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森羅万象 ~ 歩く印象派

新自由主義=エリート主義=新特権主義=新利権主義 「だまされることの責任」より 

2009年08月06日 23時59分10秒 | 読んだ本・おすすめ本・映画・TV評
いきなりナベツネ氏について.
「新自由主義ってエリート主義、つまり平等がイヤだって
いう思想じゃないですか。お前ら庶民が貧しいのは能力が
ないからだ。という考え方ですよね。『規制緩和』だとか
一見よさそうなことを言うから、それにだまされる人も多
いけど。」と魚住氏。
「弱肉強食ですね。」と佐高氏。
再び魚住氏
「一見、正当そうなことを言いながら、弱いものはどんど
ん切り捨てていく思想なんですね。」

本書のタイトルはずばり「だまされることの責任」だ。

この本でもっとも感銘を受けたのは
冒頭の故伊丹万作の「戦争責任者の問題」だ。
彼は言う。

「『だまされた』といって平気でいられる国民なら、おそらく
今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別の
うそによってだまされ始めているにちがいない。」

このくだりは石垣りんさんの詩『雪崩のとき』に通じるものがある。

「だまされていた!」というのは免罪符にならない、ということだ。
今の状況は、まさに「だまされたなり」とおちゃらけている場合では
ない。もう、取り返しのつかないところまで来てしまったのかもしれ
ない。

付け加えておくと、戦争への道は私たちの身近にあふれている。

次の伊丹の指摘は現在の私たちにも当てはまる。

「少なくとも戦争の期間を通じて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にもすぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の商店主であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊
外の百章の顔であり、あるいは区役所や郵便局や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であった」

「だまされることの責任」佐高信、魚住昭 共著  2004年8月(高文研)