野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

立春も過ぎた

2012-02-08 06:31:19 | 
    6日、7日と暖かい日が続き、前の日の朝が気温ー5度だったこともあり温度差で何となくホンワリとした気分になった。

    6日の朝起きると雨が降っていたが、すぐに上がりどんよりとした空模様。
    昼から4時前に野々池ジョギングコースに上がって、いつものようにウォーキングしたものの数分で汗がうっすらと出てきた。
    3月下旬並みと予報では言っていたが、こんなものかな~。

    7日も同様に朝から雨音がしていたので一日中雨かと観念したけど、10時前には上がった。
    庭の花や植木も何んとなく生き生きしてきたように思えたので、雨上がりをデジカメで撮って見た。

    昨年は、2月11日から14日にかけて、この地域では珍しい積雪があって雪だるまがアチコチの玄関脇に積んであったが、
    今年はどうなるだろうか。


                          何時までも咲いている水仙                福寿草の芽が出てきたが、なかなか伸びない



                          ボツボツ膨らんできた紅梅                      オオデマリの蕾             


                         万両の実は食べられず残ったまま                  南天の実も残ったまま



                         玄関横の椿の蕾、開花はマダマダ先のこと              びっしり蕾をつけた姫椿       



 
昨年末に3本のバラを新規購入したが、他のバラも選定と施肥の時期となった 




(昨年2月中旬の庭の積雪)


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パッソ(passo) CMの でんでらりゅうば…って?

2012-02-06 06:40:26 | 故郷
   「長崎春節 - ランタンフェスティバル」


先日に続いて、長崎弁の紹介。
ロケタッチ新聞の長崎編に、「パッソ(passo) CMの でんでらりゅうば…って?仲里依紗が歌う 方言の意味とは」が解説してあったので転載。

『仲里依紗 さんが出演し、いつも話題になるトヨタのパッソ(passo) の 方言CMの最新版が放送開始となり、早くも話題となっています。
 今回は出演する仲里依紗 さんと川口春奈さんの出身地である長崎県に古くから伝わる歌でCMのような手遊びもあるというでんでらりゅうば という歌。


 でんでらりゅうば でてくるばってん……と楽しそうに パッソの運転席で手遊びする仲里依紗 。
 その様子を川口春奈がスマホで写真をパシャリ。
 「とっとーと?」「とっとぉとよ♪」

 長崎弁炸裂の今回も「どんな意味?」と気になる人多し。


 でんでらりゅうば の歌詞と、標準語での意味を以下で解説していきます。

  長崎のうた、「でんでらりゅうば」歌詞とその意味

  でんでらりゅーばー(出て行けるなら)
  でてくるばってん(出ていきますが)
  でんでられーけん(出ようとしても 出られないから)
  でてこんけん(出て行きません)
  こんこられんけん(行こうとしても行けないから)
  こられられんけん(行くことができないから)
  こーんこん(行かない、行かない)


言葉遊び、という感じの「でんでらりゅうば」。

この歌は長崎県銘菓 文明堂のカステラ総本店のローカルCMにも使用されたり
長崎県出身のアーティストさだまさし さんの「がんばらんば」という曲の中にも織り込まれています。
全編にわたり長崎弁で歌われる「がんばらんば」 は、なにを言っているのやら……?
と分からないのですが地元民に言わせると「歌詞がオモシロイ」のだとか。

この他にも福山雅治の地元ライブ 入場曲に使用されたりと長崎を「感じられる」歌として親しまれているようです。

以下よりパッソCMの動画をお楽しみください▼

    いいなCM トヨタ パッソ 仲里依紗 川口春奈 「でんでらりゅば」篇
     』 ・・・・・



で、余計なことだが、補足説明。
「出て行けるのなら出て行くけど、出て行かれないので出て行きません。
行けないので行かないから、行かないよ、行かないよ」・・・という意味だろうと思うのだが。

「とっとーと?」とは、写真を撮ってるんですか?。
「とっとぉとよ♪」とは、写真に撮っていますよ。
「がんばらんば」とは、「きばらんば」と同意語で、頑張ってね~の意味。

