野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

よか よか

2012-02-04 06:36:44 | 故郷
     
  「島原半島中央にある雲仙温泉街、山裾が日本で二番目に古いパブリックゴルフ場、左端とんがり山が200年ぶり噴火した普賢岳」


「NPO法人 The Good Times」に加入すると、「会員の方のブログリング集 」に掲載してもらえるので時間があれば見ることにしている。「NPO法人 The Good Times」の主意書に説明されていることで、「三木に住む人やカワサキに関係した人たちが多いので、その周辺からスタートしますが、・・・」とあるように、掲載されている会員さんのブログも三木市や二輪関係者のものが多い。

また、主意書には、「異種、異質な組織」が「それぞれの資源や特性」を持ちより・・・・」とあり、異種・異質・多彩なブログがあって興味深いのだが、その中に、九州佐賀・武雄温泉タクシー会社のブログがある。武雄温泉、しかもそこのタクシー会社とNPO法人 The Good Times がどのように結びついているのか、ブログ表題を見ながら気になっていた。

私の生れ故郷は長崎県の島原市、佐賀は隣の県、しかし帰省する度に利用する長崎道やJRでも佐賀は通過するだけ。それでも、鳥栖や嬉野温泉は良く知っていたが、武雄温泉はあまり知らなかった。気にはなっていたものの余り見ることもなかったのだが、先日、開いてみたところ、なんと、懐かしい九州弁に出会った。

「武雄温泉 あるタクシー会社」
 「う~んん・・透明な いかの刺身・・その甘味・・。
  コリ コリ・・・・たまらんばい!!。
  ホク ホク・・・う~んんん この いかしゅうまい・・・良か 良か!!。
  締めに 出てくる いかの天ぷら・・絶品!!。
  これでは ビールもご飯も 追加と追加と すすみます パイ!!。」


イヤ~ 懐かしか!
もう話すことは殆どなくなった九州弁だが、たまに出会うと妙に親近感を感じてしまう。佐賀は観光地博多と長崎の中間に位置し、立ち寄る観光客もどちらかと言えば少ない方だと思っていたが(違っていたらすみません)、タクシー屋さんのブログを拝見したら、上海との航空便も開設されたとのことで、格安海外旅行が今後増加することを思えば、知名度向上を期待したい。

それはそうと、私の知人の佐賀出身者は普段も佐賀弁で話す人が多かった。
そういう知人と付き合ったのかもしれぬが、九州出身者であれば、アー佐賀出身だなと直分かる。佐賀も長崎も昔は同じ肥前国なので同じ言語帯なんだろうけど、現実に話されている言葉とアクセントは少し違う。そして長崎県内でも長崎と島原とは違う。神戸や明石に長く住んでいても神戸と播州との相違点が聞き分けられないが、長崎と島原とは聞き分けられる。

ブログにも登場した、「よか よか」と言うのは、実は色んな意味があり、色々な内容を含んで使われている。

武雄タクシーさんが使用された「よか、よか」と言った意味は「美味しい」と言う事だが、実際、「よか、よか」の意味は「非常に優れている」から「いいよ」とか「マーマーOK」、あるいは「相槌だけ打っとこう」の意味もあるし、また、「ダメだ、ノー」として使う場合もある。つまり、会話の内容次第で如何様にも変化する便利と言えば便利な言葉。使い分けは、アクセントを変えて使うこと事になる。加えて、「よか」の後に、「よかたい」とか「よかよ」と追加すれば更に微妙にニュアンスが異なる表現の使い方になる。

長崎への原爆投下を「しょうがない」と発言した元自民党の久間防衛相は島原半島の南にある加津佐町(雲仙市)の出身だから、聞いていると、九間章生元大臣の話す言葉とアクセントがどちらと言えば島原で一般的に使用されていたように記憶している。彼の「しょうがない」発言は、彼の口癖の『しょうがない』とか『まあいいや』という2つの言葉として使ったものだろうが、辞任理由を九州弁のせいにしたのは頂けなかった。だから、近くの諫早出身福田えりこ議員に選挙で負けた。 

私はもう40年以上も神戸、明石に住んでいるが、聞く人によっては九州弁の訛りが残っていると指摘されたことがある。
本人はそのつもりではないのだが、アクセントは消しようがないのだろう。一度は実験職場で佐賀出身の現場の大先輩から指摘を受けたが、もう一回は谷田部の旧自動車試験場の宿舎だった。谷田部の宿舎では、走行試験が終了し明石に帰宅準備中何気なくしゃべった言葉を聞いていた明石運輸のドライバーから、「九州ですか」と言われ、ビックリとした。初めて会ったドライバーだったが、聞くと、熊本の人吉出身だそうで言葉のアクセントから出身が分かったのだろう。そうだと笑って頷いた。

武雄タクシーさんのブログには、肥前国の大名だった龍造寺隆信の事が書いてあったので追記しておきたい。
龍造寺が薩摩の島津と九州の覇権を争い、島原半島の領有権を巡って戦ったのが天正12年(1584年)、龍造寺隆信は兵5万8000(2万5000の説あり)の大軍を率いて、有馬晴信・島津義久軍8000と島原の沖田畷(おきたなわて)で戦い戦死し、龍造寺軍は敗走した。その供養塔石碑は島原駅から北側方向の畑の中にポツンと建っていて、高校通学時には何時も見ていた。龍造寺軍は佐賀から島原半島の神代(こうじろ)に上陸して三会(みえ)に進出し沖田畷にて戦ったのだが、その三会は私の故郷。

 
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