子どもの頃,「 中華風ハンバーグ」は私の好物と言うことになっていました。
母が町で総菜を買って帰ると決まって 中華風ハンバーグが出て来たものでした。
「過ぎたるは及ばざるが如し」なんて言葉は知らないし、母に悪いから、
「嬉しい。美味しい」 とはしゃいで食べた思い出があります。
今日はそのハンバーグを見つけ,食べました。母の顔が浮かびました。
母は余り料理が得意ではなかったのか、調理している姿が浮かびません。
母から娘に伝えるレシピなんてものは我が家には、有りません。
だから私は手探りで、我流で、30年以上も,適当にご飯を作り続けてきました。
賄い飯です。
私の尊敬してやまないkinokoさんは 何をやっても、素晴らしく、
器用でセンスにあふれています。
以前ご馳走になったときに、お母様がお料理得意でいらしたのですかと
お聞きしたら、意外な答えが返って来ました。
私は自分の不器用を母のせいに出来なくなりました。
何事もじぶんのせいなのですね。
母が町で総菜を買って帰ると決まって 中華風ハンバーグが出て来たものでした。
「過ぎたるは及ばざるが如し」なんて言葉は知らないし、母に悪いから、
「嬉しい。美味しい」 とはしゃいで食べた思い出があります。
今日はそのハンバーグを見つけ,食べました。母の顔が浮かびました。
母は余り料理が得意ではなかったのか、調理している姿が浮かびません。
母から娘に伝えるレシピなんてものは我が家には、有りません。
だから私は手探りで、我流で、30年以上も,適当にご飯を作り続けてきました。
賄い飯です。
私の尊敬してやまないkinokoさんは 何をやっても、素晴らしく、
器用でセンスにあふれています。
以前ご馳走になったときに、お母様がお料理得意でいらしたのですかと
お聞きしたら、意外な答えが返って来ました。
私は自分の不器用を母のせいに出来なくなりました。
何事もじぶんのせいなのですね。
今の私の暮らし方(と言うより生き方かも)の基本は早世したたった一人の兄の影響かもしれません。
以前お話したように、4人の子を残し父は37歳の若さで癌で亡くなりました。(末っ子の私はその時
まだ7ヶ月の赤子)戦中戦後、母は4人の子達を食べさせるために和裁の内職で徹夜することもしばしばでした。絹物を縫うのに手が荒れるので家事は次
姉や私の仕事でした。長姉は中学を休んで母の仕事を手伝っていたこともありました。
家の中でたった一人の男である兄は(私より5歳上でしたが)、中学生なのに一家の大黒柱でした。
つましい生活の中でも、荒れていた借家の2階の梁が丸見えのところに天井を張ったり、タイル張りの洗面台を作ったり、とても器用で生活の中に潤いをもたらし、暮らしやすくしてくれました。
(中学生がですよ!)
本当は建築家になりたかったのだと思うのですが、当時は「色盲」の人は工学関係には進めませんでした。今は「色盲」なんて言葉誰も使いませんし、そういうハンデのある人の選択肢も広がったと思いますが・・・・。
私が夏休みの工作の宿題を思案していると、醤油壜の蓋(当時はコルクの蓋でした)をためて置いたものにカラフルに色を塗って本立てを作ることを提案してくれました。その本立てを先生から「とてもセンスが良くて、廃物利用で、良く出来てる」と褒められたことを今でも覚えています。
そんな兄の暮らしの中のセンスやなんでも自分の手で作ろうと言う気持ちが、知らず知らずの間に私の中に沁み込んでいたのかも知れません。
今も生きていれば、もっと良い影響ををもらえたかもしれないと・・・・残念に思うこと、しばしばです。
ごめんなさい。勝手な思い出話になってしまいました。でも、こうして大好きだった兄のことを言葉にして残せたことは初めてですので感謝です。
思い出の中で生きているというのは、その人がいつまでも胸の中で生きているという事ですね。なんだかうれしい事です。・・・かつて、『この世で、つらいのは、忘れられる事だ』といった詩人が居ました。愛した人、大切な人は忘れられないものですね。当たり前のようでいてうれしい発見。