仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

平和を願うつどい

2012年03月21日 | セレモニー
お彼岸の中日、築地本願寺へ友人のMさんが布教に来ているので夕食でも共にと、午後6時に築地に到着。築地本願寺では“平和を願うつどい”というパイプオルガンのコンサート中でした。

パイプオルガンのコンサートは話には聴いていましたが、築地にある「カトリック築地教会」「聖路加国際病院ルカ礼拝堂」「築地本願寺」の3つのパイプオルガンを使って連続コンサートの催しです。

当日のパンフを見るとパイプオルガンコンサートの楽曲紹介の間に、Mさんの名前があります。終わってから尋ねると、依頼の法話は、7分間で平和についてだという。聴衆は400名といったところでしょうか。

その後は、彼岸中なので、大きな声では言えませんが、楽しいひと時でした。

7分間の平和についての法話、通常の話し言葉の文字数は、1分間に300~400文字です。最少で7分だと300文字で2100文字、どんな話ができるか、過去の話した内容を挿入してシュミレーションしてみましょう。だいぶ理屈っぽいのが難点です。


地球が誕生して約46億年といわれています。誕生当時、地球は火の玉で二酸化炭素や窒素、水蒸気などのガスに包まれていたといいます。その火の玉が、少しずつ冷えてきて、りんごがしぼむと皮がたるみしわができるように地表に凹凸ができたそうです。

そして地球を覆っていた水蒸気が滝のような雨となって地表に降り注ぎ、海ができ、その海に生命が誕生したと聞きます。箱根に県立生命の星・地球博物館があります。そこに地球最古の生命の化石が展示されています。オーストラリア西部の35億年前の地層から発見されて岩石です。すでに光合成を営み酸素を排出する複雑な構造をもつバクテリアの化石です。

以来誕生した生命の連鎖は、ある方向性を持って今日に至りました。その方向性とは弱肉強食、強くあれ、賢くあれという願いを持って環境に適応して受け継がれてきたのです。
 この弱肉強食のいのちの連鎖は、花の美しさから、果物の美味、腕力の強さ、人類の賢さまでゆきわたり、強い種として受け継がれ、強く賢いものが環境に適応して子孫を残して今日に至っております。

 今朝の朝刊(24.3.21産経)を開くと「北の浪費 祝賀に1670億円」で北朝鮮がミサイルの開発・実験に700億円、コメ141万トン分を費やし、国民の犠牲の上に軍備の拡張をしているとの報道が掲載されていました。その同じ紙面の広告欄には『94歳。寄りかからず。前向きにおおらかに』『知力の鍛え方』『一日一回冷やごはんダイエット』の広告があります。北朝鮮の浪費を笑う側も、内容こそ違え、“強くあれ”“賢くあれ”“美しくあれ”と、弱肉強食の連鎖のなかでの営みであることは同じことです。

この強さや賢さを求める行動の背後には、弱く愚かで終わっていった命が無数にいたことは申すまでもないことです。『涅槃経』に弱く愚かゆえに終わっていた命が流した涙は大海の潮より多く、苦しみの中に流した血液は大海の潮より多いとあります。
この悲しみと苦しみの涙の中に終わっていった命の中から、阿弥陀如来の大悲は起こったと親鸞聖人は示されておられます。

如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば  苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて   大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり

(正像末和讃『浄土真宗聖典「註釈版」』606頁)

(阿弥陀如来が本願をおこされたその大元の尋ねてみると、苦しみの涙の中に終わっていくであろうあらゆる命あるものを見捨てることができず、これらの命あるものが安心して最高の恵みを手にすることができるとこを第一の目的として、大悲心を成就されました)

今日の、この「平和を願うつどい」において、まずこころみなければならないことは、この弱肉強食の自らの営みです。自分は正しいという価値観に立って、他の命を傷つけてしまう、自らの存在の悲しさです。その存在の悲しさを認めることを通して、初めて他の悲しみの中にある命に寄り添うということが可能になります。

 現代平和学では、平和を脅かす暴力には、3つの種類があるといわれています。1つは「直接的暴力」、2つは「構造的暴力」、3つは「文化的暴力」です。
直接的暴力とは、戦争、いじめ、殺人事件などです。構造的暴力とは、現代社会のあり方や構造そのものに問題があることをいいます。大気汚染や貧困、飢餓、差別、環境破壊、人権抑圧などです。文化的暴力とは、直接的暴力や構造的暴力を助長したり正当化するような文化のあり方をいいます。

しかし仏教では、生老病死そのものが煩悩の濁流の中にあり、他と比較して考える価値観や、強くあれ賢くあれと欣う煩悩が、他の命を己の命を傷つけて病まない暴力の根源であると示されています。

今日、築地本願寺という伽藍の中で、平和を願う集いを開催する意義は、まず仏さまのみ光に照らされて自分自身の中にある暴力の闇をこころみることです。
そして今日のパイプオルガンの音楽の調べのように、お互いの音の違いを認め合い、お互いが協力して平和というハーモニーを作り上げていくことです。(1633文字)
(以上)

