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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

ただ愁嘆の声を聞く

2024年05月29日 | 浄土真宗とは?
昨日の「白いカーネーション」で思い出した話があります。平成9年頃書いた拙寺寺報原稿です。

釈尊は、私の可能性の開発について教えて下さいました。可能性の開発のテーマは「覚醒」です。お覚りいということです。
 阿弥陀如来は、そうした釈尊の教えが往き渡っているこの世の人の姿をご覧になったとき、大いなる悲しみの心を起こしたといいます。
 善導大師は、「ただ愁嘆の声を聞く」と、その有り様を伝えています。そして、阿弥陀如来は「生平を終わりて後、かの涅槃の城に入らん」と大慈悲心を発動し、無条件の救いという慈しみをご用意して、お念仏となって、私を迎えにきて下さっています。
 阿弥陀如来が聞いた愁嘆の声とはどのような声であったのか。それをある方の逸話の中に想像してみましょう。
 「心にしみいるいい話」という本の中に、高知県の森脇義喜さんが「つづり方」という題でエッセイを寄せています。
 それは昭和十八年、小学校二年の時の思い出だそうです。担任の先生がお産のため、別の新任の先生が教壇に立った。
 その折、先生は児童に「皆さんのお父さん、お母さんについて、どちらでもいいからつづり方を書きなさい」といわれた。
 それを聞いた森脇少年は、雷に打たれたように打ちひしがれたそうです。父は生まれる二ヵ月前に病死、母は七歳の時、四人の子供を残して息を引き取っている。少年の心には、親のいない悲しみよりも、親がいないことを知られるのが恥ずかしくおびえたそうです。書きたくても書けない。鉛筆を握ったまま、心臓は早鐘のように打ち、身体は火の出るような熱さを感じたと言います。
 先生は、顔を真っ赤にして泣き出しそうにしている少年をのぞき込み、「どうしたの、ちっと書いていないね」と言う。少年は、泣いたら皆から笑われる。体をこわばらせ泣くのを堪えていた。「さー、早く書きなさい」と促されるともうたまらず、一生懸命堪えている涙がポトポトと帳面に落ちた。
 「どうしたの」と、いぶかる先生に、他の女の子が、「先生、森脇さんはお父さんもお母さんも死んでおりません」と言った。森脇少年は、その少女の声と共に、わっと泣き伏せた。両親のいない悲しみよりも、親かいない事の恥ずかしさからたまらず泣いたそうです。
 先生もまた、「エエッ」驚いて声をあげ「ごめんね、許して頂戴。先生は知らなかったの。許して……」と、少年を抱き上げ、教室の中を泣きながらぐるぐる回ったそうです。
 先生の涙、悲しみは、少年の存在によって起こったものです。それは同時に自分のうかつさ、いたらなさへの涙でした。
 阿弥陀如来の悲しみも同様でしょう。釈尊は人が仏になる道を示しました。その裏には、仏になる可能性ありという人間理解があります。それは先のエッセイで言えば、「お父さん、お母さんについて書きなさい」と告げた事に似ています。それは先生の子供たちは父母について書けるという見込みの上での教示でした。多くの人は先生の言葉に従い父母について書きました。
 ところがその中に、作文を書くことができずに堪え忍んでいる子供が居たのです。そのことを知った先生の嘆きは、ごめんなさい、許してと自分のいたならさに向けられました。
 阿弥陀如来が煩悩にまみれ、闇に沈んでいる私をご覧になったときの悲しみは、まさにこの如く、ご自身の未熟さへ向けられたに違いありません。だからこの阿弥陀如来は、人間のあるべき理想ではなく、仏の豊かさ、慈しみの深さを問題とされ、無条件に救って行ける仏に成ることを願われたのでしょう。そして自らは「南無阿弥陀仏」の念仏と成って、私の意識の上に、その存在の名乗りをあげて下さったのです。
 「南無阿弥陀仏」は、この私を抱き取ったという阿弥陀如来の存在の証です。
 さあ帰ろう。無量のいのちの故郷は、私をありのままに摂取して下さっています。いま阿弥陀如来の慈しみは念仏となって私に届けられています。(以上)
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