信仰の道に入ったら、異性には手を触れちゃいけないの? 異性を経験したら、宗教者として生きていけないの? 結婚してないのに自由に付き合ってたら、堕地獄の罪なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『新・心の探究』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
やはりできれば、現代では、夫婦単位で一つの信仰を持っていく方向に行くのがいいと思うし、あるいは恋人であっても、同一神理を信じている者どうしのお交際(つきあ)いというものは、これはいいのではないか。なるべく同心の者どうしが、共通の人生観をわかち合う者どうしが、苦楽を共にしていくのがいいのではないか。そういうふうに感じるわけです。
したがって性的なものも、もちろん極端な行き方について賛成はできるわけではありませんけれども、極端に潔癖症に陥るのもまた不自由。中道にこそ入るという表現は適切ではありませんけれども、要するに、神理なら神理、人生観なら人生観という一つの目的を共有する者どうしが自分達を解放し、愛し合い、幸福にし、豊かにしていくために、異性との接触を持つこと自体は罪でも悪でもない、こういうふうに思います。要するに、肉体の奴隷となってしまわないことです。また、がんじがらめの堅物にもなってしまわないことです。まあそういうふうに、人間というものは、できるだけいい目的を持ってその達成を促進するという面があるなら、その手段に関しては、合理的と思える範囲で許容していくというのが一つの方向ではないだろうか。(中略)
こういうふうに、ある程度の枠を設けながら、自由にしていくことが現代的にはいいのではないかと思います。
(75~77ページ)
できれば、夫婦単位で一つの信仰を持っていく方向に行くのがよいし、恋人も、同じ信仰を持った者どうしの交際がいいのではないか。
性的なものも、極端な行き方に賛成はできないが、極端な潔癖症もまた不自由なので、要は肉体の奴隷となってしまわないことである。
ある程度の枠を設けながら、自由にしていくことが現代的にはよいのではないか──。
肉体の欲望に溺れてしまわず、逆にがんじがらめの堅物にもなってしまわないこと、ということでしょうか。
最初期のころの御法話なので、大川隆法先生は、できるだけ難しくならないように説いて下さってます。
これを改めて仏教的な言葉で理解し直すならば、要は、異性との関係も両極端ではない「中道」が求められる、ということなんだと思います。
そして、同じ信仰を持った者どうしでつきあい、いずれは夫婦となっていき、人生の苦楽を共にしていくのがよい、という指針を示してくださったのだと私は思っているのです。
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『新・心の探究』
大川隆法著 |
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