文明堂は長崎のカステラ本舗として有名で美味しいのだが、長崎カステラの元祖と呼ばれる長崎市の福砂屋のカステラは更に上等と思っている。
両方とも甲乙付けがたしと言いたいが、あくまで個人的な主観で言うと、ふくよかで、ねっとりとした上質感のある味とザラメが美味しいのは福砂屋。
故郷での引き出物のカステラは福砂屋製がどちらかと言えば多かったような感じだった。・・・これも余計なことだが。
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よか よか

2012-02-04 06:36:44 | 故郷
     
  「島原半島中央にある雲仙温泉街、山裾が日本で二番目に古いパブリックゴルフ場、左端とんがり山が200年ぶり噴火した普賢岳」


「NPO法人 The Good Times」に加入すると、「会員の方のブログリング集 」に掲載してもらえるので時間があれば見ることにしている。「NPO法人 The Good Times」の主意書に説明されていることで、「三木に住む人やカワサキに関係した人たちが多いので、その周辺からスタートしますが、・・・」とあるように、掲載されている会員さんのブログも三木市や二輪関係者のものが多い。

また、主意書には、「異種、異質な組織」が「それぞれの資源や特性」を持ちより・・・・」とあり、異種・異質・多彩なブログがあって興味深いのだが、その中に、九州佐賀・武雄温泉タクシー会社のブログがある。武雄温泉、しかもそこのタクシー会社とNPO法人 The Good Times がどのように結びついているのか、ブログ表題を見ながら気になっていた。

私の生れ故郷は長崎県の島原市、佐賀は隣の県、しかし帰省する度に利用する長崎道やJRでも佐賀は通過するだけ。それでも、鳥栖や嬉野温泉は良く知っていたが、武雄温泉はあまり知らなかった。気にはなっていたものの余り見ることもなかったのだが、先日、開いてみたところ、なんと、懐かしい九州弁に出会った。

「武雄温泉 あるタクシー会社」
 「う~んん・・透明な いかの刺身・・その甘味・・。
  コリ コリ・・・・たまらんばい!!。
  ホク ホク・・・う~んんん この いかしゅうまい・・・良か 良か!!。
  締めに 出てくる いかの天ぷら・・絶品!!。
  これでは ビールもご飯も 追加と追加と すすみます パイ!!。」


イヤ~ 懐かしか!
もう話すことは殆どなくなった九州弁だが、たまに出会うと妙に親近感を感じてしまう。佐賀は観光地博多と長崎の中間に位置し、立ち寄る観光客もどちらかと言えば少ない方だと思っていたが(違っていたらすみません)、タクシー屋さんのブログを拝見したら、上海との航空便も開設されたとのことで、格安海外旅行が今後増加することを思えば、知名度向上を期待したい。

それはそうと、私の知人の佐賀出身者は普段も佐賀弁で話す人が多かった。
そういう知人と付き合ったのかもしれぬが、九州出身者であれば、アー佐賀出身だなと直分かる。佐賀も長崎も昔は同じ肥前国なので同じ言語帯なんだろうけど、現実に話されている言葉とアクセントは少し違う。そして長崎県内でも長崎と島原とは違う。神戸や明石に長く住んでいても神戸と播州との相違点が聞き分けられないが、長崎と島原とは聞き分けられる。

ブログにも登場した、「よか よか」と言うのは、実は色んな意味があり、色々な内容を含んで使われている。

武雄タクシーさんが使用された「よか、よか」と言った意味は「美味しい」と言う事だが、実際、「よか、よか」の意味は「非常に優れている」から「いいよ」とか「マーマーOK」、あるいは「相槌だけ打っとこう」の意味もあるし、また、「ダメだ、ノー」として使う場合もある。つまり、会話の内容次第で如何様にも変化する便利と言えば便利な言葉。使い分けは、アクセントを変えて使うこと事になる。加えて、「よか」の後に、「よかたい」とか「よかよ」と追加すれば更に微妙にニュアンスが異なる表現の使い方になる。

