オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアムの記憶(1/3):プロローグ

2019年01月14日 20時45分50秒 | 歴史
もう一昨年となる2017年の4月29日に投稿した記事「新・ラスベガス半生中継 2017 年GW 初日。」において、ワタシはサンフランシスコ国際空港(SFO)のコンコースにアンティークのスロットマシンの展示が行われていたことに触れ、「帰国後はこれを拙ブログのネタにしよう」と述べていますが、結局今まで手付かずのままでした。大いに反省しつつ、今回やっとそのネタに着手します。

2009年11月17日のこと。この日、ラスベガスに向かっていたワタシは、飛行機の乗り継ぎのためSFOに降り立ちました。

SFOの、ユナイテッド航空の国内線が発着するターミナルに続くコンコースの両脇は、「SFOミュージアム」と称するサンフランシスコにちなんだ文物を展示するミニ博物館となっており、この時は「For Amusement Only」と題して、アンティークスロットマシンの展示が行われていました。


2009年、SFOのユナイテッド航空国内線ターミナルに続くコンコースに設置された、当時の展示テーマ「For Amusement Only」の看板。使用されている写真は、現代リールマシンの始祖とされる「リバティ・ベル (Fey, 1899)」。


この時のコンコース全体の様子。

「For Amusement Only」は、直訳すれば「娯楽専用」ですが、コインマシンゲーム業界においては「賭博に非ず」を意味する決まり文句で、当局による賭博機の取り締まりを回避する呪文として多くのコイン式ゲーム機に掲げられました。しかし、それが単なる建前に過ぎない場合も多かったことは、この展示を見れば明らかです。

実は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、サンフランシスコには多くのスロットマシンメーカーと、スロットマシンのオペレーターがありました。メーカーの一つで、現代リールマシンの始祖とされる「リバティ・ベル (Liberty Bell)」機を開発したチャールズ・フェイの工房の跡地には、現在はカリフォルニア州の史跡として記念碑が建てられています(ワタシのプロフィール写真がそれ)。展示の中には、このようなアメリカのスロットマシンの歴史のブリーフィングにもなっている口上もあったので、今後のために訳しておこうと思います。


今回の展示に関する口上。ごく簡単にではあるが、20世紀のスロットマシンに対する取り締まりやそれに対する業界が行った対処が要約されているので、この機会に訳して残しておく。
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(タイトル) 娯楽専用 機械世代のスロットマシンとその他のギャンブル機

(前文) この、男どもが好んで集まる場所ならどこにでもあった魅惑的な小さな機械のスロットに、5セント硬貨を投入しない者がいるだろうか? それらは町のほとんどすべてのサルーンとタバコショップに設置され、「タイガー」(カードゲーム)がドルを貪るのと同じ速さで5セント硬貨を貪った。   1896年2月2日 サンフランシスコモーニングコール紙

(本文)19世紀から20世紀の変わり目の、サンフランシスコのバーバリーコーストにあるサルーンからやってきたギャンブラーなら、今日のカジノにある現代的なスロットマシンを容易に理解するであろう。いかに新しい素材やテクノロジーが導入されていても、ゲームのコンセプトは100年以上前にサンフランシスコの発明家チャールズ・フェイが開発した初めての自動支払い機能を持つ3リール機から殆ど変化していない。硬貨を投入し、ハンドルが引かれる、またはボタンが押されると、リール(今は仮想リールだが)が回転し、停止して結果が決定する。

ヴィクトリア朝時代のサンフランシスコよりも、オープンかつ大規模にギャンブルが広まったところは世界のどこにもない。町の住人は、西部での新しい人生にすべてを賭けて移住してきた開拓者かその1世代後の者たちが殆どだった。サンフランシスコでは、競馬、スポーツ、カードゲーム、ホイールオブフォーチュン、更には突然始まる議論も含んで、起こりうることはほとんど何でも賭けの対象となった。20世紀の最初の1年目には、300台を超す機械が野放しで稼働し、人通りの多い歩道からは、魅了された客がサンフランシスコに急増していたサルーンやシガーストアに入って行った。

