見返りを求めてたら本当の愛じゃない、っていうような記事がちょっと前にあったけど、なんで、見返りを求めちゃいけないの? って思ってる人、いませんか? ここは大事なところなんで、少し重なるかもしれないけど、もう少し書いてみます。
幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
幸福の科学の本には、「与える愛とは無償の愛の別名である。ただ与えることに意味がある。見返りを求めたときに愛は死ぬ」とよく書いてあります。
この「見返りを求めたときに愛は死ぬ」という言葉は、詩的な言葉というか、言葉自体の響きのために語られているものではありません。これは真実なのです。何かよいことをしたとしても、同じだけの結果、あるいは、それ以上の結果を期待してなされたときには、その行為は必ず帳消しになるのです。
そして、なぜ「見返りを求めるな」と言っているかといえば、与えた愛はその人のものになるからです。これが人間の心を貫く偉大な法則です。生きているうちに、このことだけでも知っておくことが大事です。「与えた愛は、与えた人のものになる」──これが目に見えない世界の法則なのです。
みなさんは偉大な人物についての話を数多く読んでいるでしょう。そうした人びとがなぜ偉大なのかといえば、見返りを求めずに多くのものを与えたからです。その結果、与えたものがその人のものになったのです。
これは、仏光物理学という霊界の物理法則にもとづいて述べると、光がそれだけ増えるということです。
「あの人のために」という純粋な思いや行為においては、その思いや行為を発した瞬間、霊的に見ると、その人の頭に後光(オーラ)がパッとさしています。その後光は、与えられたもの、天上界から投げかけられたものです。自分の目には見えないかもしれませんが、霊的には確かに光が出ているのです。
その証拠に、心から他の人を喜ばせることをしたときには、身体が熱くなるでしょう。相手ばかりでなく自分も温かくなります。真冬であってもポッと温かい気持ちになります。それが実は光が出ていることの証明なのです。
霊視ができると、鏡を見てもその光がはっきり見えます。よいことを思えば、頭のうしろに後光がパッと出ます。他の人びとへの愛の思いに満ちたならば、与えることを考えているのに、むしろ与えられているのです。
これは、仏がなぜ人間を創ったかということと、きわめて深く関係しています。
当会では「人間は仏の子である」と説いていますが、それは仏と同じ本質を内在しているということです。同じ本質とは何でしょうか。仏にはいろいろな要素がありますが、いちばんの要素は「与える愛」です。
したがって、仏の子である人間が、その本来の姿に最も近いのは、愛を与えんとしているときなのです。そのとき、人間は自分を真に仏の子として認識することができ、また、「あなたがたは仏の子なのだ」ということを証明するかのごとく、光が与えられ、パッと輝くのです。
(38~40ページ)
「与えた愛は、与えた人のものになる」──。
でも、これは結果なんであって、これを目的に愛を与えようとしてしまったら、結局、見返りを求めたことになって、その愛は死んでしまうんですね。
頭だけで考えようとするとむずかしいんだけど、以前の映画『永遠の法』に、五次元善人界の住人に、次々にポッと後光が射しているシーンがあったと思います。
たとえば誰かのためにプレゼントを選んでるときというのは、ポッと身体が熱くなって温かくなって、とても幸福な気持ちになる。
これはやってみれば、ほんとに実感ですよね。
幸福の科学の人が、熱心にボランティアをしたり、伝道したりするのは、この有無を言わせない「実感」が、ほんとにあるからだと私は思っているのです。
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『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』
大川隆法著 |
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