「吉田郷土館」、随分と昔に一度だけ見学したことがある。
ここ最近、ブログを書くようになってから近くの名所旧跡等をカメラ持参で回ることが多くなったが、王塚古墳のネット資料調べていると吉田郷土館の名前がでてくる。ここには色んな資料があるかもしれぬと早速行ってみた。旧神明沿いにあり、歩いて行ける時間だから、ウォーキングを兼ねて訪ねた。訪問して分ったが、吉田郷土館には期待する資料らしきものは殆どなく、あえて言えば近郊の都市開発時に見つかった昔の土器類が入口奥に収納してあるだけで、殆どの目的は貸部屋業だった。
「昭和48年頃の王塚古墳」 今では想像すらできないが、昭和48年、古墳の周りは住宅らしきもんは一切なく、草ぼうぼうの田んぼの中に古墳が収まっている。この近辺、明石川流域は、弥生時代からの遺跡が散在していたようだが、今は見るか影もなく住宅地に変貌した。たまたま居あわせた、館長さんに聞くと、「枝吉城」を見ていったらどうかと言うので、何処にあるのか聞くと吉田郷土館の直ぐ裏山がそうだと言う。「枝吉城」の名前ぐらいは聞いたことがあるものの、城跡らしき雰囲気をもった場所にはとても見えないので今まで気にも留めていなかった。館長さん曰く「枝吉城は、戦国騒乱の時代の幕開け時、明石氏によって築かれた城で、最後の城主は高山右近。高山右近が船上城を新たに築き移った事により廃城となった」明石と言う名は枝吉城主の明石氏から取ったのかと聞くと違うらしい。明石市の明石は昔海にあった赤石から取った名前だそうだ。高山右近なら知っている。信仰を守るべくフィリッピンに移り住んだことで有名なキリシタン大名。で、早速裏山に登ってみた。なんの変哲もない小高い裏山だが、郷士館横から「枝吉城跡へ」の標識に沿って、落葉が積り滑り易い急な石段を気をつけながら登った。ほんの数分も掛からず登りきるが、其の頂部には「播磨吉田遺跡」と「枝吉城址」の顕彰碑が建立されており、遺跡保存とは程遠く、ただ平坦に整地された台地だけの公園。ここに「枝吉城」の本丸跡があったらしいが、想像するに、あまりにも小さく合戦時はどうして城を守るのか変な想像をしてしまう。枝吉城を本居城として近隣の支城を築き一族を配置し、居館(郷士館付近)を中心に城下町が形成されたそうだが、現在では想像するのが難しいほど、山は切り取られ回り一面は宅地に変貌した。しかし、頂部に登ると当時とは比ぶべきも無いほど狭い本丸だが、喧騒とした主幹道路や住宅地の中でひっそりと当時の雰囲気だけは想像できる。
「吉田郷土館パンフレット」
右側の茶色屋根が吉田郷土館、その裏の小高い丘が枝吉城本丸跡地、左が枝吉城跡地にある神本神社
郷土館横にある「枝吉城址」の絵図とその頂部にある「播磨吉田遺跡」と「枝吉城址」の顕彰碑位置
左が「枝吉城址」の顕彰碑、右が播磨吉田遺跡」の顕彰碑