と。
果たせるかなテント一筋の道を究めた太陽テントは太陽工業と名を変え、見事万博で花を咲かせ、その後の世界中のパビリオン建設のトップを走ることになる。
その太陽工業が車(自動車)業界(つまりダイハツ工業)から、撤退するまでの10年あまりのあいだ、私は仕事でお付き合いした。(すでに、太陽工業の売上に占める自動車部門の売上は1割を切っていた。)

関西の企業との取引は初めてであったが私の受けた太陽の社員の印象はズバリ紳士であった。
大企業ぶらず、異動で担当が替わってもまったく失礼のない態度は変わらず、つくづく社員の教育が行き届いているなあと感心した。一人一人の社員が会社を代表している意識が高く、判断をペンディングしない潔い態度や、書類を多く使用せずに打ち合わせをきちんと行なうなど見習うべき点が多々あった。

なんどか枚方の工場も訪問させていただいたが、皆親切で最恵国待遇を受けたことも忘れられない。

東京ドームに行くと必ず思い出す企業である。

※神奈川・二宮町 小5 直宏の書かれた読書感想文東京ドーム奇跡のエアー作戦もあわせてお読みください。

米原万里著『マイナス50℃の世界』(清流出版)

2007年04月15日 12時00分52秒 | 読んだ本・おすすめ本・映画・TV評
今年の冬は暖冬だった。(記録的だったらしい。)
雪は一度も降らず、霙(みぞれ)さえなかった。
除雪作業やら煩わしい冬タイヤへの交換等からは免れてやれやれであった。
(スキー場などは、ゲレンデに雪がなかったりしてたいへんだったと思うが。)

ところでロシアの共和国で最大の面積を占めるのはどこであるかご存知であろうか?
答えはサハ共和国。(面積は日本の9倍もある!)
人口は95万人。
どこにあるかというと下の地図の青いところ。

ここが世界で一番寒い地域なのだそうだ。北極や南極よりも寒いのに、人が住んでいるのに驚いた。
今年復刻された今は亡き米原万里さんのデビュー作『マイナス50℃の世界』(清流出版)が紹介する「寒極」と呼ばれる地域のお話である。
1984~5年にTBSが開局記念に行なった「シベリヤ大紀行」に通訳として同行した万里さんが帰国後、毎日小学生新聞に連載向けにまとめたものを再編集し今年の1月に出版された。

以下に興味深いマイナス50℃の世界のご紹介。

ここでは私達の「冬の常識」はことごとく覆させられる。

(1)マイナス50度「寒いと氷は滑らない」

「スキーやスケートは、春先の暖かくなったときの遊びさ」

  寒い→氷→すべる

私達が理科で習ったのは、氷の上を滑る際に(氷とスケートの刃やスキーの板の間に)摩擦で熱が生じ、その熱で氷の表面が溶けて水の膜ができるというもの。この溶けた水が滑る原因なのだ。ところがマイナス50度というあまりにも寒いと摩擦くらいで氷は溶けず、すべることもないのだそうだ。
市内を走るバスやトラック、乗用車すべてチェーンも巻かず、スノータイヤも履いていない。
「車がスリップしてあぶないのは、春先」となる。

(2)ビニール、プラスチック、ナイロンなどの石油製品はマイナス40度以下の世界では通用しない。

「ビニール製のバッグなど、戸外に出るといっしゅんのうちにコチコチにかたくなり、ひびが入ってちぎれてしまい」「薬びんのプラスチックのふたを開けようとして手でふれるとコナゴナにくずれて」しまう。

「当然のことながら、現地の人々はこういった人口繊維のものは一切着ません。」
「文字通り、頭のてっぺんからつま先まで天然の製品でかためている」
「毛皮はここではぜいたく品ではありません。日常生活に欠かせない必需品」
となる。

(3)(驚くべきことに)ロシア第二の長寿国である。

「モスクワやレニングラードのマイナス30度よりヤクーツクのマイナス50度の方がしのぎやすいんです。あちらの空気は湿気が多く、風が吹くから寒さがほね身にしみるんです。」
「その点ヤクートの空気は乾燥していて風もないのでとても快適だし健康にいい」のだそうだ。
にわかには信じられないが事実なのだ。

