遊戯(ゆげ)

世の中は、なるようになるわ。
あきらめないで、悠然と生きる事を楽しむ・・・・
それが遊戯(ゆげ)の心です。

2020/07/11

2020-07-11 | 写真

パソコンを見ていたら、志村けんさんの記事がのって居ました。素敵な内容なので、コピーして添付します。

『志村けんのバカ殿様』より
(withnews)
国民的なコメディアン・志村けんさんの訃報(ふほう)から、約3カ月が経った。

しかし、朝の連続テレビ小説『エール』では俳優として存在感を放っており、いまだに亡くなったとは信じがたい。

同じ思いを抱いているのは、『志村けんのバカ殿様』に出演して以降、数々のコントで共演してきたダチョウ倶楽部の

肥後克広さん(57)、寺門ジモンさん(57)、上島竜兵さん(59)。三人がコントの巨匠と出会ったのは20年以上前だった――。

長い親交の中で感じた志村さんの「喜劇役者のすごさ」「人となり」について語ってもらった。(ライター・鈴木旭)

 

突然決まった『バカ殿』のブッキング
――志村けんさんとの出会いは、プロレスラーの川田利明さんから上島さんに電話があったのがきっかけだったそうですね。

これっていつ頃のお話ですか?

上島:もう20年以上前だよね。というのも、6月19日に放送された『さんまのまんま35周年SP』を見ていて、

志村さんの初登場回が1997年になってたの。あれが正月特番だったから、その前年にはもう知り合ってることになりますね。


――1997年1月に放送の『志村けんのバカ殿様』に初出演されたのは、知り合って間もない時期だったんですか!

すごいスピードで決まったんですね。

上島:川田さんつながりで、何度か飲み会に誘ってもらったんですよ。

そこで志村さんから「お前ら最近コントやってないだろ? 12月(に収録)のバカ殿に呼んでやるよ」とか言われてね。

それが1996年の11月後半から12月の頭。

普通はないんですよ、テレビの世界で1、2週間前とかにブッキングが決まるなんて。

よくある社交辞令だと思ってたから、しばらくしてマネジャーに「『バカ殿』入りました!」って言われた時にはビックリしましたね。

寺門:『バカ殿』の収録をする少し前に、麻布十番で友人と食事をしていたら、

同じお店に師匠(志村さん。以下も単独では同じ)もいらっしゃった。

先に帰られるようだったので、ごあいさつに伺ったら、そこでも「『バカ殿』に出てもらうから」と言っていただいて。

僕らが知らないうちに食事代も払ってくださっていてビックリしました。

肥後:僕らが誘われた当時のレギュラー陣って、芸人だと志村さんのお弟子さん(山崎まさやさん)のいる元ジョーダンズの二人とか

ごく限られていたんですよ。田代(まさし)さんや桑野(信義)さんは元ミュージシャンだし、そこに入れるとは思えなかった。

出演が決まって始めの2、3回、僕ら三人は“殿を襲う忍者”の役で出ることになったんですよね。

 

収録現場を見て「大河ドラマかと思った」
――志村さんの中で、ダチョウ倶楽部さんがしっくりきたんでしょうね。

それまでに出演されてきたコント番組と『バカ殿様』とでは、どんなところが違いましたか?

