二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

”酒家”版、Anarchy in the UK

2016-11-18 21:39:25 | 徒然に想う

山に佇み、対岸の木々の色、足元の植えた野菜たちを眺める。あれ、時々刻々変わってる! 予想だにもしてなかった。見上げりゃ、雲が流れ、陽が射す。足元の川の彩りがグレーからブルーに変わる。そんな頭の上の風の騒めきが、一気に川面まで下り、色付いた木々を鏡のように映してたのに、クシャグシャにぶち壊し、なんだったのか分からなくなる。

発覚した後、亡くなった後、「不適切だった」と釈明す。で、謝罪するだけで責任を果たしたとみなし、根本的に問題を解決しようとする意志など微塵もなく。あるいは、臭いものの蓋、解決しようとする意志は無視され、配置換え。それで、解決、さっ。

政治屋たち、当選するために、手をすり、胡麻をすり。が、いったん当選しちまえば、それまで頭を下げていた人たちはどうでもいい。菓子折りを持ってくる輩に笑顔振り撒く。で、何かあった時、菓子折りの中身はなんであろうとも、その「先生」たちは詳細は知らぬ存ぜず。周りの誰かが責任を負って。でも、そんな貧乏くじも、いずれ「先生」。やめられねぇ。

山のことは、川に。川のことは、海に。海のことは、食卓に。食卓のことは山に。きちんと万象、循環しちゅう。どうあがいたって、ごまかそうたって、うやむやにしようとしたって、結局明白な事実として白日の下にさらされる。そう、やることときたら・・・:

Don't know what I want (てめえの欲しいものは知らねぇけど)

But I know how to get it (手に入れる方法は知ちゅう)

I wanna destroy passer-by(身に降りかかる火の粉なんぞ、さっさとふり払い)

Cause I wanna be anarchy, no dogsbody(だれにも従わねぇ。自然=神のみに、従うぜよ)

 

え? なに? 最後は、No future, no future, no future for you だって? いやいや、なら、どうして川面にきれいな同心円の波紋が広がっては消えるのさ?




今日の一枚:Sex Pistols のオフィシャルサイトの表紙。文中の英語、Anarchy in the UK の一節(約は庵主の御遊び)、God save the Queenの一節。

 


 


今日という一日

2016-11-08 19:48:48 | 徒然に想う

なぜか天気予報が当たる気がして、起きたときから、休日モード。でも、耳を澄ましても雨の音がしない。やばいな、「晴耕雨読」のモットーに反してまう。カレンダーは「根菜の日」か・・・。どうしようと思っていたら、雨が来た。ホッとした。

ご存知のように最近は6時台にならないと明るくならない。不思議なもんで、というか習性なのか、暗いと俄然調べものや勉強をしたくなる。テイツとザイガーの「植物生理学」を開く。何度読み返しても、無機栄養素の欠乏症状はよく見かけるとため息。文旦の秋肥、今年を振り返り何が足らないか。で、何入れよう。加里が足りない、か。レモン栽培の下調べ、品種はなにがいい? などなど。今日も今日とて、気付けば7時台。で、ハッとした。ご飯を炊き忘れた。

レモンの生理を読む。面白い、四季咲き性が強いとある。変な言い方だが、年がら年中、花を咲かす。で、結実する。冬の寒さに若い実は持ちこたえられない場合もあるが、越冬することも。ただ、マイナス3度を切ると樹全体が凍死し始める。篤農家の先進事例を読めば、剪定や草刈りも様々。剪定だって、ほったらかしという人もいれば、しっかり細かくする方も。それに苗を購入すれば、「しあわせみかん山」のワークショップで学ばせていただいたことを試すこともできる。これは楽しいことになる。ニマッとした。

11時に床屋さんに出かけ、さっぱり、気持ちいい! 昼を食べると30分落ちる。起きてボーっとしながら出した結論。直近の課題、ラー油とショウガを何とかする。ショウガ、ガリを作ろう。あれ、砂糖が足りない。ラー油を作ろう。ニンニクがない。街に出たのだから、買って帰れよ。再び街に出かけ、ニンニクと砂糖を構える。あぁ、なんと段取りの悪いことよ。思わず頭をふった。



今日の一枚:完成したガリとラー油。そうね、一週間ほどしてから使いだそう。17時半ころ、居間にて。


新三ものの消化不良

2016-11-06 06:04:33 | 徒然に想う

昨日の夜、3日から6日にかけ宮の前公園で催されているイヴェント「越知 おいしいキャンプ・ウィーク」に行ってきた。パネルディカッションがあって、「越知の魅力を発信しよう(仮称)」ってテーマ。面白そうと、四本畑(集落内の文旦の木が4本あるところ、家から歩いてすぐ)での作業を片付け、出かけていった。

