いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
一来果
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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さて、それでは次なるステップ「一来果(いちらいか)」へ向けてお話を続けていきましょう。
「預流果」までは、何かを切っ掛けとした偶然や説法など、いわゆる「外的要因」によって迎えることも可能でしたが、ここから先は「自力」でしか進めません。
日々の精進(一来向)と瞑想修行が必要になります。(「必要となります」とは言っても、義務でも強制でもありません。ごく自然に、そういう姿勢になっていきます。)
また、「瞑想修行」と聞くとどこか仰々しいですが、あまり難しくは考えないでください。
「ゆっくりと、心をなだめてあげる。」まずは、そのぐらいの気持ちで捉えていただければいいかと思います。
欲や怒り、妄想など、日々自分の心を掻き乱しているあれこれを静め、精神状態がスーっと落ち着いてくると、徐々に思考が明晰になり、智慧(真理を見極める認識力)が現れてくるのを感じることが出来ます。
その心の落ち着きが、ある一定のラインまで静まると、もう一度あの時の「無我(私がいない)」という瞬間が訪れます。
2度目の内的体験。それによって真理に対する確信が、よりいっそう高まります。
「ああ、やっぱり! あの気付きは、間違いでも、勘違いでも、気のせいでもなかった!」
これを「一来果」と言います。
さて、前段階の「預流果」では、「有身見・疑・戒禁取」の3つの煩悩が消えました。
「一来果」を迎えると、どうなるのでしょうか。
「貪欲(欲)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)」の『三毒(三大煩悩)』、それらが弱くなります。
…
…
…
「え?」
…
いえ、ですから、「欲・怒り・無知」が弱まります。
…
「何かの煩悩が消えるのではなく、弱まるだけ?」
…
はい。それだけ…ですが、なにか?
…
「地味…ですね。」
…
ええ。地味ですね。
地味ですが、何かを死に物狂いで追いかけることもなく、誰かや何かに必死にしがみつくこともなく、執拗に怒り続けることもなく、しつこく悲しみ続けることもなく、思考がクリアで何事にも要領よく対応できる様になっているので、以前と比べると、格段に幸せになっています。
自分の「あり方」がハッキリしているので、誰かや何かに流されることも減っていきます。
物事の因果関係を明確に捉えられるようになっていくので、物事がスムーズに進むようになり、強く望まなくとも、希望は自然と叶っていきます。
穏やかに、朗らかでいられるようになります。
煩悩が薄れれば薄れるほど、自由になっていくことを実感しているので、自ずと修行も進みます。
…
「あぁ。そう言われると、なんだか幸せそうでいいですね。」
でしょ?
でも、そうとはいえ、やっぱり「修行段階」であることには間違いありません。
ですから、この段階で死んでしまったとしたら…
「死んでしまったとしたら!?」
もう一度、人間界に生まれてくることが確定します。
「どうしてですか?」
まだ完全に悟っているわけではないですし、この上の段階「不還果(ふげんか)」の様に梵天界へ遊びに行くこともできません。
完全な悟りのために、もう一度「再挑戦」しなければならないんです。
そのためにもう一度だけ輪廻しなければならないのですが、人間界より下の世界は、修行の必要性を感じない愚かな世界ですし、天界は「楽」を感受するだけの世界ですから修行にはなりません。
ですから、その修行のためには、人間界が必要なんです。
もう一度だけ、人間界に来る必要があるので「一来果」と言います。
←地味な作業にご協力お願いします。
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さて、それでは次なるステップ「一来果(いちらいか)」へ向けてお話を続けていきましょう。
「預流果」までは、何かを切っ掛けとした偶然や説法など、いわゆる「外的要因」によって迎えることも可能でしたが、ここから先は「自力」でしか進めません。
日々の精進(一来向)と瞑想修行が必要になります。(「必要となります」とは言っても、義務でも強制でもありません。ごく自然に、そういう姿勢になっていきます。)
また、「瞑想修行」と聞くとどこか仰々しいですが、あまり難しくは考えないでください。
「ゆっくりと、心をなだめてあげる。」まずは、そのぐらいの気持ちで捉えていただければいいかと思います。
欲や怒り、妄想など、日々自分の心を掻き乱しているあれこれを静め、精神状態がスーっと落ち着いてくると、徐々に思考が明晰になり、智慧(真理を見極める認識力)が現れてくるのを感じることが出来ます。
その心の落ち着きが、ある一定のラインまで静まると、もう一度あの時の「無我(私がいない)」という瞬間が訪れます。
2度目の内的体験。それによって真理に対する確信が、よりいっそう高まります。
「ああ、やっぱり! あの気付きは、間違いでも、勘違いでも、気のせいでもなかった!」
これを「一来果」と言います。
さて、前段階の「預流果」では、「有身見・疑・戒禁取」の3つの煩悩が消えました。
「一来果」を迎えると、どうなるのでしょうか。
「貪欲(欲)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)」の『三毒(三大煩悩)』、それらが弱くなります。
…
…
…
「え?」
…
いえ、ですから、「欲・怒り・無知」が弱まります。
…
「何かの煩悩が消えるのではなく、弱まるだけ?」
…
はい。それだけ…ですが、なにか?
