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森羅万象 ~ 歩く印象派

「報道・解説・評論」は機能しているか

2010年08月30日 05時32分50秒 | 時事スクラップブック(論評は短め)
2010年08月30日朝日COM

栗田 亘 (コラムニスト、元朝日新聞「天声人語」執筆者)

 行きつけの縄のれんで「サンマが高値だってね」と嘆いてみせた。海水温が高く不漁で、1匹1000円以上の値がついた、といった記事の受け売りだ。
 するとオヤジが言った。「ナニ、そのうち下がりますよ。大体ね、8月の暑い盛りからサンマ、サンマと一大事みたいに騒ぐのがおかしいんです。漢字で秋刀魚と書くように、サンマは本来秋のものなんだ。秋になれば脂がのってずっと旨くなるし、値段もだんだん下がるに決まってらあ。どうもね、この、物知らずのマスコミがいけないんだね。初物、初物と煽るばっかりで、季節感も何もメチャクチャにしちまいやがる」。攻撃がマスコミに向くと、口調が伝法になった。

 値が下がるかどうか保証の限りではないが、オヤジの言い分はわかる。ただし、新聞・テレビがとかく上滑りになるのは、持って生まれた業のようなものだ。 1000円の値がついたとなれば、何はともあれ文字にし絵(写真)にする。騒がないではいられない。騒がなければ他社、他局に後れをとる。そもそもニュースとは何か。とりあえず話題になるのであれば、それは立派なニュースなのである。

 とりあえず話題になる――世論調査の結果もその一つだろう。毎週のようにどこかの新聞・テレビが「当社の世論調査によると」と内閣支持率を報じる。鳩山政権が千鳥足になり、受け継いだ菅政権も飛翔できない。そこへ、前首相と一蓮托生、役職を退いた小沢一郎氏が民主党代表選に出ると宣言した。マスコミたるもの、これを騒がなくて何を騒ぐか。
 といって、床屋政談ではあるまいし、空気とか世間話だけを根拠に騒ぐわけにもいかない。その点、世論調査の結果は数字で表される。空気や世間話が計量化されて出てくる。なにより、数字とはもっともらしい存在だ。水戸のご老公の印籠みたいなものである。内閣支持率が下がりました、と総理大臣にぶら下がり取材で突きつければ、相手も一言せざるを得ない。「総理・内閣の政策のここがおかしい」と論を立てて追及するよりは、手っ取り早く記事にできる。

 などというのは、もちろんゲスの勘繰りに違いない。でも、世論調査の数字がそのままニュースになり、その数字がしばしば一人歩きしているのは、おおかたが認めるところだろう。
 当事者からすれば適切な間隔を考えて慎重に実施しているにしても、各種世論調査が集積すると矢継ぎ早、腹いっぱいの印象になるのは否めまい。8月17日の朝日新聞「声」欄(東京紙面)にも「過剰な内閣支持率報道に疑問」と題して批判の投書が載った。
 〈世論調査は国民の意見を知るための重要なツールである〉と認識しながらも、〈毎月のように(内閣)支持率を知ったところで、不透明な政治情勢を正確に見通せるわけではない。ましてや、日本が直面する政策課題の解決に役立つはずもない〉〈過剰な世論調査報道のせいで、政治不信があおられているように思えるのだと〉と疑念を呈する内容だ。