上島:これはもう三人が同じこと言うと思うけど、つくり方もセットの規模もぜんぜん違う。

最初、大河ドラマかと思ったからね(笑)。

寺門:『バカ殿』ってカメラが10台ぐらいあって全部にカメラマンがいるの(笑)。

僕たちはカメラに向かってやるわけだけど、その時に志村さんが映画監督みたいにモニター眺めてるんですよ。

こっちは「志村さん、笑ってないよ……」って気が気ではなかったですね。

肥後:それまでのコント番組で大事だったのは、キャスト同士の“間”とか、決めとなる“ギャグ”をどうするかっていうところ。

『バカ殿』では、台本のアドリブがどうっていうのは、もう当たり前のこととしてあって。

照明とかカット割りとか、そっちにこだわってるんですよね。

「照明の色は何番で」「まず机をなめてから人物撮ろう」「こっちからフォーカス当てようか」

みたいな会話を延々とスタッフさんとしてる。ホラー映画をすごく見ていて、

「恐怖っていうのを1個ズラすと喜劇になる」みたいなことはよく口にしてましたけど、

本当の映画みたいなつくり方でしたね。

上島:僕らのコントで音響さんが音を出すタイミングを間違えた時があるんだけど、それはもうスタッフさんに怒ってたね。

「コイツらが一生懸命考えたネタで笑いをとろうとしたのになにやってんだ! 打ち合わせしただろ、ちゃんと」ってね。

とはいえ、その後に「じゃ悪いな、もう一回」って言われてもねぇ(笑)。背筋がピーンッとなる現場でしたよ。

 

ビートたけしとの笑いの共通点
――ほとんど映画撮影時のエピソードですね……。

その後、深夜バラエティー『変なおじさんTV』に肥後さんと上島さんがレギュラー出演されています。

志村さんと毎週共演して感じたことがあれば教えてください。

肥後:ネタは自分らで考えて、「じゃこういうパターンで」とかあるんですけど、コントの場合はお芝居に近いというか。

台本に書いてあるキャラクターを演じるわけで、その辺の違いが最初はつかめなかった。

演じるといっても、ドラマではないし。

「医者コント」で医者の役をやるなら、「いくつぐらいで、どんな感じの医者なのか?」みたいな探りを入れながらやるわけです。

その微妙なバランスがすごく難しかったのを覚えてますね。

上島:「電車コント」の時に、電車内の酔っ払いと乗務員がメインだとしたら、

ほかの乗客が絡んでいって変なふうになるのは絶対許さなかった。ドリフも同じで、

志村さんと加藤さんがいきるコントでは、必ずほかの三人が普通の人を演じてる。そのやり方が染みついていたんじゃないかな。

(ビート)たけしさんの『お笑いウルトラクイズ』も、実は似たところがあるんですよ。

たとえば5人でバンジージャンプやって、最後に僕が真っ裸になって飛んでいくって流れがあったとしますよね。

そこで、前の4人が変に目立とうとしたら、たけしさんは激怒します。

実際にご本人から「(たけし)軍団とか、ほかの芸人がお前の“振り”をやってんだからな。

ありがたいと思って、ちゃんとやらなきゃダメだよ」って言われたことあるし。

ネタ振りだったり、チームワークだったり、実は細かい計算があって笑いをとってるんですよね。

 

ゴミ箱に“生ゴミ”が入っている説得力
――対極に見えても、基本を大切にされているのは同じだと。

6月21日に放送の『志村友達 大集合SP』を拝見しましたが、志村さんと肥後さんのコントではアドリブが多かったそうですね。

肥後:ただ、ムチャクチャやるのは、志村さんの中でアドリブではないんですよ。

なんにも考えてないアドリブやると、今度はカメラさんがついてこられなくなっちゃうんで。

どこまでアドリブかって話になると難しいんですけど、志村さんってカメラマンさんとコソコソ打ち合わせする時もありましたね。

要するに、志村さん以外の演者には教えないでコントをやるっていう。

指示を受けたカメラマンさんが、インカムで「オレ、あっち行くから、3(のカメラ)で撮ろうか。

志村さん狙っとけよ」みたいなことをやっていた。それも、ある意味ではアドリブですよね。

寺門:志村さんの番組は、小道具からなにから、すべてのスタッフさんとチームワークが本当に素晴らしかったです。

僕らが入れない世界でしたね。

肥後:コントセットにしても、机の引き出しの中身まで用意されているんです。

ただ、机置いて終わりじゃないんですよ。居酒屋のコントでも、必ずゴミ箱に“生ゴミ”が入っているっていう。

けど、別に使わないし、一切触れない。コントの世界観を出すための“雰囲気”ってだけなんです。

上島:さっき食べたであろうお弁当の残りとかがあるの。女優の倍賞千恵子さんが、

志村さんと一緒にコントやった時に驚いたみたい。

「映画の現場でもこんなことしてないのに」って。

消え物(芸能分野の専門用語で、食品・洗剤などすぐ消耗する小道具を指す)にしても、ほとんど本物が出てくるしね。

肥後:結局、「使う、使わない」は置いといて、全部そろえている説得力ってことでしょうね。

本当にぜいたくなコント。そこまでする番組なんて、ほかにないと思いますよ。

 

