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野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

「ローグワン」を見に行く

2017-01-06 06:43:07 | 映画
今年のスターウォーズ、昨年同様に今年も満席かと懸念し、ネット予約すべくワーナーマイカル明石のHPを覗くと、
なんと、数人しか予約していない。しかも上映時間が午後4:50からと出た。何となく不審に思って、予約するのを一日待った。
翌日、HPを覗くも予約数は変わらず、人気まるでなし。どうしようかと思ったが、一人暇なので昼前予約を入れた。
「ローグワン」の予告編を見たとき、今迄のスターウォーズⅠ、Ⅱ、Ⅲのインパクトの強烈さが頭に残っているだけに、
今一つ、強烈なインパクトもなかったが、まーええかと映画館に入ると、1/5ぐらいの入りで、前の方はがら空き。

そんな印象を始めに持っただけに期待感なしで見始める。
女性が主人公だと、どうしても迫力不足の出だし。しかも、スターウォーズのテーマと共に始まるオープニングロールが流れない。
え、この映画はスターウォーズと違うのか思いながらも、映画はいきなり宇宙空間から始まる。
映画の殆どが宇宙空間での戦闘シーンで、場面の移りが早い上に、星の名前の関連がピンと来ぬまま、前後の繋がりを十分に理解できず、
じっとを目を凝らしたままに見ていくだけ。ジェダイもライトセイバーも出て来ず、ヤンヤの喝采もないままの戦闘シーンが延々と続く。
この宇宙戦闘シーンを見ながらふと思ったが、太平洋戦争時、アメリカ人が嫌っていた「自己犠牲」の思想は、アメリカ人も基本的には
理解しているんだと感じられる場面があった。それでも、ジェダイやライトセイバーで切り崩すシーンが出てこないのは物足りない。
そうした中で抜けて素晴らしいと思えた登場人物は「チアルート・イムウェ」。
  
東洋系の人物で、盲目の僧侶(のように見える)。その動きたるや滑らかで確かな攻撃力を持っている。敵を次から次へと打ち倒す姿は、
まるでジェダイのようだがジェダイがもつライトセイバーを持たない。戦う前にフォースを信じて戦う姿は「ローグワン」の場面で
最も喝采を浴びる場面で素晴らしく感じた。この「チアルート・イムウェ」が縦横無尽に暴れまわるからこそ、「ローグワン」が
スターウォーズの番外編らしいと感じる場面でもあったなーと感じた。

敵の陣地に侵入してやっと手に入れたデス・スター設計図の電子情報をレイヤ姫が受信する場面で終わり。
何が何だか満足に理解できぬまま、なんとなくそうだろうと思いながら見てしまったが、最後近くの場面では「ダースベイダー」が現れ
ライトセイバーで反乱軍を切り刻んでいく。最後頃になってやっと、ダースベイダーが活躍する場面はスターウォーズらしくなる。
観客の少なさに加え遅い上映時間に期待してはいなかったが、終わって見れば結構楽しかった。




本場のゴジラ

2016-08-19 06:14:21 | 映画
    「ゴジラを攻撃するAH-64D アパッチ・ロングボウ」
一昨年(2014年)のハリウッド版「ゴジラ」に比べれば現実的で親近感もあり、迫力のすごさを加わって、やはり日本本場の「ゴジラ」の方が断然面白い。しかし、この映画の半分以上は理解するのが困難だった。と言うのは、セリフが断片的で情報量が多い上に、官僚役が早口でしゃべるので何を言っている大半は理解できず、役者の動きでその流れを後から付いていくだけで、正直大変疲れる映画だった。専門用語らしいセリフを鉄砲みたいに早口でしゃべられても、予備知識が全くない当方観客にとって、見ていて大変落ち着かない映画だったと言うのが結論。

しかも、出だしは正直がっかりした。川下からたくさんの船が津波によって怒涛の如く打ち上るシーンは、かっての東日本大震災に見た画像と一緒で現実味があるが、その原因となったのは大きな芋虫(手足のついたまん丸目玉の芋虫)で、この芋虫が最初現れたときは、これは何だ、これが成長してゴジラに戦うのか思った。でも、これがゴジラの幼い時の姿だったと後からわかった時、正直がっかりで萎えてしまった。

