二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

微妙なこと

2015-02-13 11:05:08 | 徒然に想う

「継承する」って、何? どういうこと、だろう。これから農を中心とした暮らしを目指すに際しての重要な課題の一つ。最近この中に微妙に3つのレベルがあるように思えてきた。そこで、はたして自分はどんな「継承」をしていきたいのだろうか、ノートしておこう。

まず、先人のやってきたことをそのままの形で受け継ぎ次世代に残すこと。これは、例えば、子孫を残すことと同じ意味だ。つまり、動物や植物、この地球号の乗員乗客たちは綿々と次世代へ命をつないでいく。全く選択の余地は入らない。ただ、ヒトだけ、がそこに「する・しない」の選択をすることがある(いい悪いの話じゃない、選べる、選べることがある、ということだけを言っている)。極端な言い方だが、「先人のやってきたこと」を「生きる」とでも言ったらいいかもしれない。「絶対的継承」なんて、大げさか。

「先人のやってきたこと」を「文化・伝統」とみなせば、(ひとまず)動物や植物にない面が出てくる。例えば、伝統農法という言葉がある。農業全書とか地方の地誌に記録がある。今世に出回っている野菜作りなどの本も同じ記録といえる。その書かれたことを実践することで、農業技術は「継承」はされる。つまり、「学ぶ」の語源であるところの「まねる」。この「まねる」ことによって、これまでのやり方が受け継げられてゆく。なるほど、確かにそうだ。…だが、「踏み込み温床」の温度の上げ方についてある方から伺った話を思い出すと、どうもこの「継承」にはもう一つ別な面がある。

そもそも、反省として立ち帰りたいのだが、「まねる」だけでいいのだろうか。つまり、書かれている通り、真似ををするだけで「継承」は達成されるんだろか…。廃れそうなこと、廃れてしまったことを記録からひも解き再現するという「継承」は達成されうるに違いない。ただ、庵主のつたない経験では、大概、本に書かれていることを試しても、どうも書いてあるようにいかない。何かを見落としてしまう。

「まねる」だけでは、「継承」として不十分、そのままの形で受け継ぎ次に残すということだけでは足りない。そこに、さらに、その時々の環境や状況の下で、これまで先人たちのやってきたことをいかに理解し採り入れ、どう発展させ次代に残こしていくかを考えなければならない。「進歩させる」ことも必要だ。さもなくば、昔に帰れないのと全く同じで、何か見落とし亜流へと流れ、その「継承」はどこかで行き詰まるか廃れていくに違いない。これを肝に銘じて置こうと思う。

 

  

 

今日の一枚:神秘的な青を見上げる。6時過ぎ、カワセミの川の土手の上で。

≪朝闇を シラサギ破り 梅香る≫

 

 

今日のもう一枚:11日、畑に出る。向かう途中、蕗の薹が顔出していた。ちなみにフクジュソウも。これらは何か農作業を始める指標になってやしないか…。

 

もう一枚:今度は今朝の様子、西に向かう飛行機、6時31分に日の出。写真は39分。

 


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