舞台のコントでは毎回鳥肌が立っていた
――ダチョウ倶楽部さんは2006年からスタートした舞台『志村魂』のすべての公演(全14回)に出演されています。

志村さんの芸を隣で見てきて、どんなところがすごいと感じましたか?

寺門:舞台裏の志村さんはすごかったです。舞台から下りてくると、やっぱり70歳近いおじいちゃんなんですが、

早替え(即座に衣装を着替えること)して、またコントが始まるって時になると、若手のようにパ〜ッて行って、見違えるぐらい体が動く。その光景はものすごいものがありましたね。

上島:テレビもそうでしたけど、舞台の構成力もすごかった。大爆笑のコントが続いたら、笑いは少ないのを承知でショートコントをポンッとやる。その後にまた爆笑できるコントを持ってきたりとかね。

寺門:最後に変なおじさんをやるんですけど、「変なお〜じさんだから、変なお〜じさん♪」って踊り終わった後に

「だっふんだ!」と声を上げた瞬間、師匠は毎回鳥肌が立ってたんですよ。

笑い声がドッとくるから、アドレナリンが出て体が興奮するのだと思う。

この方は、今まで何千、何万回とコントやってるはずなのに、その瞬間だけには慣れることがないのかなと驚きました。

上島:それで、バーッとものすごい拍手が鳴り響く中で幕が降りる。外国人の方、

体に障がいのある方もよくいらっしゃってましたけど、全員本当に笑って帰っていくんですよ。

ある公演で子どもの体調が悪くなって運ばれたからね。笑い過ぎて息ができなくなっちゃったの。そんな人いないですよね。

肥後:あと、まったく手を抜かないのもすごかったね。志村さんが肺炎で入院して、

公演中止(2016年8月の大阪公演)になった時があるんですけど、その直前でもそうでした。

本当はもうドクターストップだったんですけど、「1回だけやろう」ってムリを押してやったんです。

そんな状態でも一切弱音を吐かないし、上演時間も短くしない。

普段と変わらず声を出して、全力でやり切った。後からご本人に聞いたら、

「ぜんぜん記憶にない」って言ってましたけど、すごい気迫ですよね。

 

「でもいいんだよ、オレたちは喜劇人だから」
――職人を思わせるエピソードですね。喜劇役者というと、現在では小松政夫さん、伊東四朗さんなど、ごく限られています。

志村さんは、そういったご自身の立ち位置みたいなものを意識されていましたか?

上島:はい、それはもう。『M-1グランプリ2003』でフットボールアワーが優勝した時に呼び出されて、

志村さんがいる六本木のお店に向かったんです。そこで「M-1見た? どう思う?」って聞かれたから

「いや面白いですね、テンポもいいしネタもいいし。やっぱ同じことは僕らできないですね」とかって返したんです。

そしたら、志村さんが「そうだよな。すごいよな、アイツら。でもいいんだよ、オレたちは喜劇人だから」と言っていて。

内心それ聞きながら、「いや、僕は芸人なんだけどなぁ……」ってちょっと思っちゃったんだけど(笑)。

少なくとも志村さんは、コメディアンってことを誇りに感じてたんでしょうね。

肥後:喜劇人であり、演出家でありってことだよね。古いたとえで言えば(チャールズ・)チャプリンみたいな。

主役もやって台本も書いて、音楽もつくる。もちろんスタッフさんの協力もあるけど、

志村さんはコントの裏側の細部にまで目を通していた方でした。

寺門:『志村魂』では、松竹新喜劇の演目を必ずやっていましたね。

藤山寛美先生がつくった悲喜劇の世界って、限られた人にしかやれない気がするんですよ。

「あのね、あのね……」っていう、ちょっと変わった人を演じるのにしても、人によってはちょっと不快に感じてしまう。

ただ、志村さんがやると、違和感がないんです。

それってたぶん、バカ殿をやってきたのも大きいというか。

「変なヤツだけど、本当はすごいところが見えてる」っていうのを演じられる唯一の人だったのかなって。

それをご本人もわかっていたんじゃないですかね。

 