一方、一番素晴らしく納得した場面は日本の自衛隊の組織力と行動力。果敢にもゴジラに向かっていく姿に、仕事ですからと答える。
ゴジラを退治すべく、陸・空自衛隊が動員され、陸上自衛隊が保有するヘリコプターが次々に登場し、しかもそのヘリの名前が字幕に書いてある。ヘリの名前を字幕に書くくらいなら、そのヘリの戦闘能力を書かないと、どれほど強いのか分からず登場させても意味がない。戦闘ヘリAH1やカワサキ製の観測ヘリOH1の登場にはやんやの喝采だが、なんで、最初から世界最強の戦闘ヘリAH64Dアパッチロングボウで攻撃しないかと不思議に思った。アパッチの攻撃でも倒すことができず、次は陸自の10式戦車、最後はF2(だったか?)戦闘機からミサイル攻撃するも、その火力をゴジラは吸収するので手に負えない。米軍のB2攻撃でやっとゴジラに傷を負わせることできたが、これも致命傷にならない。とうとう最後は核攻撃するしかないと米軍を含む国連安保理事会は結論づける。しかし一方、東京を核攻撃されたら大事なので、その前にゴジラを退治させようと言う戦術がゴジラの血液凝固作戦。ゴジラの口から福島でも登場したキリンを使って凝固剤を注入する。これが成功し東京は核攻撃から免れる。それはそれでいいんだが、やっぱり頼りになるは自衛隊と言う実行部隊の組織力と素早い動きだった。官邸や役所が法律論から一歩も出ることできない中で、実力を保持する部隊の活動に最後は頼らざるを得ない。最後に日本を守るのは自衛隊しかないと感じられる場面。
 
  「異様な胸の膨らみと赤い発光の肌。生物の成立ちには必然性があるはずだから何か意味がある?」
それにしても、ゴジラはなんで全身赤みを帯びているのかよくわからなかった。ところが、その原因を類推しているブログもあって、それによると、ゴジラの胸の膨らみには原子力炉心があり、その炉心の核分裂で得たエネルギーを口からと言わず、しっぽから、加えて背びれからも熱放射線が放射されているとの説明。それを映画の中では理解するのはとてもじゃないが無理で、ゴジラは核融合を繰り返しながら成長し続けているのはおぼろげにわかるも、胸の膨らみに炉心があるなんて後から説明を受けないと到底無理でわからない。

何より面白かったのはゴジラのような想定外の物事が起こったときの政府の対応。東日本大震災による津波到達の後、福島原発事故に慌てる時の民主党政権。自衛隊ヘリを出動させて上空から針の穴を狙って海水をまく作業やキリンの到着。政府と東電の対応そのままを映画に移植されている。福島原発事故時の動きは今だ鮮明に記憶しているので、その記憶にある我々世代がこの映画を見ると、緊急事態発生時の政府の動きの全体像を理解できるので面白さが倍増するが、ゴジラ大好きな小中学生には到底無理ではないだろうか。でも、最後には縦割り政庁のしらがみを捨てゴジラと対峙する役人や民間企業の姿、挙国一致の日本は、米国主導の国連が決した東京への原子爆弾投下を拒否し、日本の科学技術は勝利した、と思われる。


「スター・ウォーズ」を見に行く

2016-01-06 06:19:32 | 映画
  
今回も満席。2日前に座席を予約した際はまだいけると思ったが、ワーナーマイカルで入場待ちしているとチケット完売と表示が出た。
そんなに映画を見るわけではないので満席の映画館には今までほど遠かく、今回二度目の満席映画館で、「スターウォーズ、フォースの覚醒」を見た。
予告編を見たとき、スターウォーズⅠ、Ⅱ、Ⅲのインパクトの強烈さが頭に残っているだけに、どうなんだろうとまず疑問が沸く。映画の印象もあまりにも駄作すぎて観客が絶望しているとか、見なきゃよかったとかのネット評があるので、ますますどうなんだろうと思っていた。そんなインパクト大の前作三部作でさえ同じ映画館で観たときは満席ではなかったのに、それが「スターウォーズ、フォースの覚醒」が映画館を満席にしている。ちなみに今回も孫と同伴なので日本語の吹替版となったが、子供も多いが大人は更に多い。

    「赤いライトセーバーを持つ悪役カイロ・レン」
前作のスターウォーズは空戦の圧倒的迫力に加え、ライトセーバーで戦うジェダイマスターと悪役ジェダイとの壮烈な戦いと言う壮大な場面があり、圧倒的強さをもった戦士が縦横無尽に暴れ、やんやの喝さいを浴びた。ところが今回は違って、白人女性レイと黒人男性フィンのコンビが主役を張っている。金属屑を拾ってその日暮らしをしている白人女性と、戦う事に疑問を抱き悪役組織から逃げ出した序列で言うと下位クラスの黒人男性フィンが主役だから、前回同様の壮烈なアクション映画を期待した我々には拍子抜けするものだった。主役の二人にハン・ソロやチューバッカ、レイアといったお馴染みが補佐する。良くも悪くもワクワク感はあるけれど、期待以上のものではなかった。一番のがっかりはダークサイド悪役達が弱過ぎ。今まではフォースのダークサイドを行使する者はジェダイより強い力を持っていると思っていたが、これは勘違いでダークサイドのジェダイの力が落ちている。
   