…
「地味…ですね。」
…
ええ。地味ですね。
地味ですが、何かを死に物狂いで追いかけることもなく、誰かや何かに必死にしがみつくこともなく、執拗に怒り続けることもなく、しつこく悲しみ続けることもなく、思考がクリアで何事にも要領よく対応できる様になっているので、以前と比べると、格段に幸せになっています。
自分の「あり方」がハッキリしているので、誰かや何かに流されることも減っていきます。
物事の因果関係を明確に捉えられるようになっていくので、物事がスムーズに進むようになり、強く望まなくとも、希望は自然と叶っていきます。
穏やかに、朗らかでいられるようになります。
煩悩が薄れれば薄れるほど、自由になっていくことを実感しているので、自ずと修行も進みます。
…
「あぁ。そう言われると、なんだか幸せそうでいいですね。」
でしょ?
でも、そうとはいえ、やっぱり「修行段階」であることには間違いありません。
ですから、この段階で死んでしまったとしたら…
「死んでしまったとしたら!?」
もう一度、人間界に生まれてくることが確定します。
「どうしてですか?」
まだ完全に悟っているわけではないですし、この上の段階「不還果(ふげんか)」の様に梵天界へ遊びに行くこともできません。
完全な悟りのために、もう一度「再挑戦」しなければならないんです。
そのためにもう一度だけ輪廻しなければならないのですが、人間界より下の世界は、修行の必要性を感じない愚かな世界ですし、天界は「楽」を感受するだけの世界ですから修行にはなりません。
ですから、その修行のためには、人間界が必要なんです。
もう一度だけ、人間界に来る必要があるので「一来果」と言います。
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コメント ( 38 ) | Trackback ( )
« 一来向 | 失敗は成功のもと » |
自然と体現している場合もあるのかな?
実感もします。
もうここでもいいという心地になるけど、
アニメ、漫画で育った私は
極めてみたいという気持もあります。
欲はなくなるわけではなくて弱まるだけなんですね。
納得です。
(つω⊂) いや・・答えんでいい・・
…不要ですか …そうですか(笑)
信じられまっせん。
…亡くなった父は
「生まれ変わるの、めんどくせぇなあ」
と、真顔で申しておりました。
なに考えていたんでしょ、あの人。
(死んだら父チャンにまた会えるのか?)
メタ認知……メタ認知……
ありがとうm(__)m
あります。その様な経験は特に文章を書く時など
心を落ち着かせると自然と言葉が浮かび上がって
書けるようになるのです。 不思議です。
なるほど、その修行ができるのが、人間界だけなんですね。
凄いですね。身体を知り・感情を認識するだけでなく、三毒も弱くさせていく必要を感じました。
生きていることがまさに修行なんですね。ありがとうございました。
なんとなく…ナントナク…
上手く言えないけど…
一人じゃぁ弱めていく事は
出来ないのかも…と
人間界での修行だから
欲(煩悩)を与えられ
生まれ落ちる
成長、学びが進むにしたがって
欲(煩悩)を『感謝』『愛』に変えて
周りに与え(配って)いく…
心底からそうしたくなる…
だから…弱まる…
薄まる…消える??
誰かが、何かがないと
与えられない(配れない)
だからあの人、この人
彼女、彼氏、隣の人
親、子、祖母、祖父…
森羅万象与えてもらえているのかな…
すべて必要互いが互いの為に…
上手く言えないけど…
なんとなく………
せっかく黒斎さんや皆さんにお礼が言えるほどにはなれたのに。
私は
実社会に不適合な人間なのでしょうか
それを治すには
自立するには
(`・ω・´) 身をもって実感してるので、答えはいらないんです!!
