仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

老子の逸話

2009年03月01日 | 仏教とは?
今まで読売新聞の「人生案内」を読んだことがなかったが、テストケースで一度このブログで扱ってから、毎日といっても2日間であすが、読んでみると面白い。これはわたしが回答者になって1つのコーナーをつくってみたらわたしの主観が鍛えられると思う。ただその回答を批判する人がいないと独善的になる危険がある。書きためておいて、小出しにするのも良いかも知れない。

昨日の環境還元主義について、拙著「ありのままの自分を生きる」(刊徳間書店)に老子の話を持ち出しています。長くなりますがその部分を転載してみます。

時の皇帝が老子(周代の哲学者。道家の祖)を宰相に迎えようとして彼を招いたが、老子はあっさり断わってしまった。彼は語った。「私はお役には立てません。なぜなら、私たちが同じ結論に達することは不可能なことです。皇帝は先祖から受け継いでこられた理想にしたがって生きておられます。私は、私の理想や思いにしたがって生きているのですから」
 しかし、皇帝は自分の判断で老子を迎えることにした。
 老子が宮廷に招かれた最初の日のことです。一人の泥棒が都いちばんの金持ちのところに盗みに入って、現場を取り押さえられ、しかも自分が盗みに入ったと自白していた。老子は、その金持ちの男と泥棒に両方とも六か月の禁固刑を言い渡したというのです。
 たまらないのは金持ちです。「なんですって。私は盗みに入られたほうですよ。なんでその私が牢屋に入るんですか。盗みに入られたほうが罰せられるなんて、いまだかつて聞いたことかない、あなたは気は確かですか」
 老子は、実際は泥棒よりもおまえのほうが長い刑期をいい渡されてしかるべきだった。
私は慈悲深すぎたかもしれない。なぜなら、おまえは都中の金をかき集めているからだ。これらの人が泥棒をせざるをえなくなったのはだれのせいかと言えば、おまえにその責任がある。だから、彼がおまえの財産からほんの少しだけ盗もうと、それはたいした罪ではない。その金はもともとおまえが取り上げた多くの貧しい人々に属するものだった。おまえはどんどん金持ちになり続けたが、その一方で多くの人がどんどん貧しくなっていった。あらゆる窃盗事件について、私の判決はこれと同じようになるだろう。双方が処罰されてしかるべきなのだ」
 金持ちの男は考えた。この男は頭がおかしいようだ。完全に狂っている。そして「どうか私に皇帝にお会いする機会を与えてください」と老子に告げる。
 彼は皇帝に会うと、一部始終を伝え、「あの男を宮廷から追い出さなかったら、あなたもいずれは牢屋に入れられてしまいますよ。あなたの全財産は民衆から吸い上げたものだからです。もし私か罪人ならば、あなたは大罪人ということになりますよ」
 皇帝も老子の論理がどういうものかわかってきて、老子の職を解いたという。
老子の考えは現代社会には受け入れられませんが、一面では社会の理想を伝えています。一人の男が殺人を犯した。その人は一生、殺人者としての汚名を背負って生きていかなければなりません。いったい彼が殺人を犯す背景にはなにがあったのか。教育に問題があったのではないか。友人が悪かったのではないか。両親に問題があったのではないか。町内の人たちはどうだったか。職場の人はどうか。いったいどこに問題があったかと試みられる国があってもいいではありませんか。
 金持ちの家に泥棒加入ったら泥棒が罰せられる、という私たちの常識となっている価慎観は、一つの価値観にしかすぎません。その一つの価値観を唯一絶対的な価値観のように思い、すべてを律していくところに闇があるのです。(以上)

言わんとするところは、常識も常識という偏見にすぎないというだけのことです。決して環境還元主義を讃美するものではありません。心理主義の弊害は確かにあります。要はその考え方の限界と発揮する部分を明確にして接することが重要です。心理主義と唯識の相違は、唯識でいう三界唯一心は、この心を他にして存在しないとう考え方ですが、西洋の唯物論に対する唯心論でちがってその心も仮のもので夢幻の存在であるとして否定するところにあります。物事にこだわっているという事実から入り、その心の綾を解明して、その心さえもこだわる必要のないとするものです。
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