新型の赤色ライトセーバーを持つカイロ・レンは任務を失敗して悪役の親分に叱られ役目から外される。べそをかきながら言い訳する場面など情けない。カイロ・レンの父親ハン・ソロに説得されながら悩む姿をみると更生するのかと思った途端、ライトセーバーでハン・ソロを刺し殺す場面は、さすが悪役ジェダイだと期待したが、次はライトセーバーなど扱った事もない(素質はあるように描かれていたが)素人女性のレイに負けて殺されてしまうなど拍子抜け。

なんだかんだと物足りなさもあったが、時間はあっと言う間に過ぎた。
最後の、レイがライトセーバーを年取ったルーク・スカイウォーカーに差し出す場面、ルーク・スカイウォーカーが頼りなさそうに見えた。
大丈夫だろうか。









 
 

 

満席の「妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語」

2015-12-23 07:59:35 | 映画
   「妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語」
孫とワーナーマイカル明石へ「妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語」を見に行った。
日曜日だったので、多分かなり混むだろうと3日ほど前にパソコン予約してみると、既に中央及びその周辺の席は詰まっている。空席はその周りだけ。
Eチケット予約を度々利用するが、こんなに空席が少ないのは初めてだ。それでも何とか希望に近い席が予約できた。
で、日曜日の朝、パソコンで再確認すると空席は殆どなし。HPをみても、混雑が予想されるとある。映画館に行って更にビックリ。
入場のために並んでいると、受付の上方に入場時間が書いてあるが、ゲートオープンの10分ほど前にチケット完売とでた。
そんなにしょっちゅう映画にいくわけでもなく、行っても観客は精々20~30人程度。それが満席の映画館など、そちらを期待してしまった。

だいぶ前から行こうと誘われていたのだが、孫と二人で映画に行くのは、「ヒックとドラゴン」「豆腐小僧」以来だからブログで確認すると4年ぶり。
「ヒックとドラゴン」「豆腐小僧」は筋書きがしっかり書かれていたので、我々年寄りが見ても映画の内容は分り易かった。
だが、今度の妖怪ウォッチは5つの物語があり、夫々はリンクしていると、後から孫から教えてもらうはめに。
つまり、簡単に言うと、私は物語の流れに付いて行けない。アニメ映画の主人公達はただただ奇声や大声を出すだけで、何を言っているのか分らない。
それで、孫に買ってやったパンフレットを読んで、エンマ大王が何処の場面から出ていたのか、初めて分った。

次回は、「スター・ウォーズ」を年開けに見に行こうとなった。これなら少しは理解できるだろう。
それはそうと、今日(22日)の報道記事に、「動員ランキング『妖怪ウォッチ』が『スター・ウォーズ』を上回り1位に!」とある。
「12月19日、20日の全国映画動員ランキングは、『映画 妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!』が初登場で首位を飾り、
第2位は『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』となった」だそうだ。この世界にはついていけない。

「ミッション・インポッシブル/ローグ・ネイション」を見に行く

2015-08-21 06:42:25 | 映画
ミッション・インポッシブルの第5作目「ローグ・ネイション」を大久保ワーナーマイカルに見に行った。
前作を見たのが2011年の2月だから、4年経っての第5作目。今まで見た中では第2作目が最高に面白かったが、5作目も及第点。
私は昔の「スパイ大作戦」がテレビで放映された時期からのファンだから、あのテーマ曲が流れると妙にワクワクしてしまう。
今度も、テーマ曲が流れだすと、サーこれから始まるぞーと椅子にしっかりと深く腰掛け、次の場面を期待してしまった。

    『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』全てリアル! バイクアクション・メイキング映像
    

序盤にいきなり現れる、テイクオフする軍用機にしがみ付くイーサン・ハント、何度も予告編で見てしまったのでビックリすることもなく、
むしろ軍用機にイーサンを固定している様が外観からもそれとなく判るので、この場面にはさほどのワクワク感はなく面白さもないが、
劇中、実際、本人が直接運転する大型バイクのシーン、BMWで追いかけっこするシーン、水中アクションと、これ等はどれをとっても素晴らしい。
その中でも、第2作同様にバイクシーンは最高に面白くハラハラドキドキ感が長く続いた。
    
それは、イーサン・ハントが謎の女スパイイルサを追ってバイクで超高速バトルを展開するシーンだが、場所の設定も良く、
高低差があって、しかも道は曲がりくねっている路面で、実際にバイクを傾けながら走行するシーン、バイクがクラッシュするシーン
最もエキサイティングな場面が上手に撮影されている。まさに路上での最新戦闘機の戦いをみるようで最高に面白い。

映画を見て思ったのは、物語自体のテンポが速く、登場人物の名前と顔を一致させるのに時間がかかり、全体の流れを把握するのにワンテンポ遅れるし、
映画の物語になんとか付いて行く事が出来たものの、物語の展開の早さについていけない自分の頭の悪さと回転の悪さに年は取りたくないと痛感。
それと、なんだか聞いたことがあると思ったオペラ、ウィーンの国立オペラ座における政府要人暗殺阻止のシーンに演じられていたオペラだが、
中国を舞台したもので、プッチーニの「トゥーランドット」だそうだ。あの荒川静香がオリンピックで演じた曲。
一方、つまらなかった場面は、イーサン・ハントが水中でメモリーすり替えに失敗し女スパイに助けられる場面は、なんだこれは思ってしまった。