(`;ω;´) でも、どうしてもと言うならば答えてくれても良いんだよ!!(どっちやねん)
・ふぁみりーさんへ
僕も袋小路に入ったみたいで、かつて到達したノーマルな性癖がどんなもんだったのかを忘れてしまいました。健全な水着の写真では物足らず、ついついアブノーマルな設定を求めてしまう。
でも、最近ふと思うんですよ。そもそも性癖にノーマルとアブノーマルの境が必要なのかと。そんな些細な事象にこだわるから苦しみが増すのではないか。
もっとフランクに性癖と付き合っていく事が、何より大切だと思うな僕は・・うんうん・・。
(´・ω・`) こんな事が言いたいんじゃないんです・・
実社会に不適合な人間なんていないし、治す必要もないと思いますわ。
ありのままで良いんじゃない♪
やみくもに進んで偶然出られるかもしれないけど、より深い迷宮の奥に入りこむ可能性も高そうです。
歩くのをやめて腰を下ろしてみれば、自分や周りを見る余裕も出来ます。今まであせりで分からなかったかすかな風の流れを見つける事も出来るだろうし、お腹が減ってる事に気付けば食事をとって体力を回復しようと思うでしょう。
まずは、疲れを癒す事を考えてみては?
今ははまた迷っているのかもしれないですが、きっと道は開けると思います。ご無理なさらずにね。
黒斎さんも、ふぁみりーさんの変化によい意味で驚いていたみたいです。きっと大丈夫!応援していますよ
過去上手く行かなかった理由が‥。
自然体。
常に満足感。
流れの中にただいるかのような。
前読んだ時はわからなかった。
次がどうあるか。
続きを知りたい。
可ならば。
相手や誰かを生かす為自分を活かす。
それが一番心地良い考え方だと思います。
私個人の為に皆が生きているのではなく、皆が生きる(皆を生かす)為に自分は生きているそう考えれば楽だと思います。
だから親や兄弟が生きる(を生かす)為に自分を活かす。
友達や夫が生きる(を生かす)為に自分を活かす。
会社や仲間が生きる(を生かす)為に自分を活かす。
そう考えると自分中心の考え方から、世界は相手が生きる(を生かす)為に自分が存在していることに気付いて行けると思います。
だから相手が生きる(を生かす)為に自分を活かして行けるような道に就けることが、いい道だと言えるのでしょう。
今後は私も誰かを生かす為に最大限出来ることを活かしたいと思います。
ならば読者としてはもっと沢山の黒斎さんの愛を見たいと思ってしまいます。
それが重荷になるというのはどういうことなのか良くわかりません。
それは黒斎さんのエゴなのでしょうか?
私達読者のエゴなのでしょうか?
両方のエゴなのでしょうか?
それともエゴとは別のものでしょうか。
良ければ教えて下さい。
あまり期待をしていない懸賞には当たることがあっても、凄く当たって欲しい懸賞には当たったためしがないみたいな感じで。
何故期待すると駄目なのか、何故期待していないものは順調なのか。
夢だって能力だって、望めば望むだけ遠ざかっているような気がします。
執着が何かを知ろうとしている時は全くわからず、あまり執着を意識していない時にわかることもあるのでしょうか?
実際執着が無くなるのは寂しいと思ってしまいました。
執着がある方が感動を沢山出来るし、生きている実感も沸くような気がして。
わからないことを有耶無耶にして手放してしまうよりは、そのわからないことが何だったのか知ってから手放したいとか思いたくなってしまいます。
これもエゴなのかとは思いますが、執着が生き方だと思い込んでいるせいなのでしょうか?
後、カレンダー企画?面白かったです。
どれも使い易そうです。
思いも寄らないカレンダー企画で、ちょっと魂を抜かれた気分になりました。
そこが良かったんだとは思いますが。
そういえば、以前の記事に書いてあったかも知れません。
もう一度読んでみます。
考えている内はいつまで経っても駄目ならば、考えない頭になる必要があるみたいですね。
考えない頭って?それが執着や欲が無い状態??
やはり以前の記事に書いてあったかも知れませんね。
でも考えを手放すのが恐いのかもしれないです。
それがエゴや執着なのかも知れませんね。
何にもわからないから、(考えて)書いてしまう。それで多分自分を落ち着かせているんだろう。
それって悪循環なのでしょうか。
悪循環にハマらない為にも、考えるのを手放せということなのかな?
考えるのも欲や執着なのでしょうかね。
わからないから考えるんだろうし、わかりたいから考える。
わかりたい欲はあった方がいい欲なのか、それとも無くていい欲なのか。
わからないことを肯定したまま考えている内はずっとわからないままかも知れません。
わかっていることに関して悩む人はいないよね。
息していることに関して普通は悩みは生まないし。
どうして息しているんだ?という視点に変わると苦しいかな?
どうしてを外せばいいのかな?
どうして夢が叶わないんだ?から、夢が叶わない。
自分は夢が叶わない状態だ。
だから夢が叶わない。ってそのまんまですね。
スポーツ界のトップアスリートの方々が参考になるのかな。
金メダルを取るって思っていると取れないのですけど、取れた人って「自分は金メダルを取れる」って信じ続けられた人のような気がします。その「取れる」って自信を生む為にずっと練習するわけですが。
そして、辞めるとなったらスパっと辞めますよね?色々考えた上での結論でしょうけども、「取る」「取り続ける」事に執着はしないですよねぇ。
執着は欲であり
信心は精進である
って事なのかな。夢を叶える人も変わらないと思いますよ?夢は叶うとずっと努力し続けた人が叶えられる。夢が叶わないとあきらめた時に夢は終わる。のかな。どうでしょう?努力していますか??あきらめていませんか?「夢は叶う」と信じていますか?