「師匠、どうしてもお願いします!」で朝ドラに出演
――現在、志村さんはNHKの朝の連続テレビ小説『エール』に出演されています。

以前、同じNHKの『となりのシムラ』でコントを披露されていましたが、

今年から役者として活動することになったのはその影響もあるんでしょうか?

上島:僕がよく飲みに誘ってもらっていた時は、「役者は嫌だ」って言っていた半面で、

「やっぱり人間って徐々に変わってくる」とも口にしてましたね。

『エール』については、『となりのシムラ』で演出をされていた方とのつながり。

「師匠、どうしてもお願いします!」と言われて受け入れたみたいですね。

寺門:松竹映画(『キネマの神様』)もギリギリまで「やらない」って断っていたと聞きましたよ。

朝ドラと同じように、やっぱり説得されたんですかね?

上島:もう70歳だし、そろそろ別の魅力も見せていったほうがいいんじゃないか、っていう思いはあったんじゃないですか。

人間関係とタイミングじゃないかな。映画は出られなくて本当に残念だったよね。

寺門:『となりのシムラ』も楽しんでたもんね。あれ見た時に「あ〜師匠の違う面の世界が出てきたな」って思ったもの。

肥後:唯一あれがメイクもカツラもなく、素に近い番組でしたよね。

それまでは『志村どうぶつ園』にしても“園長”ってキャラをつくってたから。

上島:『となりのシムラ』を見ると、「あ〜、やっぱり演技力あるなぁ」って思いますよね。

逆に言うと、共演されていた俳優さん、女優さんが緊張したんじゃないかな。

だって、目の前に志村けんがいるわけでしょ?(笑) そりゃコントで認められたいだろうし、ドキドキしたと思いますよ。

 

ダチョウ倶楽部が最後に交わした言葉
――志村さんと最後にお会いしたのはいつですか?

上島:僕は2月22日にやった志村さんの誕生会ですね。その時に「こんなに酒飲むの久々じゃねぇか?」とか言われて、

「いやいや先月飲みましたよ」みたいなやり取りして。その1カ月後くらいでしょ?

まさかこんなことになるとは思わないからビックリしたよね。本当に元気そうだったし。

 

肥後:僕も誕生会は行ったけど、けっこう人数が多くてあいさつもできないくらいなんですよ。

ちゃんと話したのは、『だいじょうぶだぁ』の収録があった2月16日。変なおじさんのコント収録が終わって、

「お疲れ様でした」「じゃまたね」って言ったのが最後のやり取りですね。

寺門:昨年末の『バカ殿』の収録のような気がします。そこで最後にごあいさつしてから、

僕の場合は夏の舞台まで会わないんですよ。

少し間があって、夏の舞台の頃に「よろしくお願いします!」ってところから志村さんとの1年がはじまる。

だから、本当にまだ実感がありませんね。

 


私生活もコント。仕事でもコント。ずっとコントの人
――あまりに突然でしたからね。最後に、天国の志村さんに言ってあげたいこと、思うことがあれば伺えますか?