でも最も驚いたのは、一番最初のシーンで、パラマウント映画のロゴマークの登場後に、中国の”阿里巴巴(アリババ)”のロゴマークが表れたこと。
この映画はアリババから資金援助を受けて制作した映画だそうだ。


「ジュラシック・ワールド」を見る

2015-08-08 06:26:02 | 映画
   
  「檻から逃亡した「インドミナス・レックス」に、ライフ銃で立ち向かう保安部隊。
   遺伝子組換で最強化した恐竜にライフル銃は全く歯が立たず、全員殺される」

久し振りのジュラシックパーク映画だが、遺伝子操作で作られた新種の肉食恐竜「インドミナス・レックス」が大暴れする。
色んなDNAを組み込まれ人工的に生み出されたモンスター怪獣「インドミナス・レックス」が檻から脱走。
殺した獲物を食べずに、ただただ殺戮を繰り返すだけの残忍な性格で、しかも学習能力が高いと設定されている。
この「インドミナス・レックス」、何処かで見た覚えがあるなと思い出したのは、ハリウッド版ゴジラに外観が何となく似る。
面白いなと思う設定では、主人公の恐竜研究者によって手なづけられている恐竜「ラプトル」の遺伝子も組み込まれているそうで、
このラプソルは同じ遺伝子を持つ「インドミナス・レックス」に味方したかと思うと、あるときは人間に味方し、最後には
最強恐竜ティラノサウルスと組んで「インドミナス・レックス」を倒す等、こんなことがあるのかな?と思いながらも面白い。

映画の印象は言うと、「ジュラシック・ワールド」は悪役「インドミナス・レックス」が縦横無尽に大暴れ、
最後には死んでいくだけの単純な映画だった。
かって見た、「ジュラシック・パーク」の感覚と斬新さを再度期待し「ジュラシック・ワールド」を見たが、
正直な感想はただただ騒々しい映画だった。「ジュラシック・パーク」は恐竜映画のCG映像の素晴らしに、
良く練られたストーリー性もあって、ハラハラドキドキの筋書きで、凄いなと言う強烈な印象があった。
だが、今回の「ジュラシック・ワールド」では、遺伝子を組みこまれて人工的に誕生したモンスター恐竜が
単に大暴れする騒々しいだけ。
そんな中でも、 今回新たに出現した「モササウルス」、餌のサメを一気飲みするの巨大さにビックリ。
最後にはティラノサウルスに負けた「インドミナス・レックス」が「モササウルス」に一口で飲みこまれる場面は圧巻で、
このシーンだけは良くできた印象あり。
   「モササウルス」











久し振りの映画・・・「エクソダス」

2015-02-06 08:18:51 | 映画
久し振りに興味ある映画をワーナーマイカル明石に見に行った。モーゼの「出エジプト記」のお話。モーゼの出エジプト記は過去、チャールトンヘストンの「十戒」を見たので荒筋はよく知っている。なにせ、古代エジプト時代の映画はわくわくするほど面白い。
   「右側がモーゼ、左がファラオのラムセス」
ただ、映画の印象はと言うと、出だしのヒッタイト軍との戦い、モーゼの出生の秘密が明かされるぐらいまでは戦闘シーンも多く大スペクタクルで引き付けられるが、モーゼがエジプトから追放される場面、家族を残してヘブライ人を救いに行くモーゼの苦悩、海が引き潮になって再び津波のように押し寄せる場面、あっさりしたものだった。あえて言えば、かなり以前にみたチャールトン・ヘストン主演の「十戒」の方が遙かにインパクトは強烈。「十戒」が数時間の長編に比べ、「エクソダス」は2時間強だからやむを得ないか。
  

「モーゼと十戒」はあまりにも有名なので、参考に関連情報を「ナショナルジオグラフィックス」から探してみた。

更に、モーゼの行き先を遮る海が突然われる事実については、こんな解説もあり、可能性があるらしい。
 ■「海が割れた 奇跡とは」にはこう書いてある。
 「紀元前13世紀ごろ、エジプトで奴隷として使役されていたヘブライ人たち。旧約聖書によると、彼らはモーゼに率いられてエジプトを脱出、約束の地「カナン」(現在のパレスチナ)を目指した。エジプトのファラオは、彼らを引き戻そうと軍隊を差し向けるが、有名な奇跡はここで起きた。モーゼが手を上げると“海が割れ”、道ができたのだ。ヘブライ人が渡りきったところで海は元に戻り、追いかけてきたエジプト人は溺れて死んだ――。  このエピソードが史実であるとは、にわかには信じ難い話だが、「ワシントン・ポスト」紙によると、すでに現代の科学が謎を解き明かしつつあるという。」