魅力を発信してどうするか。人に来てもらいたい。つまり、移住してもらうにためにどうするかってこと。この町の魅力の一つとして、仁淀川があって、自然が身近にある。それを楽しんでいただくのはどうか、キャンプや今でいうグランピングにつなげる。その拡散手段として、ブログは有効だろう、というわけだ。

今日から秋のお祭りが始まる。10日に神祭があって、貢神社の神様に集落内に移動してもらう。その目印となる「おはけ」を作り立てる。それが今日。以前は個人の家の庭先に立てたそうだ。が、その準備も大変で、今じゃなかなか、そういかない。出れる人が「老人里の家」という集会所(昔は小学校(中学校?))に集まり、そこの庭にしつらえる。で、次の日曜、神様に帰っていただき、「おはけ」を川に流すことで、終わりになる。「おはけ立て」「おはけ下ろし」という行事。これ、残っているところが少ない伝統行事。こういう行事、地域内のことだから、地域内で残していければいい。だが、過疎高齢化の波に抗っていかなければ・・・。残し方として、新しい風を呼ぶ?

まだ消化しきれてないが、移住って考えると結構複雑。今回参加してみて、例えば、期間の長さは様々として「日常の持ち運び先」という立場と、ずっとと考える「存続させるために」という立場が二極としてある。こうも言える、「風の人」と「土の人」だ。「風の人」はいつか居なくなるかもしれない。「土の人」はそこにいる。地域を持続させる、そのためにどうするか。どうするのが効率的なのか。意外に、「灯台下暗し」なんてことかも、しれない。そんなことを思い始めた。集落の人たちはどちらに来てほしいんだろう。



今日の一枚:夜の「仁淀川移動水族館」の様子。パネルディスカッションが終わった7時半過ぎ。魅力的な企画で、その目の前に流れてる川にいる生き物を捕まえて、展示してる。子供たちは、自分のとこの川にこんなにも生き物があいるんだと大喜びだそうだ。企画の意図とは違うかもしれないが、こういったことで子供たちがこの町に残ってくれる切っ掛けにつながらないかと思ってしまう。昼間、見に行けばよかった。




朝の夢

2016-10-28 19:57:53 | 徒然に想う

ニュースを見ていたら、たまには有益なものを伝えるなと感心。同じ時間枠の中、日本のどこぞかの交差点でハロウィーンの大騒ぎが出るからと警備など対策の話し、「そんなこと伝えるから、また人が寄るってくるものを」とため息をつきながらも見続ける。すると、「ダウンジャケットのリサイクル」が取り上げられた。

ファストファッションなどで安いダウンが出回るから、それだけ羽毛の需要が増える。羽毛の手に入れ方はどうでもいい、安く大量であればということになる。だから、現状として、生きたままアヒルなどから毛を毟って、ダウンジャケットの素材として売買されてるそうだ。もちろん、それだけじゃないし、代用品も探られてる。

ファストファッションは助かる。でも、その一方で搾取される立場の人たちが生まれる。うまく言葉にのせられないが、(先日見た)「トゥルー・コスト」のようなドキュメンタリーで提起されてる。じゃ、どうするか。ガンジーのように自分で紡ぐか。そこはこれからの課題、「衣」も自給自足という世界観がある。

使われてきたダウンを回収して、羽毛を取り出し、洗浄し、新しい製品とする、それを再び市場にだす。そういう「リサイクル・ダウンジャッケト」があるんだとか。その手順でどうしても以前よりも値が張ることもあるとか。それでも、買う人はいる。なるほど、衣料の世界では、フェアトレードの世界だけじゃなく、「リサイクル」という「売りっぱなし」じゃない(売った後も責任を負う)姿勢があるんだ、と痛感。どうか、衣料の世界だけじゃなく、他の世界でも広がりますように。それが、しいては、孫の孫たちがこの世界を見つづけてますように、自然が持続してますように。




今日の一枚:昨日の夕暮れ、対岸の山の頂に太陽が沈む。まるでダイヤモンド富士のよう。家の前で、16時頃。


秋祭り ー 昨日のこと

2016-10-17 19:14:40 | 徒然に想う

朝電話が鳴って、今日のお祭りの準備を8時から「老人里の家」(集落の公民館のような所)で始めるとのこと。そのとき、干してる稲を濡らすなよとも。時計を見れば、稲架掛けに雨よけをかける時間がある。山に文旦の野囲いに使ったビニールが残ってることを思いだし、早々に家を出た。

「老人里の家」につくと、しめ飾り用の藁と見本が二本おいてある。まっこと、きれいな見本。これまでも、以前貰った稲わらで練習することがあるのだけれど、綺麗に綯えたためしがない。三々五々人が集まり出し、しめ飾り作り講習会が始まる。お? なに? 使うだって? 練習のつもりで作っていたものを使うと?