ギャンブル機の人気が高まる間、彼らはまた批評家からの批判も受けることになった。破壊された機械の山の前で市民のリーダーが定期的にハンマーを振り上げる間、社会活動家は家庭を破壊するとして機械を目の敵にした。業界は、ギャンブル防止条例を回避するために、係員によって飲み物やたばこと交換できるバウチャーが貰える「トレード・スティミュレイター(購買促進機)」や、ミント菓子やチューインガムを払出す販売機を作った。また別の機械は、なにがしかの技量を要するフィーチャーを付け加え、そしてそれらには「For Amusement Only (娯楽専用)」と目立つように表示された。

1909年、サンフランシスコの膨大な数のスロットマシンは市全体での禁止を招いた。この法律は2年間にわたって無視され、その結果マシンは州全体で違法とされた。1940年代の終盤には反ギャンブルの心情が一般的な潮流となり、議会が州境を越えてスロットマシンを運ぶことを禁じる法律を可決した時に最高潮に達した。共感する州議会議員はこの勢いに乗って、1州を除くすべての州で保有禁止法を可決した。1960年代にはスロットマシンはネバダ州だけが合法だった。1978年、ニュージャージー州は、州議会がアトランティックシティでの使用を合法としたことで、それらを許可する2番目の州となった。1988年、議会の法律はスロットマシンをアメリカインディアンのカジノでの利用を可能とし、今では28の州で稼働している。

今日のビデオスロットは、依然として人気があり、カジノの堅実な収入源ではあるが、前身であるメカニカルなスロットマシンにあった魅力と創意工夫――回転するドラムリール、コインボウルにコインが払い出される騒々しい音、それにおそらくもっとも重要である職人の創意工夫による多様なバリエーション――に欠けている。この展示は、機械的なギャンブルマシンの技術的及び芸術的革新を示す。単純な時計機構とバーテンダーによる支払いに頼る最も初期の装置から、精巧な彫り込まれた木、鋳鉄、または塗装されたアルミニウム筐体を備えた自動スロットマシンまで - それぞれが、新たなプレイヤーの、コインを投入して運試ししようとする意欲を競っている。

全ての展示品はジョー・ウェルチのサンブルーノアメリカンアンティークミュージアムの好意による。
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これらの展示には解説文が添えられており、その末尾には必ず「Courtesy of Joe Welch's San Bruno American Antique Museum (提供はジョー・ウェルチのサンブルーノ・アメリカンアンティーク博物館)」との一文がありました。帰国後にさっそく調べてみたところ、SFOにほど近い「サンブルーノ」というところで、「ジョー・ウェルチ」という人が、「American Antique Museum」という私設博物館を開いていることがわかりました。

これはいずれ訪問しなくては

ワタシは夢中になって展示を写真に収めたのですが、コンコースの左右の窓から入る外光で逆光になりやすく、またアクリル製の展示ケースへの映り込みが多くてなかなか良い画像が撮れません。苦労しながら200枚近くを撮影しているうちに、気が付けばいつの間にか飛行機の搭乗時刻を過ぎてしまっており、慌てて搭乗口に走ったけれども目的の飛行機は既に出発した後だったというマヌケな失敗を犯したのも、今となっては楽しい想い出です。


展示の様子の一部。(1)世界初の自動払い出し機能を付けたリールマシン、「Leberty Bell (フェイ、1899)」。 (2)リールマシンにフルーツシンボルが導入されたごく初期のころの「Counter OK Vendor (Mills, 1911)」。 (3)リバティ・ベルのようにカウンター上に設置するカウンタートップに対して、床に設置するフロアマシンと呼ばれるタイプの一つ。「Triplet (Caille, 1905)」。 (4)トレード・スティミュレイターの一群。ここにあるのは1927年から1951年の間に作られたもの。小さく軽いので、当局に踏み込まれてもすぐにカウンターから撤去できる。

(次回、「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアムの記憶(2/3):本編」につづく)

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