行雲流水

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2010年09月21日 | 禅の心
遇病而後思強之為宝、処乱而後思平之為福、非蚤智也。
倖福而知其為禍之本、貪生而先知其為死之因、其卓見乎。


病(やまい)に遇(お)うて後(のち)に強(きょう)の宝(たから)為(た)るを思(おも)い、乱(らん)に処(お)りて後(のち)に平(へい)の福(さいわい)為(た)るを思(おも)うは、蚤智(そうち)に非(あら)ざるなり。
福(さいわい)を倖(ねが)いて、其(そ)の禍(わざわい)の本(もと)為(た)るを知り、生(せい)を貪(むさぼ)りて先(ま)ず其(そ)の死(し)の因(いん)為(た)るを知るは、それ卓見(たっけん)なり。



病気になってはじめて健康の重要性に気付き、戦争になってはじめて平和の有難さに気付くような人は、先見の明がある人とは言えない。幸福を願いながら、それが不幸の原因となることを知り、長生きを願う事が死の原因であることを悟ることが達観するということだ。


私たちは、失ってみてその有り難さを知るということが多くあるものです。健康を失い病気になって、健康の有り難さを知るものです。戦争になってみて平和の有り難さを知るものです。しかしそれは決して賢い生き方だとは言えません。戦争とはどのように悲惨なものかを常に考えておく必要があります。不幸の時の心構えをしたり、死ぬときの心構えをしておかないと、本当に幸福であるとは言えません。山に行けば、遭難したり転落したりすることを考えておかなればなりません。事業を行えば倒産するときのことを考えておかなければなりません。長生きすることばかり考えていないで、人間はいつか死ぬものだということを頭に入れて生きないと本当に充実した人生は送れません。常に最悪の状態のことを考えておかない人は、人生の達人とは言えないでしょう。
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