うろ覚えですが、アインシュタインの言葉でしたっけ?99%の努力と1%のひらめきだ!って言葉。それは「あると思います!」
私からは以上です(*^-^*)ノ
実際自分は努力を避けているので、何にも変わらない日々を送っています。
信じることが出来ていないのでしょう。
きっと努力をしてどうなるのかが想像出来ていないみたいです。
やはりまだここの所が良く分かっていないみたいです。
過去記事の望みを叶える方法の場所を読み返してみたところ、イマイチ良く理解する事が出来ませんでした。
欲を目標に変える。
望むのではなく?引き寄せるでしたか。
努力が何なのかが全く良くわかっていません。
生きる事は努力を特別しないでも生きられているし(そういう環境に今はあるので)、息を吸う事や食べる事も努力しないでも出来ていますし。
その蔭には親の努力があったからなのでしょうが。
やはり努力が何なのかがさっぱりわかりません。
だから努力をするのが恐いんだと思います。
だから何も行動出来なくて、状況も何も変わって行けません。
トップアスリートの方々は、確かに幼い頃からそういう状況にある人が多いようですし。
やはり努力の蔭にはその人の背景が見え隠れしているように思えてなりません。
もしかすると、私が努力をしようと思えないのも、夢があっても叶えるために何をすれば良いのかが全くわからないのも、自分の背景の影響が少なからず関わっているのでしょうか。
今の背景と言ったら、何もしないでも生きる事に困ることはない状況にあります。
もしかすると、努力とは無縁の世界に身を置いてしまっているのが原因なのかも知れません。
これはもっと大変な状況に自分を追い込まない限り、何も変わらないし、何かをしたい気力も沸いて来ないと言う裏付けのようなものなのでしょうか??
例えば親の保護から離れ、一人暮らしを始めるとか。
親にお金を入れない限り、家にある水道やガスやトイレや電気等を使えない状況を作り、自分で働く意志(意識)を生まれさせるとか。
食べ物も、親にお金を入れない限り食べないようにする等。
そうすれば自分が働く意味も出て来るし、必要性も出て来れば、夢を叶えてお金をそれで稼いで行けるかも知れない希望も見えてきそうです。
やはり親に何でもして貰っているうちは、堕落しかないみたいですね。
そこから抜け出す考えを持つのはかなり難しかったです。
自分で生きる力、それが私にはなかった。だから夢を叶える必要性もなかったから、努力がなかなか出来なかったみたいです。
やっと気付きました。辛かったです。
愛が最大の罪でもあり・・。
愛は悲しみしか生まず・・。
愛は憎しみを生み・・。
愛は恐怖を作り・・・・・。
愛が最大の毒だということに気付きました・・。
そして地球は愛だと思っていたので・・。
地球はそういうものだったんだと思います。
だから愛を知らない者達がここに集まり・・。
そして愛という毒の中で愛が何かに
気付くのが・・。
ここに生まれた目的みたいですね・・。
漸く気付くことが出来ました。
重かったです。
この世は愛にあふれていることにも気付きました。
愛は罪でもあり恐怖でもあり悲しみでもある。
悲しみの地球は・・青かったんですね・・・・・。
まるで涙のような・・・・・。
愛はもういりません・・・・・。
よってこの世にいる意味も無ければ必要もなくなりました・・。
しかし毒(愛の本当)に気付いたから・・・・・。
毒を緩和させてみようと思います・・。
毒は人が気付くためにあるのならば・・・・・。
毒は必要なのでしょう・・・・・。
だから毒を消すことは無意味・・・・・。
ならば緩和させることがいいのかな・・と思って来ました。
まだ詳しくはわかりませんが・・。
緩和させると人々が気付くのが遅くなるのだろうか・・?
それならばこのままが一番いい姿とでも言うのだろうか・・??
まだまだわかりませんが・・少しずつわかって行きたいと思っています。
悟りだとか愛がなんたらかんたらではなく、思いやりが大事だったことに気付きましたm(__)m
思いやりが無くて私は人間としては生きて来れていなかったみたいです。
黒斎さん動悸や息切れ大丈夫でしょうか…?