長崎への原爆投下を「しょうがない」と発言した元自民党の久間防衛相は島原半島の南にある加津佐町(雲仙市)の出身だから、聞いていると、九間章生元大臣の話す言葉とアクセントがどちらと言えば島原で一般的に使用されていたように記憶している。彼の「しょうがない」発言は、彼の口癖の『しょうがない』とか『まあいいや』という2つの言葉として使ったものだろうが、辞任理由を九州弁のせいにしたのは頂けなかった。だから、近くの諫早出身福田えりこ議員に選挙で負けた。 

私はもう40年以上も神戸、明石に住んでいるが、聞く人によっては九州弁の訛りが残っていると指摘されたことがある。
本人はそのつもりではないのだが、アクセントは消しようがないのだろう。一度は実験職場で佐賀出身の現場の大先輩から指摘を受けたが、もう一回は谷田部の旧自動車試験場の宿舎だった。谷田部の宿舎では、走行試験が終了し明石に帰宅準備中何気なくしゃべった言葉を聞いていた明石運輸のドライバーから、「九州ですか」と言われ、ビックリとした。初めて会ったドライバーだったが、聞くと、熊本の人吉出身だそうで言葉のアクセントから出身が分かったのだろう。そうだと笑って頷いた。

武雄タクシーさんのブログには、肥前国の大名だった龍造寺隆信の事が書いてあったので追記しておきたい。
龍造寺が薩摩の島津と九州の覇権を争い、島原半島の領有権を巡って戦ったのが天正12年(1584年)、龍造寺隆信は兵5万8000(2万5000の説あり)の大軍を率いて、有馬晴信・島津義久軍8000と島原の沖田畷(おきたなわて)で戦い戦死し、龍造寺軍は敗走した。その供養塔石碑は島原駅から北側方向の畑の中にポツンと建っていて、高校通学時には何時も見ていた。龍造寺軍は佐賀から島原半島の神代(こうじろ)に上陸して三会(みえ)に進出し沖田畷にて戦ったのだが、その三会は私の故郷。

 
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林崎掘割渠記碑

2012-02-02 06:38:22 | 野々池周辺
 冬の林崎掘割周りの風景は中々良いものだ。
 疏水に沿って植えてある木々は完全に葉を落として春を待つだけだが、すぐ傍の椿の花が咲き始めた。
 
 
 明石の鳥羽まちづくり協議会が作成した資料を読んでいたら、大正8年の林崎掘割渠記碑の写真が掲載されていたので、
 現在との対比をしてみようと思い、現在の写真を撮ってきて比較してみた。
 鳥羽まちづくり協議会によると、鳥羽の歴史は「林崎掘割」と「野々池」の歴史だそうだ。

 林崎掘割は明暦3年(1657)10月に起工し、翌万治元年(1658)4月に完成、
 石碑は元文4年(1739)12月建てたとあるので、もう273年近い歴史を過ごしてきた事になる。

 野々池貯水池の竣工が昭和49年5月、今住んでいる街の区画整理は昭和60年頃で、分譲が翌年。

 昭和50年代の野々池貯水池から見える此の地の風景は雑草だらけの荒れ地で小さい溜め池が沢山あって、
 それまで住んでいた明石の和坂から家族でザリガニ釣りに良く来ていた。
 周辺はレンゲ畑も多くあったので、帰りはレンゲの花輪を造って帰ったのだが、
 その頃の荒れ地の雰囲気は大正時代の林崎掘割渠記碑の写真と余り変わっていなかったと思っている。 

 こうして見ると、住んでいる街は神戸市西区ではあるが、西区の中心である西神地区から離れた、所謂西明石文化圏の領域。
 従って明石の野々池コミュニティに参加することも可能で、西区に必要性を感じるのは区役所で書類をもらう時ぐらいか。

 西明石駅に歩いて行ける場所だが、野々池を中心に貴重な歴史ストックをもった田園地帯と言うのが的を得た表現かもしれない。
 山側に車で移動するとすれば、西神を通り越して三木、西脇や多可町となってしまう。 



        
                林崎掘割渠記碑-大正8年(鳥羽まちづくり協議会)


                      
                林崎掘割渠記碑-平成24年2月1日撮影


        
            林崎掘割渠記碑-伊藤 太一:明石の歴史風景を訪ねて―彫画でめぐる旅
                        
「掘割祭」
 
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