最近、映画をなんだかんだと見る。街に映画館はないし、市内(高知市)に出かけるわけでもない。家でゆっくりDVDR・アッテンボロー監督の「ガンジー」。映画上のセリフだが、金言の嵐、こんな調子。「神さえ崇められれば、宗教なんてなんでもいい」。「何をされようと、我々は一切抵抗しない。受け入れてください」。「人間の幸福は物品にはない。幸福は労働と仕事に対する誇りからくる」。そうよ、彼は自分の着る服を作るため糸を紡ぐ。他国で作られたものを買うんじゃない。幸福は物になく、自分のものは自分で何とかする。資本主義を否定はしないだろうが、パラダイムの変化後の世界を予想させてないだろうか。それには、糸を紡ぐ、その技術を受け継いでおくことが要るだろうなぁ。

しめ飾りを作ることもだんだん減っている、既成の縄を使うことが多くなってるとか。手間やその技術の継投が難しくなってると思えば、そうなってくんだろう。幸いなことに、この集落ではまだ教えていただける。「あとは年期ぞ」とのこと。何年経てば、お墨付きが下りるだろう。そうか、それに合わせ、他に埋もれていきそうなものを継がせていただくなり、なくさないよう記録するなりをせにゃ、いかんにゃぁ。



今日の一枚:金毘羅様に向かう途中、振り返るとほぼ浅尾と鎌井田の全景が見れる。鎌井田絶景百選に入れよう。昨日の9時半ころ。


もう一枚:芋がら、皮をむいて天日干しにする。収穫してすぐ剥くより、10日ほどしてからの方が、皮をむきやすかった。


野菜たちの薫陶

2016-10-03 09:46:59 | 徒然に想う

過去を振り返ることを良しとするか悪しきとするかは置いといて、越知に来てからの山での作業を10年日記に書き残している。先月に一年を迎え、去年何をしたかを読んでとれるようになった。比べると面白い。例えば、昨年のこの時期、レタス類、根菜類などなど、かなり種まきを終えている。それに比べ、今年はまだまだ。白ネギ(長ネギ)では、去年の930日に発芽を確認している。が、今年は種を蒔いたばかり。この違いは、怠慢から?

向陽二号という名のニンジンを蒔いた。その袋の裏書きに、発芽適温15~25℃、生育適温18~21℃とあり、播き時・収穫期の暦には8月から9月上旬が適してるある。だから、今までのように、暦に合わせ93日に蒔いた。発芽しているにはしている。播種してから乾燥しないように灌水、雨が降れば過湿にならぬよう灌水を止め管理してきた。だが、一か月たっても、ちょぼちょぼ。発芽の様子が全く面白くない。なぜ? どうして? で、先日雨上がりに温度を測ってみた。すると、種が落ち着いているだろう深さ(地表から数ミリ)のところで24℃。もちろん裏書にある発芽適温じゃなくとも発芽するが、これまでの地温が15~25℃であったりしたろうか。温度が高すぎやしなかったか? そう思い始め発芽している状況を改めて見れば、草の葉の陰になっているところに多く発芽が見られる。それがどれほどの効果か、まだ様子を追いかけていかなきゃならないだろうが、今までは気にも留めてこなかった。

この一年で、沢山の恵みを手にすることが出来た。一方、種を蒔いたが収穫に至らなかったものも数多い。虫たちに取られたり、お世話するタイミングが遅れたり、原因は数多あるだろう。その原因の一つとして、野菜たちは、「あれ、環境を観てた? 単純に『栽培暦』に従ってたんじゃない?」と言いたかった。そう、彼らの立場に立ってじゃなく、人間の都合(他人の説明)ばかり、それではダメよ、ということなんだと思う。だから、早速長ネギの播種を10日ばかり遅くしてみたのだった。しかも、念を入れ「種まきカレンダー」にも従いながら・・・。さて、さて、どうなることでしょう。

 

 

 