映画「ゴジラ」を観に行った

2014-08-13 06:15:38 | 映画
   「ハリウッド版 ゴジラ」
まさしくゴジラであった。どの角度から見ても我々が親しんだゴジラの顔、姿が出てきた。
怪獣ムートーとの怪獣大決戦で盛り上がり、人類を救って傷つき倒れたゴジラは再び立ち上がり静かに海に潜り去っていく。ゴジラがうす青白い放射熱線を吐き怪獣ムートーをやっつける場面やムートーを前に咆哮する場面、このシーンはワクワクするほど興奮物だった。面白い映画を久し振りに観た。
                   

あらすじは特に演出に凝た場面もなく、至ってシンプル。放射能を食らう怪獣ムートーが日本や米国の都市を破壊しつづける。核エネルギーを喰って成長する怪獣ムートーは日本で核エネルギーを吸収すると、もう一匹いる雌のムートーを求めて米国へ。そこへゴジラが登場する。3匹の怪獣を当時に殺してしまおうと米軍は画策するが、怪獣ムートーを退治できるのはゴジラだけと日本人研究者は言う。米軍は3匹を攻撃するが殺せない。 そうこうしている間に、ゴジラは咆哮しながら2匹のムートーと戦い、苦戦しながらも最後はゴジラの口から放射熱線を浴びせて怪獣ムートーを殺し、また悲しそうな咆哮を吐く。と同時に疲れ果て傷ついたゴジラも倒れる。死んだかと思われたゴジラはやおら立ち上がり、海に向かい、ただただ静かに去っていく。

この映画では、ビキニ沖の水爆実験は、実はゴジラを殺すために米軍が当時使用した兵器だと設定してある。しかし水爆でもゴジラは殺せなかった。で、主役はゴジラかと思っていると、そうではなく怪獣ムートーが映画の主役のように暴れまくり、都市を破壊しまくる。日本の研究所機関がひた隠した存在は、放射能汚染と関係があるかもしれないゴジラではないかとの思わせぶりだったが、そうではなかった。研究機関がひた隠しした、その怪獣は核をエネルギーとするムートーで、もう一匹いるムートーを呼びせるために電波信号を発信していた。
   「ゴジラの巨大さが出ていたシーン」

で、ゴジラはその存在も能力も全く説明がないまま、昔の核実験はゴジラを殺害するための手段だったと言う説明意外に、ゴジラと放射能との関係は全くない。核エネルギーを吸収する怪獣ムートーが出現すると、無条件に戦うために登場したのがゴジラ。なんのためにゴジラが突然出現したのか理解できないまま、ゴジラと2匹のムートーが戦い始め都市が破壊される。巨大怪獣の出現を阻止し、地球上の覇者は自分だと誇示するためだけにゴジラは出現し、ゴジラには何の思想背景もないように見えた。

と言うのは、6日の神戸新聞社説に、「ゴジラ60年が問いかけるもの」として、「ハリウッドのゴジラは核の脅威に対する人類への警笛を受け継いでいる」とか「海底で眠っていた恐竜が水爆実験よって目覚め、日本を奪う。口から吐く放射熱線で破壊され、焼け野原となった東京を人々が逃げ惑うシーン、 平和と原水爆反対のメッセージが明確に示された作品だ。所謂反核運動を訴えたもの」とか「ゴジラが生まれた1954年に自衛隊が発足し、ゴジラから得られた 教訓とは「逆コース」を歩んでいる」と解説があった。・・・ えっ 何のこと?と思った。この社説とハリウッドのゴジラの関係を暫く考えてみたが、どんな関係があるのだろうか。社説の意味するところを全く理解できなかった。数億年前から(化石として発見)怪獣ムートーは存在し、人間が原子力を利用するはるか以前の恐竜時代から核エネルギーを吸収して生きていた。それがフィリピンの山奥から突然目覚め核エネルギーを求め、日本や米国を彷徨う。すると何のために出てきたのかゴジラが突然出現し、怪獣ムートーと戦う。ゴジラは苦戦しながらもやっと勝ち、歓喜する人間達をしり目に再び海に戻るゴジラ。ゴジラは放射能とは全く関係なく、突然現われて結果的に人類を助ける。
ただそれだけの映画だったように思えたのだが。


オリジナル「決断の3時10分」を見た。

2013-09-06 06:38:49 | 映画

   「決断の3時10分」
昨年の3月、2007年版の「3時10分、決断の時」をDVDで見た時の印象を「「最近見たDVD その2: 3:10 to Yuma」に書いて本ブログに投稿した。ところが、この映画にはオリジナルがあることを知り、DVD屋に聞くと置いてないと言う。置いてないと見たくなるのでアチコチ探してみたが、無い。ところが先日のNHKBSで放送していた。映画のストーリーは新作と違う部分も多かったが、オリジナルは新作以上に面白かった。1957年の白黒映画だ。

