行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

性善説か性悪説か

2012年12月11日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
「仏教は、性善説ですか、それとも性悪説ですか。」とよく聞かれます。答えは「どちらでもない」です。物事を善悪など二つに分けて考えるところが現代人の特徴だと思いますが、「どちらともいえない」ことはたくさんあるのです。

白隠禅師も「衆生本来仏なり」と言っているではないかと思われるかもしれませんが、「本来仏である」ことは性善説とは異なります。妥当な表現ではないかもしれませんが、一人の人について「4割は善人で6割は悪人」というような感じで、全くの善人もいないし、極悪人でも何かしらの良いところはあるというのが、仏教の考え方なのです。世の中には悪人と呼ばれる人はたくさんいるわけですが、「いつ、自分が悪人になるかもしれないよ、人ごとと考えずに気をつけなさい」というのが、釈尊の教えなのです。自分の中の悪を自覚して生きること、それが大切なのです。

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絶対に起きること

2012年12月07日 | 禅の心
絶対に、まちがいなく、100パーセント起きることを予言することはできません。
しかし、例外が一つだけあります。
絶対に、まちがいなく、100パーセント自分の身に起きること、それは「いつか自分は死ぬということです。」
しかし、いつかは死ぬ確率が100パーセントだから、生きていることの価値があるのです。春に散る桜、秋に散る紅葉。散っていくからこそ美しいのであり、価値があるのです。いつかは死ぬ存在だからこそ、生きていることの味わいがあるのです。
「はかない存在」に意味がある。それが般若心経の「空」の心なのです。 

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鹿る

2012年12月04日 | 禅の心
澤木興道老師のお話の中に、解脱上人が鹿を殴る話があります。
解脱上人の庭先に鹿が来ました。それを棒で殴るのです。それを見ていた人が、「慈悲の心を説くはずのお坊様がなぜ鹿を殴るのですか」と聞きました。すると上人は、「鹿を甘やかすと、人間に慣れてしまって、人間をあまくみて、人間に近寄って来るようになる。するといつか鹿は殺されてしまうだろう。だからそうなる前に、人間は恐いものだということを教えてやったのだ」と答えました。
これは人間にあてはまることなのかもしれません。わが子を甘やかすことだけが慈悲ではありません。
子供がわがままに育っていけば必ず苦労します。叱るべき時には叱る事が大切だと思うのです。
人間、悪い癖をつけてしまうとなかなか直りません。子供を叱るべき時に叱ることこそ大きな慈悲だと思います。

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