携帯からは押せないので後で押そうと思います。
出張頑張って行って来て下さい。(^^)
幸福なんかない、幸せなんか無いことに気付けば、この世はそういうものなんだと気付けば、皆が皆自然に生きる事が出来ると思います。
一時の幸せはあったとしても永遠にそれが続く訳では無い、そこから人は不幸せを感じてしまう。
だから最初からこの世に幸せの形が無いことを知っていれば、無理に幸せを求めず自然な形で生きられて…皆幸せになれるんじゃないかな~と思います。
矛盾??
いやでもそういうものだと思いますよこの世は。
だから例えばこの世が地獄だと仮定した場合、地獄なのだから幸せ何て存在していませんよね?
そこで無い幸せを求めた結果、争いやら憎しみやら憂いやらマイナス的な感情が沢山その人から生まれてしまうことでしょう。
そしてその人は結果として地獄で苦しみ悩みの連続で、生きていることが何て苦しいんだと思うのでしょう。
一時の幸せにたとえ辿り着いたとしても、それは永遠に続く訳ではありません。
そこからまた次の幸せを求めて結果的に地獄の中をただただ苦しみながら進んで生きて行ってしまうのでしょう。
それとは逆にここは地獄だと気付いている人は、むやみやたらに無い幸福や幸せは求めず自然体で常に生きることが出来、悩みや苦しみとは無縁で例えそこが地獄だとしても、本人は苦しむことも悩むことも争うこともなく、自然体で常に生きられるんだと思います。
だからこの世の仕組みを知ることが、もしかすると幸せになれる道とも言うのでしょう。
むやみやたらに無いものを追い求める心が、欲なのかも知れません。
この世には幸福など無い。幸せの形何て無いことに気付かない限り、人は苦しみ悩み争い続けてしまうのでしょう。
今現れている人の形は、無い幸せを無理に求めている結果とも言えると思います。
無い幸せを求めて本当に幸せに辿り着いた人はいるのでしょうか…。
一時的には辿り着けたとしても、それは永遠ではない。
その永遠に幸せであり続けたいと願う気持ちが盲目でもあり現実を受け入れられて無いことでもあり、苦しみを常に生んでしまうことなんだと思います。
それが常に不幸せな結果を生んだり作り出したりするんだと思います。
不幸せにとらわれてしまった心とでも言うのかも知れません。
無い幸せを常に求める結果が不幸せな結果を常に作り出しているのでしょう…。
とりあえず、幸せは無いってことに気付くべきだと思います。
だから無いものは無い、在るものは在るそれが自分や周りを知ることなんだと思います。
そこから生き方を知って行く方法が、もしかすると幸せということかも知れませんね…。
幸せをむやみやたらに求めることは苦しみですが、幸せが無いことに気付いて、何が周りに存在していたかに気付いてそうして己の歩むべき道を知って行ければそれでいいんじゃないかな。
ありのままって、そういう意味なのかも知れませんね。
何が周りに在るのかってなかなか気付いているようで気付いていない場合もあるみたいで。
それはきっと在りもしない幸福の形をただただ苦しみ悩み続けながらも追おうとしている人に多いんじゃないかなと思います。
周りにあるものを受け入れられずにもがき苦しむ人ってさ。
幸せ何て無いってことに気付いて周りに何があるかを、よーく見てみたり感じてみることが大切なんだと思いますよ。
無い幸せを求め続けている場合は盲目何だと思います。
今あるものにちゃんと目を向けられているのか…そこが重要みたいですね。
幸せや幸福の形何かこの世には無い事に気付くのが、幸せになれる唯一の方法なんだと思います。
幸せになりたいと願うのではなく、幸せは無いと気付くべきなのでしょう。
人が常に追い続けているような幸せ何かこの世には無いんだと思います。
それは幸せになりたいから始まって色々な別々な幸せの形を生み出して行きます。
それが煩悩と言われているものかも知れませんね。
無い幸せを求める心が罪や悩みや欲や悲しみや迷いや苦しみ等を沢山生むと言う事なのでしょう…。
だから皆(人々)が求めるような幸せの形なんて無いと気付く事が、唯一の幸せの道だと言えるんだと思いますよ。
この世の幸せとはそこ((目に見えるような)幸せ(の形)は無いと気付く心)にしか存在していないと思います…。
煩悩の減らし方はそこにあるんだと言えるのでしょう。
皆が皆そこの点に気付いた時、もしかするとこの世は地獄から天国へと進化出来ると言えるのでは無いでしょうか…。
刹那的な幸せを理解できている人は幸せなのかな。
この世は対照の世界なので刹那的な幸せと、それ以外の膨大な不幸せがあって、不幸せが在るがゆえに刹那的な幸せが幸せだと思える。
ただ、幸せが常に刹那的だということ(常に変化している為⇒諸行無常)を理解していないと苦しみが増えるんでしょうかね(^^;)そゆこと?