本書には他にもツンドラ(永久凍土)の上の家や凍らせないために地面に埋めないパイプとか人間が原因の霧(居住霧)など、「寒極」ならではのエピソードが満載である。

巻末に椎名誠さんからの一文が寄せられていて、まだまだこれから活躍してもらいたかった万里さんの急逝が惜しまれる。

北ア水晶岳ヘリ墜落事故  

2007年04月14日 12時40分47秒 | 私の山歩き・山の仲間たち
なんとも痛ましい事故である。
4月9日の夕方、北アルプス水晶小屋付近で起きたヘリ墜落で2名が死亡した事故。他の8名の中にも重傷者がいる。
この日は、冬の間閉鎖していた山小屋が雪で壊れたりつぶされたりしていないかを調査したり、山開きの準備をしたりするのが目的だったという。(山開きの前に小屋の改築計画があり、そのため建設会社のメンバーも加わっていた。)
事前の打合せでは天候が悪化した場合には小屋に一泊することになっていたそうだ。
離陸直後の落下、機長らが死亡という事態の中、10名のうち比較的軽症だった篠さん(45)と友野さん(35)この2人の奮闘が死亡者を最小限にとどめることになる。
新聞によれば「篠さんは、ともに軽症だった友野さんとスコップで雪を掘り現場から小屋に続く道をつくった。『スコップで20~30メートルの斜面に階段をつくりけが人を運びやすくした』」そうだが
事故当時は風速8~10メートルで、雲と霧に覆われ、稜線で雪煙が舞い上がって視界がなくなるほどの状況で篠さんら2人は必死で小屋までの雪をかいたのだろう。篠さん、友野さんの奮闘のおかげで死亡した機長ら2人を除く8名が小屋の中に避難できた。

水晶岳付近は北アルプスでも最奥部にあたる。黒部五郎や鷲羽岳、雲ノ平など愛好家に人気の山域でもある。3年ほど前に一度訪ねたことがあるが夏山時期でもたどり着くまでに最低2日は要する。積雪期はヘリコプター以外でのアプローチは困難に近い。

事故原因等はこれから判明していくだろうが、わずかな判断ミスが惨事につながり、小屋直下という幸運さと軽度のけがであった2人の懸命な救護が残りの命を救った。
山の天候(特に冬から春にかけて)の怖さを思い知らされた事故である。

酒造好適米「出羽の里」を味わう。(趣茶酒楽会山形旅行記)秀鳳編その3

2007年04月12日 12時26分06秒 | 趣茶

日本酒に使用される米は酒米(さかまい)と呼ばれる。
専門用語では酒造好適米となる。
そのへんについては「遠州の酒、静岡県の酒」の中にある
酒造好適米についてに詳しく書かれていて非常に参考になるのでクリックしてみて下さい。

酒造好適米の主な生産地作付け面積ベスト5は
1、五百万石 5868ヘクタール
2、山田錦 5721ヘクタール
3、美山錦 1815ヘクタール
4、雄町 560ヘクタール
5、八反錦1号 462ヘクタール

山形を代表する酒米としては「出羽燦々(さんさん)」がある。「美山錦」を母とし、「青系酒97号」(のちの「華吹雪」)を父として、1985年に山形県農業試験場庄内支場で人工交配された。1991年に「山形酒49号」の系統名が付けられ、1997年に「出羽燦々」として登録された。この米が登場するまでのエピソードをご紹介しよう。

以下は酒文化研究所からの引用(抜粋)
DEWA33プロジェクト
山形県は、純米酒や吟醸酒への取り組みが早くからおこなわれ、県外への清酒の「輸出」に対する意欲は現在も高い。最近では、北陸と並んで吟醸酒や純米酒の比率の高い県であるが、県外での存在感がいまひとつ大きくない。灘・伏見、そして新潟・秋田など、日本酒産地としての評価やイメージの高い地域に比べると、その点は弱さにつながる。そこで「山形という産地を強く訴えられるオリジナリティを確立させていきたい」という蔵元側のニーズにも応えたのが、DEWA33プロジェクトである。

