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森羅万象 ~ 歩く印象派

轟の壕  沖縄のガマ初体験(昨年11月訪問時)  

2007年04月05日 17時56分59秒 | 沖縄の旅
沖縄戦での日本軍による沖縄県民への強制の証が県南部の海岸近くにあるガマの存在である。
昨年の11月に沖縄を訪ねた際にタクシーの運転手さんが案内してくれた轟の壕(ガマ)。
ガマとしてはかなり大きい規模のガマでかなりの人数を収容したと運転手さん。


轟の壕とは
沖縄本島南部の喜屋武半島中央部から名城海岸へかけて、全長約1、2キロメートルに及ぶ地下水脈の通った地下洞窟が形成されている。その地下洞窟は地表に開口する箇所があり、伊敷の南の丘に開口しているのが「轟壕・トゥルルシガマ」である。他には「ウッカーガマ」「ウンジャーガマ」などの洞口がある。


沖縄戦が始まる前、名城集落住民が避難壕として整備し、米軍の空襲や艦砲等には避難壕として使用していたが、5月中旬ごろ、日本軍による壕追い出しがあった。


5月下旬から6月上旬にかけて、避難民が入ってくるようになり、日本兵のグループも入ってきた。さらに、島田知事など県の幹部等も避難してきた。どれくらいの人たちが入っていたか定かではなく、500から600人とか1000人以上という証言がある。6月中旬、島田知事は「後方指導挺身隊」を、荒井警察部長は「警察警備隊」を解散させ、摩文仁の司令部へと出て行った。壕内の日本兵は、それを機に民間人を壕の左側に閉じ込め、見張りを立たせ米軍への投降を阻止した。食料不足による餓死者が続出、多数の死者が出たが、確かな数字は不明である。
(上記は沖縄平和ネットワーク「轟の壕」から転載。)


ここでも本土からの修学旅行の高校生たちの姿があった。
平和祈念資料館のときとは違い、静かに先生の話を聴いていた。

石原 昌家 (著) 『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕―国内が戦場になったとき』 (集英社新書)に「大局観ではなく、民間人レベルでの沖縄戦の記録」がかなり詳しく載っている。