不幸せがそこらじゅうにあるように、気づかない幸せもそこらじゅうにあるのではないかな?と。
空を見上げて晴れていたら幸せって感じられたりとか・・・受け止め方を幸せ方向にスイッチできた人が幸せになれるような気はします(^^;)
楽天的すぎかな?
すごく、おっしゃっていることは分かります。
そうなんです。
今自分の周りに何があるのか気付いて、それを受け入れることが、ありのままに受け入れるってことなんです。
そして、幸せも追い求めるものではありません。
追い求めている限り、幸せにはなれません。
幸せとは、「今幸せであること」に気付くこと、なんです。(「青い鳥」みたいにね)
そういう意味で「幸せ」は一時的なものではないんです。
私にとっての幸せは、「生きていること」そのものです。ですので、生きている限り幸せは去ってはいきません。ずっと幸せです。
その他、朝一番の太陽におはようの挨拶することだったり、天気のいい日にお散歩することだったり。
好きな人に好きって言うことだったり、
おいしいご飯を作ることだったり。
まだまだたくさんありますが、それが自分にとっての幸せです。
私が私である限り、幸せであり続けるんです。
人によって「幸せ」の基準は違います。
何が自分にとっての幸せなのか。
それを考えると、ちょっと見えてくるかもしれません。
逆に追い求めてまで手に入れなければならない「幸せ」って何なんだろう?
それがないと本当に幸せになれないんだろうか?
>それとは逆にここは「地獄」だと気付いている人は、むやみやたらに無い幸福や幸せは求めず自然体で常に生きることが出来、悩みや苦しみとは無縁で、本人は苦しむことも悩むことも争うこともなく、自然体で常に生きられるんだと思います。
↑「地獄」と言うところを「天国」に変えてみてください。その通りだと思うんです。
今ない幸福を求めるのではなく、今ある幸福を感じること。
私達はあまりに当たり前で意識すらしませんが、生きていること自体、奇跡なんです。
そして「不幸せ」と感じることは何か、考えてみてください。
それは「こうじゃなきゃ幸せじゃない」と思うから「不幸せ」と言う概念が出てくるので、
「こうじゃなきゃ幸せじゃない」と言う考えを手放してください。
生きていること、屋根のある場所で眠れること、今日一日のご飯を食べられること、などなど、
全部、当たり前ではないんです。
太陽があり、空があり、大地があり、自然があり、
音楽があり、芸術があり、スポーツがあり…
すべて私達がここで生きるために用意されたものです。
今ある当たり前のものが、もしなかったとしたら。
そう思うと、なんて幸せなんだろう、と思いませんか?
幸せは無いと気付くものではなく、今幸せであることに気付くことなんです。
「これがないと幸せじゃない」
「あの人がいないと幸せじゃない」
「あの人が愛してくれないと幸せになれない」
など、条件がないと幸せになれないものは
本当の幸せではありません。
誰か他の人に、幸せにしてもらうものでもありません。
自分にとって、本当の幸せとは何だろうか。
一度考えてみてくださいね。
長文失礼しました~~
自我(=エゴ)に支配されていると、幸せは一時的なものだ、と思ってしまいます。
なぜなら、エゴは絶対に「足りる」「満足する」ことを知らないからです。
黒斎さんの書いていた「餓鬼道」ですね。
良くあるのが、
始めは、憧れのあの人と会話できるだけで幸せなのになぁ、と思う。
それが叶うと、今度は仲の良い友達になりたいと思う。それも叶うと次は自分を好きになってくれないかなぁ、と思う。めでたく好きになってくれたとしても、もっと愛して欲しい、自分だけを見て欲しいと思う…と言うパターン。
(恥ずかしながら、私もありましたょ!ぐはぁ)
愛情でもお金でも物でも、持っても持っても「足りない」と感じ、もっと手に入れようとする。
今の地球がそうですよね。
本当は、全世界の人たちが暮らしていけるだけのお金と食べ物があるんです。
でも、未だに飢餓や貧困に苦しむ人がいます。
それは今「持っている」人たちがさらに「持とう」としているからなんです。
みんながエゴから離れ、本来の自分に委ねられれば、
本当の意味で幸せになれるし、今ある世界の問題も殆ど解決します。
私達一人ひとりがそれに気付き、まず自分達から煩悩を手放し、身の内から争いや欲望をなくし、本当の自分に戻ること。
その人数が一定数を越すことで、パラダイムシフトを起こすことができます。
世界を平和に変えることができるんです。
この世が地獄なのか、天国なのか。
それは全て、自分がどのように生きるのか、生きたいのか、と言う意図と選択にかかっています。
これってわかり辛いですかね・・・・。
幸せが何かということではなく・・。
幸せがないことが幸せだと思うんです。
今ある幸せに気付く気付かないということより・・。
幸せが無いことに気付くことが本当の意味での幸せだと思うんですよね・・。
難しいですかね・・。
満足したい心って言うのは・・。
続かない永遠の幸せを求める心だと思います。
そんなものは無いのです・・。
そんなありもしないものを求め続ける心が不満足を常に生んでしまうんです。
だから人が求めるような幸せなんか無いということに気付いた時点で・・。
永遠の幸せに気付くというような事です。
矛盾だけれども、そうだと私は思いますよ。
肩の力を抜いて自然に生きられるのは・・。
(見ようとしていた(知ろうとしていた))幸せが無いことに気付いた時だと私は思います。
そのときに今までどれだけ無駄に力が入っていたかに・・きっと気付くんだと思います。
そこからが自然体で生きられる・・。
幸せを求める心から、幸せを見つけようと思う心から、幸せに気付こうと思う心から開放された・・・・・。
つまりは幸せで満足の中に常にいられるということだと私は思っています。
そういう表現方法もあるのかぁ!
