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幻の「アタミセンター」を求めて(3):「加奈」以前の浜町

2024年02月18日 17時22分31秒 | 歴史

(前回のあらすじ)
「浜町」が現在の銀座町の一部であることを突き止め、Googleマップのストリートビューでその一帯を見て回っていたところ、疑問点はあるものの「アタミセンター」とよく似た看板建築を発見した。調べるとそこは1973年に開業した「加奈」と言う喫茶店だったが、それ以前は別業種の営業が行なわれていたらしい。「加奈」は2016年に店主が急逝して以降営業されていない。

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「加奈」以前を調べているうちに、旧浜町を含む銀座町やその周辺一帯は、かつて「赤線地帯」であったことを知りました。「赤線」とは、営業許可を得ていない私娼による売春が黙認されていた区域のことで、敗戦後の1946年から1958年まで日本各地に存在しました。改めて熱海の旧赤線地帯をGoogleマップのストリートビューで見てみると、そこには「加奈」のように建物の角を面取りした看板建築が多く見られます(看板建築については前回記事の【注】を参照)。

これは赤線で売春を行っていた店舗の主たる業態であった「カフェー【注1】は洋風の建物であるよう行政から要求されていたことによります。他にもタイル貼りの壁や装飾性の高い窓などの共通点を持つこのような建築様式は「カフェー建築」とか「赤線建築」と呼ばれていて、ネット上を検索すると昔のノスタルジックな街並みを愛好する人々によるブログがいくつも見つかります。

Googleマップのストリートビューで拾った、熱海における「赤線建築」の例。上が旧浜町を含む銀座町と渚町で、下が旧糸川町(現中央町の一部)。その後の増改築や修繕、あるいは取り壊し後の新築物件などで、そこがかつて「カフェー」であったことが一目ではわからないものもある。

赤線建築の特徴を持つ「アタミセンター」もかつては「カフェー」だったことに疑いはなさそうですが、しかし赤線が廃止された1958年【注2】が直ちに「アタミセンター」ができた年とは決めつけられません。「アタミセンター」となる以前に別の店が営業していた可能性があるし、逆に赤線廃止以前に売春防止法が施行された時点で早々に見切りをつけて転業している可能性もあるからです。

ならば「カフェー」からアタミセンターまでの過程を追うことで何かわかることは無いかと、熱海の歴史を調べてみました。

熱海は古くより温泉地として、また明治以降は政財界の要人や文豪が好んだ別荘地としても栄えました。終戦直後の1945年には「RAA(占領軍向けの特殊な慰安施設)」を受け入れて国際的な観光保養都市として復興を図りました。RAA自体はたったの7か月で閉鎖されましたが、熱海はその後も関東近辺の占領軍将兵らの遊興地であり、またRAAから放り出された女性従業員は私娼として残り、やがて赤線へと変化していきました。

昭和25年(1950)、後に「熱海大火」と呼ばれる大火災で、赤線地帯だけでなく市の繁華街や中心部を含む14.2万平方メートルが壊滅しました(火元は赤線に隣接する渚町の埋め立て工事事務所だった)。しかし、火災発生の2日後には熱海市で復興計画が練られ、4日後には熱海市長をはじめ熱海市議会議員、静岡県知事らが大挙して上京し国に支援を求めるなど懸命の努力を重ねて、3年後には早くも大火前の水準を凌ぐほどの賑わいを取り戻しました。

赤色で覆われている部分が1950年の熱海大火で焼け野原となった。その中には「浜町」とその周辺の赤線地帯が含まれている。

この素早い復興には赤線も少なからず寄与したであろうことは想像に難くありません。しかし1958年より売春防止法違反の罰則が施行されるようになったため、「カフェー」は通常の飲食店など他業種に転業するか、または完全に撤退することを余儀なくされました。

こうして赤線が消えた熱海でしたが、高度経済成長で日本国民の間にレジャーへの参加の機運が高まる1950年代末には「新婚旅行のメッカ」と呼ばれるようになり、さらに1960年代に入ると企業の団体旅行先としての誘致にも成功して、昭和が終わる1989年までは不動の人気を誇る国内随一の温泉リゾートでした。ワタシは、1960年代から80年代にかけての東京のTVでは熱海の観光ホテルのCMがしょっちゅう流れていたことを覚えています。

熱海の歴史を調べているうちに、「KURUWA.PHOTO 失われゆく色街の残影」というブログに糸川赤線一帯の地図を発見しました。

昭和33年(1958)以前の、カフェーの屋号が記入されている糸川町(現中央町の一部)の地図。画像はブログKURUWA.PHOTOより拝借。

この地図は、何かの地図から旧糸川町の部分を切り取ったもののようです。右上に見える「梅の家」のさらに右、糸川を挟んだ向かいに「加奈」が入る建物があるのですが、地図は糸川で切れており、残念ながらそこに何が描かれているかはわかりません。この地図の全体を是非とも見てみたいと思い、2月上旬にこのブログのコメント欄で質問を投げかけていますが、現時点で回答はまだありません。

赤線はセンシティブな要素を含むためか、核心に迫るずっと手前で情報が途切れてしまうことが多いです。今の時代、インターネットで何でもわかると思っていましたが、甘すぎました。そしてここに至ってついに、最後の手段である「行政機関に問い合わせる」ことを決意しました。

◆現時点で判明している事実年表◆(赤文字は今回追加部分)
1945 RAA第一号設置
1946 RAA閉鎖、多くの私娼が発生し一帯が赤線化する
1950 熱海大火により市の中心部が壊滅する
1953 大火前の賑わいを凌ぐまでに復興する
1958 赤線廃止で赤線の主たる業態だったカフェーが転廃業する
1965 「クレイジー15(こまや)」リリース
1973以前 浜町に空気銃の遊技場あり
1973 空気銃の遊技場が純喫茶「加奈」として開業
2016 「加奈」閉業、現在に至る

(次回、最終回につづく)

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【注1】カフェー
日本における「カフェー」は、明治末期にフランス・パリのカフェを模倣した芸術家たちの社交サロンから始まるが、本場の給仕は男(ギャルソン)だったのに対し、日本では女給が置かれた。大正末期には女給による接待を売り物とする、今のキャバレーに類するものとなり、赤線では「カフェー」を擬して売春を行った。現在の風適法が風俗第一号営業の業態例の一つに挙げている「カフエー」の由来である(風適法第二条第一号「キヤバレー、待合、料理店、カフエーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」)。「カフェー」とは別業態だが似たような目的を持った「ダンスホール」もかつては風俗第四号営業とされていた。

【注2】赤線が廃止された1958年
売春防止法は、その公布が1956年、施行が1957年、さらに違反者への罰則適用が施行されるのが1958年で、赤線は売春防止法が施行された後も罰則が適用されるまでは営業を続けた店が多かった。


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