今日の一枚:雨、雨、雨。それでも、収穫したゴマ、いい感じに乾燥が進んでる。近寄ると、ゴマの香りがフワーッと。9時半ころ、家の二階で。


農事歴のこと

2016-09-29 09:20:56 | 徒然に想う

あぁ、イライラする。晴耕雨読を標榜すれども、未熟者は、こうも雨がちになると限界に近付いてきた。第一、降るなら降るで終日続けばいい。が、降ったり止んだり、止んだり降ったりの繰り返し。意を決して山に、上がっても向こうの山から雨が近付いてくるのが見えてくる。ひたすらまだ降るなよ降るなよと念じながらの作業、これはしんどい。

だから、といって言い訳をするのだが、巡回やブンタンの摘果、草引きなどは考えない。一つのことだけ、例えばカボチャを定植する、エンドウを定植するなどの一つに集中する。もちろんこれまで定植したブロッコリーなどが草に埋もれているのはわかっている。そこまでやると、雨の中(雨具着てても)ダダ濡れになってしまう、手が回らない。

力を込めてやる料理はないかと思案、朝から奮闘を開始。中力粉を200グラム、塩12グラム、水88グラム。小麦粉と塩を合わせ、ゆっくり水を回していく。こんな水の量でいいのかと思うくらいだが、参考にしたレシピ、ハッキリ分量外の水を入れるなとある。なんでも小麦には親水性があって、時間が経てば全体に回るのだそうだ。この間一時間ほど(一次熟成)とある。今回は色気を出し、乾燥させていたモロヘイヤを粉(18グラム)にし混ぜ込む。で、その分2グラムほど水を加え、今、その一次熟成中。

そうか、なんどか「農事歴」のことを出したことがあるが、何のことか触れないできた。

実は、それによれば、今日は11時から14時まで果菜類の日。それ以外は休耕日とされる。これ幸いに仕事をサボって、いやウドン作りに勤しんでいたわけだ。

この歴、種まきカレンダーといって、R・シュタイナーの考え方に基づいている。つまり、地球上の生き物は太陽、月、惑星などから生み出されるリズムの影響を受けてる。そのリズムに沿って農作業や加工をしようと編まれてる。日本での有機認証のようにEUでのデメーター(バイオダイナミックスに基づいて生産されたものが受けられる)認証を得るには見過ごせないもの。科学的な検証がないと信用ならんと教育を受け育ってきたから、ちょっと危ない香りも感じるだろう。が、技術のない未熟者には、この農事歴を開けば何に重点を置けばいいか明らかになり、作業に集中することが出来る。カボチャやエンドウの定植も従ってる。自分で慰めてるだけといわれてしまえばそれだけだが、従ってみなけりゃわからないと、身を任せてる。これも一つの大科学実験、やってみなけりゃわからない。どれ、一次発酵が終わった。ウドン作り再開だ。





今日の一枚:これから練り足で捏ねコシを出す。ちとモロヘイヤを入れた分、水を加えなきゃいけなかったかも。

 


晴耕雨読の「雨読」

2016-09-25 11:24:27 | 徒然に想う

ブンタンの木を増やす、果樹園の世代交代はどうすんだろうと、調べてた。・・・よくわからない。それ以上にわからないことが多くなってしまった。増やすのは、一般的に(例えば)橘を台木に接ぎ木する。台木をどうやって手に入れる? 自分で何とかするのは無謀なんかな。つまるところ、3年苗木を買うのが早い・・・、らしい。だいたい一本1600円前後なり。

んで、仮に購入したとして、どう育てる? ブンタンの原生地に似た環境がいいんだろう、きっと。原生地、マレー半島からインドネシアにかけて(詳細は未同定らしい)。栽培環境、日光を好むので、日当たり良好な場所。え? マレー半島からインドネシアなら熱帯雨林じゃなかったけ。としたら、日当たりがいい場所なんて・・・。樹高が4~5mくらいなんだから、むしろほかの木々の木陰じゃないんだろか。でも、仁の滝の様子からすると、木陰はすきそうじゃない。枝がビュンビュン太陽に向かうように伸びる。う、う~ん。

そもそも、接ぎ木をしなければならないのは、何故だ。雑木林にしても、草原にしても種が落ちて、芽吹いて、大きくなってゆく。だから、ブンタンだって種からやってもいいじゃないか、と思ってしまう。栽培種ってことなんだろ。目的のために作られたものになっているから、手を貸さなければって、か。晴耕雨読の雨読の午前中、知りたいことが多くなる。



今日の一枚:この集落は雨上がりも素敵だ。11時過ぎ。午後は定植に山いけるかな。


シシのハンバーグ

2016-09-23 20:45:11 | 徒然に想う

やったぜ。シシ肉のハンバーグ、完成。第一作目ということで、肉だけ。一切、香辛料も何も加えぬ。あとは焼くだけ。どんな味になる? 