『人が求めるような幸せなんか無いということに気付いた時点で、永遠の幸せに気付く』と言うのはちょっと難しかったですが…なんか分かりましたよ!
たぶん、言わんとしていること、意味する所は同じなんだと思うんです。アプローチ方が違うだけで。
幸せをムリに見つけようと、追い求めようとしないで(無いものねだりをしないで)今の状況をありのままに受け入れることで肩の力を抜いて自然体でいられる、と言うことなんですよね。
ただその結果が、
「幸せが無いと気付く」ことが幸せなのか、
「今幸せだと気付く」ことが幸せなのか
と言う幸せの定義の違い、表現が違うってだけなんじゃないかなぁ。(違うかなぁ?)
ふむふむ、なるほど~。切り口が新鮮です!
私が「幸せが無い」と言う言葉に引っかかってしまったんですね。失礼いたしました…
反省…
それらを分かった上で、一つだけ!
なぜ「幸せが無い」と言う言葉に反応したのか、見過ごせなかったのか…訳があるんです~
これは私の解釈なので、そういう意見もあるのね~
ぐらいで聞き流して頂きたいのですが…
私達が自分自身を探求する時、必ず自分の中の根源の存在、内なる神、表現は色々ありますが、
その大いなる存在に触れる時があります。
私も「永遠の愛なんてありえない」「永遠の幸せなんてありえない」と思っていたんですが、
その何の裏も、打算もない純粋な愛そのものに触れると、一発で考え方や物の見方が180度変わってしまいました。もうノックアウトです。号泣です。
この世の中は全て愛でできていて、自分自身も愛そのものなんだ、と分かり、その満ちたりた幸福感の中で、「足りないものなんて何もなかったんだ、私はこのままでいいんだ」と分かりました。
何をするにしても、「全ては一つ」として大きな流れに乗っているんだと言う一体感と安心感。充足感…。
もちろん、日々の雑多な出来事の中で、イライラしたり怒ったり、(ラジバンダリ!…し、失礼しました…うぅ)辛い事があったりしますが、その根底にあるのは常に「幸せ」で、人に拠らず、環境に拠らず、一人きりでも幸せになれます。(←一人きりでニヤつく図はかなりアヤしいです…)
もう何が不幸だったのか、幸せがない状態がどんなものだったか、思い出せないほどなんです。
ですので、「幸せが無い」と聞くと、そんな寂しい事言うなよぉ~!!と、反応してしまった訳でアリマス…
(でもここは『人が求めるような幸せが無い』と言う意味なんですよね。そしてそれに気づくことで『永遠の幸せはある』と言うスタンスなんですよね!)
言葉で表現するのは、中々伝わらなかったり、とてももどかしいですが、面白くもありますね。
人の数だけ解釈があるのも、新鮮です。
Unknownさんの貴重なご意見、興味深く読ませて頂きました! ありがとうございました
その時その時一瞬一瞬がきっと大事で必要なんだと思います。
だから全てが大事で、いらないものやいらない時間や要らない空間なんて無いんだと思います。
それで形の語源を調べてみたところ。井戸と水というヒントを得まして。
そこから、井戸に水を流し込んだ後が形なのかな~と思いました。
それまで水には形は無かったと思います。
無かったのに「井戸」に入れられて「井戸の中」に形を作ったみたいな感じで。
井戸の形になったということだと思います。
井戸が常識やらその人の育った家庭やら環境やらで表すと面白いと思います。
水はそのままその人ということで。
それで「井戸という枠組みにはめられて」この世では個人として成り立って生きているのでは無いだろうかと仮定しました。
黒斎さんの自分は無いということが、いまいち良くわかりませんでしたが、井戸にはめられる前の「水」がこの世に出る前の自分ならば、自分(I)は無いということが何となくわかって来ました。
井戸にはめられるまでの水にはきっと「形」は無いと思いますし。水は水ですし。(水自体に個々は存在していないようにも見受けられますし)
だから愛は形だと思いました。
もしかするとその井戸から脱出した時(際)に、本当の自分の姿に気付けるのかも知れませんね。
井戸という枠組みから逃れた時、本当の自分というものが何かに気付けるのかも知れません。
だから愛(I)は形で、本当は無い(無かった)ものなのかも知れません。
結局はこの世の人は皆元々同じ存在だったということが言いたいのでしょうか??