主演はベン・ウェイド役のグレン・フォード。強盗団の親分ベン・ウェイドを捕まえた町の人たちが、彼を護送して3時10分発ユマ行き列車に乗せるまでをサスペンス調に描く。荒野を疾走してきた駅馬車が強盗団べン一味に襲われた時、走ってきた駅馬車を止めるために牧場主ダン・エヴァンスの牛が使われる。ベン一味に盗まれた牛を追ってきて、うっかりその全てを目撃した牧場主ダンと息子達は牛を取り返すことが手いっぱいで、何の手も打てずベン一味を見逃す父ダン。ここから映画は始まるが、出だしは新作と一緒のストーリー。日照り続きで借金200$の返済も儘ならないダンは、捕まったベン・ウェイドをユマ行き列車に乗せるべく護送役を引き受ける。危険な任務を引き受けたのは、ダンと酒びたりのカウボーイの二人だけだが、他は強盗団に恐れをなしてみんな家に引きこもってしまう。誰も協力者がいない町はゴーストタウンと化してしまったように殺伐とした風景となって、白黒映画のこういう場面はたまらなく良い。その後のストーリーは、駅のあるコンテンションの町へと一気に飛んでしまうが、クライマックスは一時的に借りたホテルから駅まで息詰まるサスペンスが続く。

西部劇にありがちな明快なヒーローと悪役の設定ではなく、どちらかと言えば、ごく平凡な牧場主と悪役間に交される何気ない会話から、悪役ベン・ウェイドの心変り模様が巧く描かれている。新作に比べ、地味な作品だが、牧場主と悪役間の心理的駆け引きは、他の息詰まるほどのサスペンス映画に比べれば劣るが、痛快西部劇の流れの中でみれば非常に面白い。

新作では、牧場主ダンがベン・ウェイドをコンテンションの町まで護送中もかなり派手な打ち合いがあった。
オリジナル映画では、冒頭で銃声が一発響いてからは、最後の撃ち合いに至るまで、ほとんど一発の弾も発射されることなく物語は進んでいく。酒場の女や牧場主の奥さんからも好意を持たれるほど口が巧いベン・ウェイドは、逃がしてくれれば10,000$やるとダンに言う。保護を頼んだコンテンションの町の保安官が手を引き、「報酬は払うから逃げろ」と説得する護送団社長の言葉にもダンは首を縦に振らず、ベンを列車に乗せようとする。心配でコンテンションまで尋ねてきたダンの奥さんの説得にも耳を貸さない、使命感だけの牧場主ダンにベン・ウェイドは次第と友情というか男気を感じてしまう。汽車に乗せられるベン・ウェイドを仲間が取り返そうとするが、ベンは何故か自分から汽車に乗りこんでしまう。走る汽車の中のダンとベンは線路の側で佇むダンの奥さんを見て、敵と味方であるはずの二人が顔を見合わせて笑うその瞬間、何カ月も日照り続きだった荒野に大粒の雨が降る。ここが一番の見どころ。最後に、ベンはユマの牢獄から何度も脱獄したことがあるからと言ってにっこりと笑う。新作が単なる派手な撃ちあいの西部劇だとすれば、オリジナルは開拓時代の男の男気をうまく描いた映画という印象を受けた。こういう映画は良いな!

オリジナルの「予告編

映画を見て、強盗団のボス、ベン・ウェイド役は、ラッセル・クロウよりオリジナルのグレン・フォードの方に好感が持てた。
また、オリジナルと新作との最も大きな違いは、ダンがベンをコンテンションの町まで護送した後、心配になって後を追ってきたのが、オリジナルはダンの奥さんで、新作はダンの息子。誰も引き受けなかった悪党の護送を金のためにと言え、引き受けたダンを、其々に尊敬するシーンが描かれている。新作の息子よりもオリジナルの奥さんの方が、事の成り行きから言えば自然に感じた。と言うのは、南北戦争が終了した当時のアメリカの田舎の生活は困窮を極めており、家庭の中での母親の役割は極めて大きかった。その点でいうと、ダンの最後の仕事を見届けるのは奥さん以外に無いと思った。

例えば、話しは変るが、この映画の頃(南北戦争後)アメリカの田舎の生活がどんなものだったかだいぶ前に調べたことがある。
大自然の中で、貧しくとも家族が助け合って暮らす生活が想像する以上に大変だったか。それにはこのように書いてあった。「農村生活は絶えることのない苦難の連続で、農民とその家族はなんとか食いつないでいくだけでも、1日14時間せっせと働かなければならなかった。 農家のまわりを取り巻くのは、バラが咲いているこぎれいな庭どころか、あるのは牛や馬の糞と堆肥の山だった。 そのために、ハエやダニやさまざまな虫は群れ集まって、人間と家畜のどん底生活をいっそう悪化させた。人々は生きるのに精一杯で、衛生観念など持ち合わせていなかった。 農家の若妻には、夫に劣らない、あるいは夫以上の根気と不屈の精神が必要だった。まさに農耕馬なみの忍耐力である。 何しろすぐに手にはタコができ、背中は曲がってしまうのだから。 顔は苦労でやつれ、それが農夫の悲惨な状況をよく物語っていた。 便利さを考えて井戸は家の近くに掘られた。そして農家自体は、納屋、馬屋、豚小屋、鶏小屋、そして汚水槽の近くに建てられていた。 下水らしきものもなく、井戸水は土に浸み込み、ありとあらゆる有害物質に汚染された。台所から出る廃油、屋外の簡易便所から出る腐った汚物・・・・・」