文字が予定数には届きませんでしたが、不足分は法話本番の時に補います。といってもお招きを受けている場所はありません。
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彼岸一口法話

2012年03月20日 | 浄土真宗とは?
今日は彼岸のお中日です。浄土真宗は、浄土で往生して仏と成る仏道です。この世ではなく浄土でという点に、不満を覚える人もあるでしょう。その点を少し考えてみましょう。

この世で仏に成るという理想をもって歩むということは、浄土真宗の視点から見ると不完全な価値観だと言えます。何が不完全化と言えば、極端に言えば、仏でないものは価値なしと切り捨てていくことだからです。

たとえばカウンセリングで説く受容という理解があります。子どもの不登校でいえば、学校に行かせることではなく、行きたい気持ちも、また行きたくない気持ちも理解し受容していきます。

 学校に行かせようという思いだけが強いと、学校に行けない子どもの気持ちを受容することができません。こうあるべきという一つのゴールを決めると、それ以外の状態を受容できないのです。

この世で成仏するというゴールをもつことも同じです。浄土真宗の「この世では救われない」という人間理解は、一見、人の生き方を否定した言葉のようですが、「この世で救われない」存在をも認めていこうとする教えなのです。

例話を入れます。NHKラジオ(24.3.7)ラジオビタミン、ときめきインタビューに浜美枝さんが出演していました。話題の中で、中学時代、図書館で出会ったのが柳宗悦さんの本を紹介されていました。それで柳さんのことを思い出し話題にするのですが、柳宗悦さんは、大正末期に興った「民芸運動」の推進者として知られる方です。

柳宗悦さんは、の著書『美の法門』に次のように書いています。

 「民芸に私どもが心を引かれるのは、妙奸品ともなづくべき物を見いだしているからである。かかる品々に流れる美のおきてをいみじくも説いてくれるのは念仏の教義ではないか美の法門の大願第四に『設い我仏を得んに、国の中の大大形色不同にして、奸醜あらは、正覚をとらじ』この一言があるからには、これによって美の一宗が立てられて良い。意味は、私が仏になるとき、私の国の人たちが色や形が同じでなく、美しいものと醜いものがあるならば私は仏になりはせぬというのである。このことは次のことを意味する。仏の国においては美と醜の区別がないのである。本来は全て美しいように出来ているのである。秀でたものは秀でたままに、劣るものは劣るままに、なにを書きどう刻もうとも、全ては美しく受け取られるように仕込まれているのである」 

柳宗悦さんが説く、あるがままにすべてが美しいという価値観は、これが最も素晴らしいという価値観に立たないということでもあります。この世での成仏を断念するというのは、断念という一つの価値観を捨てることであり、それは同時に、どのような状態にあるものも浄土で成仏する値打ちのあるものであり、凡夫である私の存在の上に、如来と同質のいのちの尊さを見ていくことでもあります。
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民主主義の欠陥

2012年03月19日 | 仏教とは?
産経新聞(24.3.18)論壇に、評論家稲垣真澄氏が“民主主義支える「自業自得」”という題で書いていました。

稲垣真澄氏は、産経新聞の論説委員をされていた方で、以前私が、同新聞にコラムを連載していた時にお世話になりました。大派の寺院出身であったかと記憶しています。

私の興味を引いた部分は、次の所です。(以下転載)

民主主義の前提の一つは自己決定の有効性だといわれる。間違った自己決定は不利益となって自己にはね返るという「自業自得」が民主主義の合理性を保証する。バカなことをしたら結局ソンをするのは自分だという自戒。その自業自得が成り立つのは「同時性(己が見通しうる世代)」の枠組みにおいてであり、同時性を超える事柄に関しては民主主義は有効な自己決定をなしえない。

つまり、無毒化するまでに10万年あるいは100万年もかかるとされる核廃棄物は、自己決定する者の責任の範疇をこえているので、民衆主義の基本にある自己決定の考えには、欠陥があるというのです。

“自己決定権の尊重”が現代の価値観の主流です。仏教のその価値観を否定するものではありませんが、全面的に肯定するものでもありません。

1つには、末通らない、未来を貫くほど確かではないということ。それと他の依って自己があるという縁起に立って、自己決定の主張には謙虚であれと教えています。

謙虚と言えば、夜中のことでした。

夜中に目が覚めラジオをつけると、スポーツニュースでした。ラグビーの第49回日本選手権決勝でサントリーがパナソニックに21―9で勝ち、2年連続5度目の優勝で、東芝以来5シーズンぶりとなるトップリーグとの2冠を達成した。と報道していました。

そして竹本隼太郎・サントリー主将の言葉を紹介していました。いわく「目標の2冠を実現できてうれしい。多少のミスはあったが、崩れなかった。強い相手と戦うことでレベルアップできた」。“強い相手と戦うことでレベルアップできた”と相手を讃えた言葉です。勝っておごらず、見事なコメントだと思いました。

自己決定の考え方の欠陥を補うものは、科学技術をはじめとするさまざまな知性への驕りを持たず、未来と他者に対して謙虚であることでしょう。新聞記事を見て思ったことです。
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ひばりとお日様

