ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



イエスさまが十字架にかかったのは、人類の罪をあがなうためって、教えてもらったよ。これって、ほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『キリストの幸福論』において、この根源的な質問に対して、まさにそのイエス・キリストの霊が直接、率直に答えられたお言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 ただ、私自身は、うーん、どうでしょうかね。まあ、「人類の罪を贖うために自分自身が十字架に架かったと考えていたか」と問われたならば、率直なところ、「そのようには考えていなかった」と言わざるをえません。
 後世の弟子たちや教会が、どのような議論を立てたかは別といたしまして、私自身は、「インスピレーションの赴くまま、神の命じられるままに行動をなし、そして、御心のままにその身を委ねた結果、私の言葉は、ローマの兵士たち、あるいは、ユダヤの民衆たちをも説得することができず、罪人と共にゴルゴタの丘で十字架に架かった」ということです。
 人間イエスとしての生命は、それで終わっております。
 その重い十字架を背負って丘に登りて、そうして、磔にあったときに、「人類の罪を贖うために自分が死のうとしていたか」といいますと、自分自身は、必ずしも、そのように思っていたとは思いません。むしろ、自らの使命が、その時点では果たし終えていなかったことに対する残念な気持ちが残っていました。
 エルサレム入城については、神よりの使命が下っていたし、予言的には、そこで死するであろうということも伝えられてはおりましたので、「神の言葉であるならば、それは受けねばならん」とは思っておりましたけれども、「なにゆえに、人々を、わが教えに“帰依”させることなく、その前に、十字架にて、この世を去らねばならぬか」ということに関しては、やはり、幾分、残念な気持ちがあったことは否めません。
 さまざまな奇跡を起こしたことが、『聖書』には書かれております。しかし、最期において、あまりにも人間的な死に方をしておりますので、「これの持つ意味が、いったい何であるのか」ということは、その時点の私にもまた、十分には理解できていなかったと思います。
 むしろ、できるだけ、数多くの人々に福音を宣べ伝え、癒やしを与えたけれども、そのことよりも、人々はわが罪を裁く者の勢力のほうに大多数が加勢していき、わが弟子たちもまた、散り散りになっていった。まあ、これは、ある種の教団の壊滅と同時に、わが死が訪れたわけでありますので、そのことに対して、「神の仕組みとして、はたして、これで成功するのかどうか」という気持ちがあったことは否めません。
 「決して、人々の罪を贖うというような気持ちで十字架に上ったわけではなかった」というのが率直な気持ちです。私が十字架に架かったことにおいて、のちの人々が、十字架をキリスト教のシンボルとし、その信仰を広め、伝道をして人々を救済することで、結果的には、「イエスの死は無駄にならなかった」ということを宣べ伝えていたのではないかと考えております。
 だから、「贖罪思想」は、どちらかというと、弟子がつくった思想に近いのかなあというふうに考えてはおりますけれどもね。
(28~31ページ)

イエスさま自身は、率直なところ、「人類の罪を贖うために自分自身が十字架に架かった」とは考えていなかった。

むしろ、自らの使命が、その時点では果たし終えていなかったことに対する残念な気持ちが残っており、その時点では、その意味が十分には理解できていなかった。

だから、「贖罪(しょくざい)思想」は、どちらかというと弟子がつくった思想に近いと考えている――。

慎重に言葉を選んでおられると思います。

でも、考えてみると、いくら救世主であったにしても、イエスさまはこの世に人間として生まれ、生きておられたわけですから、とても納得できるお言葉ではないでしょうか。

そしてこれが真相であったとしても、そのことによって、弟子たちがその教えを命をかけて述べ伝え、キリスト教を世界宗教へと発展させていった、数えきれない貴い努力が否定されるわけではないと私は思っているのです。
 

『キリストの幸福論』

 大川隆法著


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