行雲流水

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道元禅師の死生観

2016年09月13日 | 禅の心
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
 仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」


生死のことは仏の命であって、真理なのです。これを厭い捨てようとすれば仏の命を捨てることになってしまうのです。また、生死の問題に執着すれば、これもまた仏の命を捨てることになってしまうのです。生死を嫌ったり執着することがなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界にいるのです。身心を投げ出して生死に執着せず、仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれてゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて生死を離れることができ、仏となるのです。
 仏になるのに易しい方法があります。それはもろもろの悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを嫌うことなく、願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、このような人を仏といい、外に仏はないのです。


道元禅師の死生観がよく表されている文章です。生きている間は一生懸命生き、死ぬときはただ仏にお任せする。このことは親鸞聖人の念仏の教えにも通ずるものがあります。釈尊はチュンダの作ったキノコ汁に中ったのが縁で亡くなりましたが、釈尊は命あるものは生まれたから死ぬのだと、チュンダを慰めました。人間は死ぬ存在だからこそ生命に輝きがあるのです。死ぬ存在だからこそ尊い命なのです。


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