枠組みとか何にも無ければ、それは元々は一緒の存在だったと。
水が例え井戸にはまってしまおうが何をしようが、井戸に入った水なだけで本当は一緒の水だと。
そこの井戸の環境によっては、汚れてしまう水も現れるでしょうし。
その汚れも環境に左右された結果で、元は一緒ということみたいですね。
この世をそういう目で見れば、何だか澄んだ目で見られそうです。
全ては「井戸という形(環境(枠))」にはめられた結果何だなと。
皆は皆元々は一緒の存在何だな~と。
愛(I)は(が)形ならば、この世に色々な愛の姿が存在しているのが納得がいきます。
「I」と「愛」とを混合し過ぎていました。
本当の愛は形が無い愛なのかも知れません。
だから形の無い愛こそ真実の「愛」なのでしょう。
だから自分や私という枠組みが存在しない愛が、本当の愛みたいですね。
ちょっとまだ良く整理しきれていないです。
枠組み(Iという壁(常識や背景や色々なもの))を越えた存在が愛なのかも知れません…。
自他を意識しない何か。
そういうものが愛と呼ばれている存在なのでしょう…。
だから愛は今見えているものでは無く、今見えないものなのかも知れませんね。
見えない全てが愛だとしたら。
今見えているものは「I」?形の存在する間違った愛…。
ならば見えていないものを信じるべきなのでしょうか…。
ならばその見えていないものとは何か。
これから気付いて行くしか無いみたいです。
見えているものでは無く、見えていないものに心の焦点を当てないとイケないみたいですね。
そこに焦点を当てられるようになれば、アハ体験が出来るのかな。
昨日の続きの今日、「グノーシス派(主義)」という言葉を初めて知った。
何の流れかはわからない。
ただただ何となく、そこにたどり着くこととなっただけに過ぎない。
わからなかったピースが漸く見つかったような、そんな感じがしました…。
今まで思っていた(神とされるものの)疑問点が、これで何故(自分が)疑問としていた(感じていた)かに気付けた気がします。
昔のものが何故全て消え去らなかったのか…、そこに大きな自由という意図が隠されているのかも知れません。
無くならない意志…消えてはならない存在。
それがちゃんと残っていたのでしょう。
それは(が)今必要だったからなのでしょう…。
何故か目が覚めた感じがしています………。
今までは目に見える存在でしかこの世が何なのか知ることが出来なかったが、ちゃんとした意識が眠っていたみたいで、そこからが真実(はじまり)何だと思います。
この世の目的は…眠っていた真理に気付く事だったみたいですね。
眠り過ぎていた気がします。色々と。
これからはちゃんと目をあけて生きて行かなきゃ。
目は見えている目から通じる何か…意識。
闇の夜明けは意識からかな?
この世の本当の意識。
そこからが本当の幕開け。
魂がカラを破り真実に目を向ける時。
そこにはカラと言う支配から免れた明るさだけが存在している世界なのかも知れないです。
真理、明るさ、意識。
という真実に気付くために…今はある(存在している)のかも知れません…。
きっと影は無い世界なのだろう。
そこには真実しか無いのかも知れません。
だからきっと明るいのでしょう。
「煩悩が薄れれば薄れるほど、
自由になっていくことを実感しているので、
自ずと修行も進みます」
この部分が すごーくよくわかるようになってきました。
とっても嬉しいです。
ほんとうに・・
ほんとうに・・・・・
『ありがとうございます』
何度も 何度も 復習して
自分の「いまここ」の立ち位置を
学びたく思います。
黒斎さん
今日の日まで よくぞ ブログを続けてくださいました。
こころから感謝申し上げます。
感謝
合掌 ひとみ拝。
悟りの階梯に関するデータ(?)は、ぼくにとっては自分の体験ぐらいしかないのですが、「一来果」まではかなりの確率で符合しているのでびっくりしています。
「不還果」以降の話はよくわからないのですが…、実はボブさんのお話もピンと来ないことが多いのは、いる場所(段階)がだいぶ違うからなんじゃないか、と思えてきました…。