山形県農業試験場が、一九八五年に美山錦と華吹雪を交配させてから一一年の歳月をかけて、県産のオリジナル酒造好適米「出羽燦々(さんさん)」を開発した。
 これが県の奨励品種の酒造好適米に指定されたのが一九九五年のことだ。そして商品化されたのは翌一九九六年である。米の名前を前面に出した統一銘柄を打ち出し、県内の蔵元がこぞって製品化し、毎年、地元と東京でイベントを実施して少しずつ名称を浸透させていった。

栽培した農家の声も紹介されている。
「出羽燦々は、県農業試験場が開発しただけあり作りやすい品種である。それ以前に作付けしていた美山錦と比較して、倒伏しにくく、心白発現が平均的におこなわれて、個体差、年格差が出にくいので、品質的にも揃ったものができるのがよい」(金山町農協)
 出羽燦々は、当然ながら全量が契約栽培でおこなわれているが、他の酒造好適米に比べると、栽培地域をさほど選ばない。県内では平地から低山間地まで育成が可能で、背丈が山田錦や美山錦ほど高くならず、一般の飯米用と変わらない。これで栽培農家の募集のハードルは低くなる。このプロジェクトを組合で進めている和田多聞氏(和田酒造社長)の言葉を借りれば「酒の販売量さえ増やしていければ、出羽燦々の作付け面積の拡大はいくらでも可能」ということらしい。


そして「出羽の里」である。

「出羽の里」は「出羽燦々」と、滋賀県を中心に栽培している「吟吹雪」の交配品種で、非常に蛋白が少なく、60%精白でも50%精白に近い酒質を得られる。アミノ酸が少なくクリアーな味わいが特徴。

出羽の里(山形酒86号)の系譜出羽の里の系譜
 
出羽の里は、米の心拍が大きいのが特徴で高精米をしなくとも良いお酒が出来る点がなんといっても素晴らしいところだ。

秀鳳の出羽の里は、原酒をおもわせない軽快で滑らかな飲み口と吟香を楽しめる。山形の新しい酒造好適米出羽の里の特徴を存分に引き出した逸品といえる。今回の趣茶のメンバー全員絶賛であった。

春の息吹 オ・寒さんの初釣行同行記 私は山菜と読書

2007年04月11日 01時39分22秒 | 歩く印象派
オ・寒さんが蔵王釣行の「前哨戦」と位置づける、北軽(調査)釣行の旅に同行した。渋川ICから長野原へ向かう道から望む上信越国境の山々の雪は例年に比べ少ない。

今年初の釣行とあって身支度にも気合いの入るオ・寒さん。
餌、飲料水、デジカメ、クマよけの鈴、そしてキャスティングの練習とテンションは最高潮!


いざゆかん。

3時間後。

満面の笑みを浮かべてオ・寒さんが帰還。(「ロード・オブ・ザ・リング」か?)
身体の感触が釣りモードに戻ったようで
「これで下旬の蔵王釣行に安心して行けそうだ。」との感想。

一方、私はというとオ・寒さんの秘密文書(地図)を手に・・・。

このようなものを採取していた。

どうもマナーの悪い連中がいるようで、フキノトウを根こそぎさらっていくのはどうかと思う。(下の写真の露出した土の部分)

残った時間は静かな森の中で宮内亮治著『虚構-堀江と私とライブドア』(講談社)を読みふけった。(感想は後日)

そうそうこの日は伊香保温泉に宿泊することになっている。

途中で伊香保温泉街を一望できるところがあったので、デジカメ小僧となったオ・寒さんがカッシャ。


高速PAはタイル作品が多い。

2007年04月08日 23時30分18秒 | タイル・ウォッチャーが行く!
今回も高速道路のPAにあった。
(関越自動車道の下り駒寄PA)

山名方位盤は山の頂上等(新田次郎の『強力伝』では重さ50貫もの石盤を富士山頂に運び上げる。)にあるが、ここのはちょっと場所が地味である。路面というのも見過ごしやすい。

けっこう損傷している。

タイルの右に桜の木があってその下に児童が使うものと思われる「遊具」があった。
とても高速道路のPAとは思えない。
RESANDO氏の「近くへ行きたい」のような雰囲気が漂っている。
はて、この遊具どのように使うのであろうか?