  この投書は8月14日の同紙に掲載された「夏の基礎講座」シリーズの「世論」を立論の手がかりにしている。専門家に専門外の記者が素朴な疑問を問う企画で、全5回のうちのこれが4回目。登場する専門家は京都大学大学院准教授の佐藤卓己さんだ。
 佐藤さんは世論(せろん)と輿論(よろん)を区分けして論じる。それによると、大正期までは両者はかなりはっきり区別されており、戦前はヨロンは輿論と書いてきた。世論はセロンとかセイロンと読んだ。輿論とはパブリックオピニオンで、世論はポピュラー戦センチメンツ。つまり輿論は理性的討議による合意、真偽をめぐる公的関心で、世論は情緒的参加による共感、美醜をめぐる私的心情である。
 とてもわかりやすい。ついでに「輿論」の「輿」の字はむずかしいから、「世論」で統一してしまおう、といった戦後国語改革なるものの浅薄乱暴な一面も浮き彫りになる。
 佐藤さんは続けて、
 「例えば今の菅さんを支持するか、しないかというような電話が私にかかってきて答えますよね。ただ私は日々、菅さんを支持するか、しないかということを考えて生活している人間ではない。普通の生活人はそうですよ。そういう人たちが支持するか、しないかというのは、周囲の世間話、あるいは昨日、今日のニュースやワイドショーでどう報じられていたかということで、まさに空気を読んで答えているだけです。自分でよく考えた反応ではない」「輿論と世論の区別でいえば、一定の時間に耐えられるかどうかというのが輿論を世論と分かつものだともいえる。つまり輿論は明治時代、公議輿論といわれていたように、公に議論して作られる意見だから、時間がかかることは前提でした。そうして熟議され、合意を得た多数意見である輿論が、1週間、2週間でころころ変わるはずはない。だからころころ変わる内閣支持率というのは、そもそも輿論だとはいえないわけです」

 いよいよわかりやすい。もちろん佐藤さんは現行の世論調査(セロンチョウサと読みたくなる)を否定しているわけではなく、その有用性は十分に認めている。要は、結果として出てきた数字をどれだけ深く吟味するかしないかの問題になる。

 引用が長行にわたるけれど、つぎの個所も大切だと思うので、あえて再録したい。
 「ナショナリズムが暴走する危険性を意識する上でも、圧倒的な空気、つまり世論の圧力に抗しても、理性的な意見、つまり輿論は最後まで守るんだという覚悟は大事ですね。(中略)過去の歴史を振り返ってみれば、輿論の必要性は確かに実感できるはずです。例えば戦争に至る空気の暴走ですね。それに対する歯止めというか、むしろ病気を防ぐための予防体操みたいなこととして、輿論か世論かという弁別の思考は訓練しておく必要があると思います」
 訓練、覚悟が求められるのは、まず第一にジャーナリズムであろう。そして今、紹介した投書が危惧するように、世論調査の数字を取り扱う姿勢をめぐって、ジャーナリズムに疑義が投げかけられている。

 ふと思う。「世論調査」でなく「輿論調査」と表記することにしたら、訓練・覚悟に、あるいはよい影響が生じるのではないかしら。

 それはともかく。
 半世紀前、私が高校生だった頃、「朝日ジャーナル」誌が創刊された。当初の内容はいささか高踏的で、幼い高校生には取っつきにくかったが、表紙の朝日ジャーナルという題字の前に置かれた「報道 解説 評論」といううたい文句は、あたかも三種の神器のようにこの週刊誌の基本姿勢・目標を明確に表現していて新鮮だった。
 新聞の場合、いうまでもなく報道が優先する。しかし近年、劣らず重要だと認識を新たにされてきたのが解説・評論だ。
 シリーズ「夏の基礎講座」は、解説としてなかなか魅力的だった。聞くところによると、ふだん新聞があまり取り上げないような基本的な概念について、「そもそも」を解き明かす記事を掲載するのが狙い。その道の専門家に質問を浴びせる聞き手には、ふだんの取材ではテーマと縁が薄いが面白くて意表を突ける記者を選んだという。
 「生命」「同盟」「市場」「世論」「結婚」の5つのテーマのうち、私がいちばん興味を抱いたのはむろん「世論」。聞き手はスポーツ担当編集委員の西村欣也記者で、この起用も成功だった。加えて、記事の行数がたっぷりあったのも効果的。ご用とお急ぎの読者が多いといっても、読ませる記事、読ませたい記事は、それなりの長さがほしい。

 冒頭のサンマの話に戻れば、縄のれんのオヤジの言のごとく、真夏からサンマ、サンマと大騒ぎしすぎるのも考えものではないかしら。繰り返せばサンマは本来、秋が旬。「初物、初物と煽るばっかり」とオヤジにあまり言われると(私利私欲ながら)せっかくの酒が味気なくなる。