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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

目覚める

2024年06月13日 | 浄土真宗とは?
本願寺発行の月刊「大乗」にこの4月~連載しています。「なるほど仏教ライフ」6月号“苦しみの意味”を転載します。

目覚める


一九九九年、アメリカで上映された映画『マトリックス』は、当時『ダルマ映画』(仏教映画)とも言われていました。
 主人公ネオは、自分の住む世界が夢の世界であることに気づく。ネオが日々暮らしている世界は、実際には精巧な幻覚にすぎず、現実のネオの肉体は、トロトロした液体が満たされた棺桶程の大きさのポットの中で夢を見ている。ポットにとらわれていたのはネオだけではなく、同じ様なポットが数え切れない程並び、ネオと同じように沢山の人間がポットの中で、コンピューターによって夢の人生を与えられているのです。
このコンピューターによって支配された世界を覆そうと活動するグループのリーダーから、居心地の良い幻覚の世界を生き続けるのか、それとも厳しい現実の世界に目覚めるのか、ネオは選択を迫られます。そして、この状況を打開する方法を伝え、赤の薬と青の薬を差し出す。赤の薬を飲めばこの幻覚の世界から目覚め、青の薬を飲めば夢の世界に戻ることができる。ネオは、赤の薬を選び、厳しい現実と向き合うことを選ぶという物語です。「ダルマ映画」と呼ばれていたのは、ネオが迫られた「妄想を生き続けるのか」「現実に目覚めるのか」という部分が、仏教の教えに通じているからです。
仏教では、私たちはこの世界を、自己中心的な色眼鏡でもって歪めた世界を見ていると説きます。そして、この色眼鏡を外し、世界をありのまま見ろというのです。しかし浄土真宗は、色眼鏡を外すことができない凡夫であり、その私を摂取するという阿弥陀仏に帰依するみ教えです。
私はしばしば、俗に言う「金縛り」を体験することあります。睡眠中、意識は戻っているが、運動系のはたらきが完全には戻っていない状態で、反復性孤発性睡眠麻痺という立派な病名がついています。
 先日、体験した「金縛り」は次の様なものです。本堂の地下に納骨堂があり、その納骨堂の入り口付近に、布や紙などが置かれている。その紙の一部が燃えだし、火が納骨堂全域に広がっていく。最初はホースでの放水ですぐ消える状態なので、ホースを取ろうとするが、私は睡眠麻痺状態です。色々な人が来て火事の様子を見るのですが、何もしてくれない。私は夢の中で、手を伸ばし起こしてくれと告げるが、声になりません。必死に手を伸ばすが、伸ばした手は実体がなく、相手の手に届くのだが、その相手の手をすり抜けてしまう。
 そのうち燃焼も激しくなり私は必死です。「起こしてくれー」「起こしてくれー」という思いが、そのまま音声になったらしく、隣の部屋にいた坊守が「どうしたの」と声を掛けてくれ、その声で睡眠状態から目覚めることができたのです。よほど必死だったらしく喉はカラカラでした。
 夢の中にいる自分は、夢の中の自分がすべてです。夢から目覚める。それは別次元の意識に開かれることでもあります。「南無阿弥陀仏」の名号は、真如の世界からの呼びかけでもあります。その呼びかけによって私は、摂収不捨の阿弥陀仏の願いを疑う闇から目覚めるのです。親鸞聖人は、疑いの闇から目覚める様子を『無辺の聖徳、識心に攬入す』(浄土真宗聖典(註釈版)180頁)と「攬入」(かきみだし入り込む)いう文字で説かれておられます。その呼びかけに安住するのが「信心」です。『無量寿経』の中に説かれる信について、サンスクリット原語は数種ありますが、その一つにプラサーダ(prasāda)という言葉があります。「濁った心を浄化する」「清らかな心にならしめる 」と訳され、聖なるはたらきを意味する言葉です。「南無阿弥陀仏」は、妄想を生きる私をして、妄想を生きていることを明らかにして下さる聖なるはたらきなのです。

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