2012年03月18日 | 浄土真宗とは?
昨日(24.3.17)から、森の中でホトトギスのさえずりが聴こえます。

日曜の早朝の楽しみは、日曜のNHKラジオ番組“野鳥の声”のコーナーと、“文学のしずく”という小説朗読のコーナーです。文学のしずくは太宰治の「走れメロス」でした。

野鳥の声では、「ひばり」のさえずりを取り上げていました。アナウンサーが「ひばりが、お日様にお金を貸した物語がある」と紹介していました。

「ひばりとお日様」というしっかりとした昔話があります。

“むかしむかしのことです。お金持ちのヒバリがいました。ヒバリは、お金を貸す商売をしていました。ある春の日。お日さまがやってきて、ヒバリにお金を貸してくれとたのみました。ヒバリは、すぐにお金を貸してあげました。

お日様は借りたお金を返すために
朝早くから夜遅くまで、せっせと働きます

そのおかげか、やがてお日様は立身出世をして
天上へ昇ることができました

こんなことがあって、お金を貸したヒバリは空高く舞い上がり・・・
「お陽さまに 金貸した お陽さまに 金貸した」と囀ります

 お日様は、雲雀がうるさく叫ぶのが気になってしかたがありません。
一生懸命働いてお金は返したのですが、利息を忘れていたお日様に更に雲雀はこう囀ります。
「日 一分 日 一分 利 取る 利 取る」

そんなヒバリに対してお日様は、「私は、春になれば朝早くから、明るくしたり温めたり、時には、春雨を降らせたりしているのだから、利子は負けておくれよ」
 
それでも、雲雀は・・・
「ヒ イチブ ヒ イチブ リートル リートル」
と、鳴きながら天へ舞い上がります 
(以上)

面白い話です。

先のラジオ放送では、ホオジロのさえずりも話題に取り上げていました。「一筆啓仕り候」(いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)と鳴くのだそうです。

お説教で聞いた話は、「ホトトギス」です。

ある人には「テッペンカケタカ」、またある人には「トーキョートッキョキョカキョク(東京特許許可局)」とも、さらに酒好きの人には「イッパイツケタカ(一杯つけたか)」、主婦の方には「ダイコンツケタカ(大根漬けたか)」、学生には「マンテントレタカ(満点取れたか)」、髪の薄い人には「テッペンハゲタカ(天辺禿げたか)」と聴こえるとのことです。

そんなことを思い出しながら、歩いていると、昨日から聞こえるウグイスのさえずりが聴こえてきました。

蓮如上人はホーホケキョを「法を聞けよ」(ホーキケヨ)を聴いて楽しんだと回想していると、ふと“おそらく日蓮宗の人は「ホーッケキョウ(法華経)」”と聴こえるのだろうと思われました。そのとたん“南無阿弥陀仏と聞いて、「阿弥陀仏の汝を救う」という弥陀の勅命と聞こえるところに、阿弥陀さまのお育てがある”と思われ、5.6分、声に出して南無阿弥陀仏の称名を楽しみ、深いご恩を味わいました。南無阿弥陀仏は、汝を救うという弥陀の勅命です。

今日は当寺のお彼岸法要です。
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南無阿弥陀仏は機能美の極まり

2012年03月17日 | セレモニー
さすが美智子皇后。「皇后さま、とっさに動ける草履で 追悼式、陛下を気遣い」東京新聞夕刊(24.3.16)の記事です。

東京新聞より転載。

 東京で11日にあった政府主催の東日本大震災追悼式で、皇后さまが和服姿だったのは、心臓の手術後間もない天皇陛下が万一転倒しても、底が平らな草履ならとっさに動けると考えられたからだった。宮内庁幹部が15日明らかにした。
 天皇陛下は退院から1週間で式に出席。体力は十分に回復しておらず、周辺は壇上での転倒を懸念した。幹部は事前に「最もそばにいる方にお支えいただくしかない」と皇后さまに相談。皇后さまはハイヒールを履く洋装だと対応できないと、和装を選んだという。
 追悼式の壇上で天皇陛下はゆっくりと歩き、転ぶことはなかった。(以上)

先日、皇后さまの喪装について記しました。私は儀礼的な視線でしたが、皇后さまは働きからきました。ふと以前書いた「南無阿弥陀仏のお姿は機能美を極めたお相」という言葉を思い出しました。皇后さまの和装の喪服は、格好よりも、どう動けるかというお気持ちが和装のお相となったという。南無阿弥陀仏…。有り難い。

仏さまのお姿には、働きをあらわした相が多くあります。その一つ、指と指の間にある膜(指縵網相・しまんもうそう)は、全ての衆生を漏れなく救う慈しみ表しています。この膜は、水鳥に似せています。水鳥は、水上にも空にも陸にも身を置くことができます。水鳥が、水の上も、陸も、空も、すべてに対応できるように、人間の欲や怒りや愚かさにも遮られることなく、救いの手をさしのべことができるという働きを伝えています。
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