実際の当時の田舎の暮らしと映画に出てくる牧場主の奥さんを重ねてみると、悪党ベン・ウェイドに食事を出すシーンで、ベンの話に引き込まれている奥さんの表情からも西部開拓時代の苦しさ、貧しさから逃れたいという女の心情が強く出ていた。違ったのは、牧場主の奥さんの顔が綺麗過ぎたことぐらいだが。




盆も明け、「終戦のエンペラー」を見た

2013-08-21 06:29:01 | 映画
   「終戦のエンペラー」
この映画は是非見たいと思っていたので、朝一番に出かけた。戦争映画と言うと、どちらかと言えば、主役は戦闘機だったり、戦艦だったりのドンパチが多い。
だが、この映画は弾一つ飛ばない。太平洋戦争は誰の責任で始めたのかと言う、戦争犯罪者を確実な証拠を見つけてあぶり出す、言わばミステリー映画のようだ。
戦争責任と言う、我々日本人と取ってもかなり重い題材を、当の敵国アメリカからぶつけた映画だったが、戦争から終戦に至る経緯をある程度知っている人には単なるおさらいでしかない。

日本が降伏して太平洋戦争が終わり、連合国軍最高司令官としてマッカーサーが日本に降り立つ。アメリカによる日本占領の始まりだ。
天皇を戦犯とすることで国内での選挙を有利に運ぼうと考えるアメリカ政府と占領軍として日本の統治を円滑に進めたいマッカーサーとの間には大きな開きがあった。こうして映画は始まる。
そのマッカーサーが部下に命じたのは、戦争責任の追及。米国政府からの指示は政治的配慮もあって昭和天皇の責任追求と戦犯指定。
それが米国内のマスコミや国民の強い要求であり、天皇責任を明確にすることで米国大統領の人気をより向上させたいという思惑でもあった。
米国政府の執拗な戦犯追及を背に、マッカーサー本人の思惑もあって米国政府の言いなりにはならない。しかし戦争責任の所在を明確にすべく、10日間で徹底的に調査するよう部下に命じる。
調査を命じられた准将は、日本の内情、天皇の存在を有る程度理解しており、西田演じる日本軍の大将から、日本には本音と建前があるので、本音を確りと聞きわけるようにと聞かされる。
昭和天皇に戦争責任はあるのか。口の堅い政府や宮中の聞き取り調査は難航し、また現人神の天皇に対する日本人の接し方をあって、戦争を始めたのは誰だかわからない。
天皇の戦争責任はなかったとする回答は見いだせず、むしろ天皇の戦争責任はあるとする結論に至る。一方、マッカサーは「日本を復興させたい」という思いがある。

近衞文麿前総理は、日本の戦争責任を問う准将に対し、「日本は欧州列国の侵略過程を踏襲しただけだ。アメリカもフィリッピンを侵略した。
欧州列国のとった侵略と日本の侵略との差異はない。日本は列国の侵略戦争を見習っただけ」と詰め寄るが、米国准将は一瞥もしない(近衞の発言は核心を突いているが弱い)。
そうこうする内、木戸幸一自らGHQに乗り込んで、天皇が戦争を止めるのに果たした役割を述べる。
「太平洋戦争終結の最終裁断は天皇が下した。戦争継続か回避かの御前会議の票は3:3、天皇が最終決断し戦争が終了した」と。
マッカーサーは天皇に会いたいと言う。そして、マッカーサーと面会した天皇は「戦争責任はすべて自分にあるから、どんな責めも受ける。だが日本国民を守って欲しい」と言う。
戦犯になる恐れもあって何人かの内閣や宮内庁の要人の曖昧な証言の後に、この言葉が出た瞬間、当時の戦争終結に至った経緯が全て読み取れた。
天皇に戦争責任があるとする明確な結論には至らなかったが、この戦争を終わらせたのは天皇であると結論づけた。