肥後:志村さんとは、いろんな仕事してきましたけど、舞台を二度とできないのが残念でね。

またやりたかったですね、一座で家族みたいなものだったから。

寺門:先日、加藤(茶)さんに言われたんですよ。「漫才でもタレントでも面白い人はいっぱいいるけど、

コントができて面白い人がいないから、お前ら絶対やり続けてくれ」って

。みんな師匠が亡くなって「偉大な喜劇人だった」とか「おもしろビデオコーナーでYouTubeのひな型をつくった」とか、

過去の功績ばっかりたたえるけど、「スタッフさんとの連携」とか「モノづくりの感覚」っていうのが一番大切だって思う。

やはり「喜劇人のトーン」みたいなものを遺していかないとダメだよね。

僕らに力はないですけど、志村さんがつくり上げてきたコント、協力されてきたスタッフさんとのモノづくりを伝授していきたい。

僕らはグループだし、唯一できるかもしれないから「やっていっていいですか?」って聞いてみたいですね。

上島:すごく笑いにこだわった人だけど、エド・ハーディー(ファッションブランド)もずっと着てたよね。

その前は、エイプ(A BATHING APE)とかベティちゃん(ベティ・ブープ:パラマウント映画から配給されたアニメ映画の少女キャラクター。

志村さんはデニムとの組み合わせを好んでいた)だったしね(笑)。

寺門:一時期、全身エイプだったもんね(笑)。エド・ハーディーもお気に入りで本当によく着ていました。

肥後:またお金持ってるから、全商品ドーンッて買うんだよ。

結局は、若いお姉ちゃんに「わ〜、格好いい!」とか褒められたいってことなんだけどね(笑)。

上島:でも、派手なのが似合ってた。エド・ハーディーのTシャツって、おなかのあたりに

ビーズが刺繍(ししゅう)されてたりするのよ。志村さんがそれ忘れてて、

新しく買った携帯を拭こうとして傷だらけにしてたことあったな(笑)。

「うわっ! 傷だらけになっちゃったよ〜」ってしょんぼりしてね。そういうところも面白い人でしたよ。

肥後:私生活もコント。仕事でもコント。ずっとコントの人でした。

 

上島:ちょっとコロナが落ち着いたら、お別れ会やりたいね。舞台のメンバーとか、

ゆかりのあるタレントさんとかも集まって盛大に飲む。そこで、志村さんから「こんなこと言われたよ」とか

「あたし、こんなことされちゃった」「こんなことしてもらった」とかって、まずはみんなで語り合わないと整理つかないよ。

     ◇

〈ダチョウ倶楽部〉1985年に結成された肥後克広、寺門ジモン、上島竜兵からなるお笑いトリオ。

「ヤー!」「訴えてやる!」「ムッシュムラムラ」といったギャグやモノマネ、パフォーマンスなどで人気を確立。

「聞いてないよォ」で1993年に『流行語大賞』大衆部門で銀賞を獲得。

一躍人気トリオとなった。2002年秋から『志村けんのバカ殿様』の正式レギュラーに抜擢(ばってき)され、

2006年から舞台『志村魂』の全公演に出演。数々のコントで志村けんと共演している。

トリオとしてだけでなく、個々でもバラエティー、映画、ドラマなど、幅広いジャンルで活躍。

2020年10月2日〜14日には、明治座で二部構成の舞台「芸道45周年細川たかし特別公演&ダチョウ倶楽部一座旗揚げ公演」が控えている。

太田プロダクション所属。


取材を終えて
映画監督のように映像・照明・音にこだわり、小道具のリアリティーを追及し、構成を熟考して幅広い客層をわかせる

演出家としての才覚も十分すごいが、舞台上のコントで「毎回鳥肌が立っていた」というエピソードを聞くと、

“演者として笑いをとる快感”が圧倒的に勝っていたのだな、と改めて思い知らされた。

実は、ビートたけしさんとの間に共通点があることも興味深い。

たけしさんは、漫才コンビ・ツービートで世間から注目を集めたが、修

業時代に浅草のストリップ劇場「フランス座」で、コメディアン・深見千三郎師匠からコントの手ほどきを受けている。

志村さんがいかりや長介さんのつくり方を引き継いだように、当時の“笑いの美学”のようなものが体に染みついているのだろう。

志村さんが最後までこだわったのは、コメディアンとして笑わせることだった。

そして、その遺志を、公私ともに長く親交のあった芸人・ダチョウ倶楽部のお三方が引き継いでくれると信じている。

※一部記述を修正しました

ダチョウ倶楽部
ビートたけし
上島竜兵
ギャグ
漫才

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