6月3日のNHK朝7時のニュースで雲仙・普賢岳で大規模火砕流(NHKのアーカイブ:1991年 雲仙普賢岳の噴火(平成3年)6月3日)が発生してから34年だと放送していた。
雲仙・普賢岳がある島原半島の中心地区島原市は我が故郷である。

「噴火が収まった数年後の島原外港、中央のはげ山が普賢岳、その前の山が233年ほど前の普賢岳爆発で崩れた眉山で、これが「島原大変肥後迷惑」)
当時、放送される普賢岳大噴火の状況を新聞やテレビで見ていた。
山頂近くの屏風岩火口に接した普賢神社は激しい降灰に見舞われ、拝殿は噴石で損傷し、遠足時の弁当場所だった普賢池は死の世界に一変している。火砕流が発生した水無川流域から私の生家は約15㎞程北に離れているので、毎日降る火山灰以外にはさしたる被害はなかったが、翌々年車で帰省時、運転していった乗用車には一夜過ぎると火山灰が積もった。すでに主幹道路は整備されていたので、仁田峠(当時は立入禁止)近くまで車で行き、山頂から有明海まで達した火砕流跡を間近に見た。草一本も見えず赤茶けた溶岩がただ残っているだけだった。
雲仙・普賢岳は小学校や中学校時の遠足場所でもあったので、よく登った。春はミヤマキリシマが咲き誇り、夏は緑豊か、秋は紅葉し、冬は霧氷ができた奇麗な山であった。大噴火発生から20年後、用あって帰省した時の状況は、普賢岳山頂の黒ずんだ溶岩ドームには未だ緑はなかったが、しかし、島原の風景は以前と同じ風景を取り戻し、相変わらずノンビリとした佇まいだった。
生家の近くに新港が造られ、台風が来るたびに波が乗り越えていた石積みの堤防はコンクリート造りの大堤防に変わった。その代わりに、ソフトボールもできた広い砂浜は無くなり、沢山あった黒い砂鉄は何処にも見当たらず、遠浅の海岸でよく採れたマテガイやニシガイも姿を消したようだ。良く食べたタイラガネ(渡りカニ)やガンバ(ふぐ)は高級品となって、とてもじゃないが買えないでいる。直ぐ下の有明海沿岸に沢山あった、有明海苔の養殖クイ数も少なくなり、漁師は昆布やワカメの養殖に変えたと聞いた。
長崎新聞社発行の写真集:右図の普賢神社の御影石で造られた神殿(石室)は灰に埋もれてしまった。 背後の一枚岩は屏風岩と呼ばれ、火口の形成で著しく変貌し、面影は全くなし。


★ 雲仙・普賢岳は233年前にも大噴火が発生し対岸の熊本県沿岸に大津波を起こし、その津波の波動が再度島原に押し寄せ、5000人以上が死亡、「島原大変、肥後迷惑」と言われている。この慰霊碑の一つは生家から歩いて行ける近くにもある。