手回しのミンサーを使う際の注意。解体するとき、挽き肉にするなら、肉をきれいに掃除しておく。筋があればそれだけ、ミンサーから出てこなくなる。今回は一口大になっている物を使った。筋だらけだったので、二度ほどミンサーをバラさなければならなかった。ミンサーをばらしてる間、冷蔵庫に一時的保存など工夫がいるろう。


ムフフ、ムフフフ、ムフフフフフフゥ。焼きあがった。ケモノだから生はいかんろうとじっくり焼いた。途中、アルミフォイルでカバーして蒸したりして。

(ナイフを入れて) ・・・これか、問題は。

今月捌いたシシ肉。前にも言ったように、シシを持ってきてくれたオンチャンは美味しくない、つまり油分が少ないとおっしゃってた。うん、確かに、丸めてても脂が手に残らない。でも、しっかりハンバーグの形になる。


焼いてみた分かった。あ゛あ゛あぁ、パサパサ。長すぎ、焼きすぎ。ナイフを入れたところ、まったく肉汁が出ない。獣だから、生はいかん、し。 え? でも、これ、美味い。

これ、いい。工夫のし合いがある。例えば、焼く時間、ソース。今回塩すら使わないで食べた。そう、これ言っとかんと。ミンチにする時に出た筋の塊。これ捨てちゃいかん。そもそも、捨てるのは、シシに対して失礼。別なお皿に取っておいて、最後に包丁でできるだけ細かくし、ミンサーから出てきたものと合わせて、煉る。歯応えが出ていい食感になった。


ごちそうさまでした。付け合わせは、今年採ったキタアカリ、蒸したもの。いぇい V・・V




今日の一枚:あっ、ちなみに、この第一作、あと二枚あり。お二人様、これを使って、「食」の大科学実験できます。いかがですか? 19時頃。


ササフラスのお茶

2016-09-22 10:01:14 | 徒然に想う

ブンタンの施肥設計を試み、JAに出す注文書を書く。ホッと一息、お茶が飲みたくなった。ひさしぶりにササフラス(サッサフラス、Sassafras)のを入れ、あれやこれや思う。

このお茶、敬愛するポール、ジェラルディン夫妻(後述)から訪ねてた時に教えていただいた。あまりに気に入ったので、味や香りだけじゃなく、自分で作るというところも、行くたんびに持ち帰ってきた。とはいえ、日本酒と同じで空気もまたその味わいであるように、日本で飲むとどこか違って、めったなことじゃ飲まない。数年前の物が依然残ってる。早く飲み切って、採りに行けばいい? そうだけど。でもどうして、今日はササフラスにしたんだろ。ポールが遊びに来たかな。

先日、素敵な言葉をいただいた。「自然界ではすべてが関係し干渉しあっている。だから、お互い様。どの立場に立ってみるかが大切になる」。これ、なにも道徳や宗教の話しじゃない。野菜や果樹を育てる場合の心得、姿勢を示してる。長年求めていた表現。十数年来、長野県八ヶ岳の麓、埼玉県小川町、高知県の窪川と場所を変え、その間、「わら一本の革命」の福岡正信さんの本、タスマニアのWWOOFのホストファミリーのポールとジェラルディンと出会い、「農」と接してきた。考え方も、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。やっと定まり、実現させるためにやっとこの町にたどり着いた。でも、それを表現する言葉が見当たらなかった。まさに目から鱗、「お互い様」というキーワードで表現できるじゃないか。

有機にしても慣行にしても農業に関するセミナー出ると、大概「収入」という「結論」の話しになる。それは我々人間の立場から野菜たち植物を見てるということ。では、「お互い様」の観点に立つとどうなるか。もちろん、収入のことを否定、批判しようとする意図など微塵もないし、この観点に立たなければならないと言うつもりも全くない。間違いなく、個々人のライフステージによって違うし、「農」が生き方の表現手段の一つであると思えば、共用したいと思えども押し付けることほど失礼はあるまい。植物たちから、そこにいる虫たち、鳥たちのベクトルで見たらどうか、と思い圃場にいる日々。でも、現実は、怒り心頭、大きな落胆ばかりなり・・・。

今日は、あったかい飲み物が欲しくなり、部屋にいても長袖で丁度いい。ちょっと前まで、暑さにヒーヒー言ってたのに。このギャップは、なんだ。さてさて、雨も止んだ、止んだようだ。動くことにしますか。このお茶を飲むと、動くより思いにふけってしまう。ここはこのお茶の唯一のマイナス点。



今日の一枚:書き終え、外に出た。ブログ用に一枚と10時ちょっと前。粉糠雨、だった。