昭和天皇がマッカーサーと面会する場面は最大の見せ場だと思うが、木戸幸一自らGHQに乗り込むに至るまでの過程は総じてだらだらとしており、退屈だった。
日本人にとって、戦争終結の最も重要な歴史的場面だから、もう少し息詰まるような展開が見たい。御前会議に至るまでの陸海軍や政府の葛藤は、実際はかなり息づまる展開だったはず。
そこを描いてほしかったのだが、歴史に興味がない人には特段のアクションなどがあるわけではなく、また米人にとっても敗戦国の内情など興味もなく、厳しい映画なのかもしれない。
先日、神戸新聞の映画欄に、プロデューサーの女性日本人(名前を忘れた)がこう説明していた。「米国は韓国、ベトナム、アフガン、イラクと全て占領政策に失敗し、成功したのは日本だけ。
そのことを殆どのアメリカ人は知らない。だから、なぜ日本では成功したのかということをアメリカ人に知ってほしかった」
何処が優れていたから、戦後の日本は混乱なく復活したと言いたいのだろう。

あらすじ:
「 1945年8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が日本に上陸。彼は日本文化に精通している部下ボナー・フェラーズに、
 太平洋戦争の真の責任者を探し出すという極秘任務を下す。わずか10日間という期限の中、懸命な調査で日本国民ですら知らなかった太平洋戦争にまつわる事実を暴き出していく。
 ついに最大ともいうべき国家機密に近づくが、彼と敵対するGHQのグループや日本人たちの一団が立ちはだかる」


■話しは変るが、今までに読んだ、太平洋戦争関する書籍で、「失敗の本質」と猪瀬直樹著:空気と戦争」は大変参考になリ面白かった。
「失敗の本質」では、日本軍が太平洋戦争に負けた敗因を詳細に分析している。
特に、米軍は戦争を通じて合理的に勝利する方法を学び(例えばタスクフォースは真珠湾奇襲から米軍が考案した)、
能力主義に徹した人事等を採用したのに比べ、日本軍は情緒的な判断やその場の空気をどちらかと言えば優先したとある。
また、「空気と戦争」では、当時の膨大かつ詳細な資料をもとに戦争に至る経緯を纏めている。読んだ印象を本ブログに投稿したものの一部を再稿してみた。
「昭和16年10月に第3次近衛内閣が総辞職したあと、大方の予想に反して東條に天皇から組閣の大命が下った。
その理由は、陸軍に睨みのきく東條ならば、日米戦争を回避できるのではないかと、天皇がひそかに思ったからだ。天皇はあきらかに日米が戦うことを嫌った。
天皇の勅旨を遇直なまでに守るべしとする東條首相は陸軍大臣、総務大臣を兼務しながら、如何に戦争を回避するべくか悩んだ。
陸軍の満州からの撤退が日米戦争回避の外交手段と考えられていたが、陸軍は「中国に散った死者10万を犬死させて良いのか」、
その10万も日露戦争当時からの戦死者の大雑把の数を盾に戦争止むなしと主張し続けた。(結局、10万にこだわり太平洋戦争では300万の戦死者を出したのだが)

東條首相は戦争回避のための決断材料として石油確保量の「数字」にこだわり、戦争をやるかやらないかもう一度議論をすることになった。
その数字というのが実際は大変な「くせ者」で、日本が戦争突入に有利になるような数字が次第に出てくるようになる。
周囲の空気で、そう言った数字を出さざるを得ず、戦争を回避しようと苦慮していた東條首相は周囲の戦争ムードを押し切ることができない。
昭和天皇の元へ戦争決定の報告を行った時に、天皇の戦争回避を守ることが出来ず途中で泣き出してしまったそうだ。
 
数字を出してきた部署も、議論をしていた政治家も、「戦争をする」という空気の中で話し合いをしているので、データに現実感がなくなっていた。
その場の空気に従わざるを得ないデータを出すしかなかったと書かれている。その辺あたりを、その数字を提出した当時の企画院総裁が戦後、インタビューで次に様に話している。
「僕は腹のなかでは、アメリカと戦争をやって勝てるとは思っていなかった。(略)実際アメリカと戦争するのは海軍、陸軍は自分でやるんじゃないから腹は痛まない。(略)
 やるかやらんかはと言えば、もうやることに決まっている。やるためにつじつま合わせのために数字を出した。
 海軍は一年もすると石油がなくなり戦争はできなくなる。今なら勝てるかもしれないとほのめかすので仕方ない」
 
当時の政府や陸海軍幹部のだれもが戦争に勝てるなどとは考えもしなかった。戦争突入を支持したのは、メディアからの一方的情報しか得られない一般市民だけだった。
東條は天皇の臣下として、天皇の意向は絶対であったが、天皇の意向を無視しても東條は戦争を決断しなければならなかった。なぜか。空気が戦争回避を許さなかったとある。
結果的に、日米開戦は日本人ほとんど全員の総意に変り、何人たりとも、戦争を回避できなかった。太平洋戦争を振り返る場合、この空気が何よりも重要であったと著書は繰返し述べている。
太平洋戦争は軍部が独裁的に推進し、国民は被害者であったと教えられてきたが、日米戦争やむなしの空気を醸しだしたのはほかならぬ日本国民である。
朝日新聞をふくむメディアは雪崩式に戦争支持にまわり、ほとんどの日本人は日米戦争を望んでいたと結論づけられている。」