しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高瀬舟唄(高梁川)

2023年01月23日 | 民謡

歌詞の下品さが、この仕事のつらさを、よく示している。

 

(高梁川 2022.5.9 新見市)

 

 


・・・


「流域をたどる歴史六」  豊田・藤岡・大藤編 ぎょうせい 昭和54年発行

川船による物資輸送としての欠陥は、
河川の流水量の不安定による川船就航の制限、
流域水田への灌漑用水確保のため農業用水井堰を閉鎖することである。
このために高瀬船就航は多くの制約をうけた。

 

春船と秋船
高梁川の高瀬船は、
春船は旧正月より湛井井堰がしめきられる5月末日頃までである。
秋船は湛井井堰が開かれる旧9月下旬より旧12月31日までである。
春船の最初の出船をハツフネ、秋船の最期の船をオトフネという。
一年を二区分にした高瀬船の運航方法は、全国河川でもとられた方法だと思う。

 

川堀り
高瀬船が冬季に安全迅速に運航できるには、
たえず河川水路の管理および維持を図らねばならなかった。
このため川堀りは、川船生業者にとっては欠くことのできない義務であった。
「川堀りは秋にやる。
金テコや大きな鍬で川をさらえる。
秋の大水がなくなった頃、2~3度、
川堀りをしたあと県庁の役人集が船に乗って船路を検査し、合格すれば賃金をくれる」
と大正中頃の成羽川の川堀りを回想して古い船頭は、語ってくれた。

 

運賃積みと買荷積み
積荷は高梁川の水量によって決定される。
上水、中水、下水という水深がある。
水量によって積荷を加減する。
運賃積み
問屋の積荷を運送して運賃・日当を問屋、商店からもらう。
収入が一定する。
買荷積み
船頭自身の金で積荷を買い込んで売り込む。うま味と損害がある。

 

操船
船頭の仕事は、大変な重労働である。
下り大名といわれるのと違い、
高瀬船の曳きあげ労働は苦しいものである。
下るときはオモテノリ(前に乗る親方船頭)とカジトリ(船の後ろに乗る船頭)だけの二人で操船することもある。
しかしナカノリの三人が多かった。
川を上るときには、1~2人の綱曳き船頭をやとう。
親方船頭は、
水棹をもって自由に高瀬船を操船するのが条件でもあった。
風の吹き方、急流での水棹のつっぱり方、水棹さばき、川の水量と流れ方の特徴をよく見てのみこまなければならぬ。

 

ツナヒキ船頭と曳綱
川船労働のきびしさは、高瀬船の曳き船作業のきびしさにまさるものはない。
高瀬船運航日数の大半は、高瀬川を遡航することに人力と日数をかけているわけである。
ツナヒキ船頭は、高瀬船に曳綱をつけて曳きあげる仕事をする船頭である。
高梁川の曳船を必要としたのは、河川の中、上流地帯である。
曳綱が水につかると凍りついて重くなる。
作業中は、立ち小便もできない。
呼吸を合わせて曳綱をひっぱるのである。
浅瀬、井堰では棒をつき入れてかtくぁぎあげて越すのもツナヒキ船頭の作業である。
冬でも素手、素足でアシナカをはいて高瀬船を曳きあげる。
汗をかくので冬でも褌ひとつで「よいしょ、よいしょ」と掛け越け声をかけて高瀬船を曳きあげた。
賃金は高いものではないが、農閑期にはかけがえのない収入であった。
そういった三、四十年前の庶民の歴史のひとこまが河川水運にとどまらず、
いま消え去ろうとしている。


・・・・

(成羽川 2015.5.21 高梁市川上町)

 

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

高瀬舟唄

 

鉄道が開通するまで交通機関の代表は高瀬舟であった。

長さ六間以上、幅二間の底の浅い舟に、

薪炭・米・雑穀などを2.000貫くらい積んで川を下った。

また、上りにも

乾物や海産物など多い時には4~500貫も積んで川を上った。

 

川を上る時には、五、六隻の舟を繋ぎ、それを引いて上がるのである。

舟の乗組員は一艘三人で、上りの時には一人がサオ、

他の二人が前綱と後綱を引く。

綱は片方の岸から、大綱といって麻でなった細い綱で引く。

綱引きを川猿といって、猿が歩くように四つ這い姿でじわりじわりと引き上げた。

唄はこの時、綱引をはげますために船頭が歌うもので即興のものが多かった。

 

(高梁川・水江の渡し 2013.10.2 倉敷市)

 

 

総社市

ヨッペネー ソーラヨー

赤いやつを出してヨー

洗濯しとるぞー

ヨッペネー ソーラヨー

前があいとるよー

うなぎが飛び込むぞー

ヨッペネー ソーラヨー

娘さん赤いやつをヨー

隠さんでもええぞー

 

新見市

ヨーイヤナー ソーリャヨー

向こうから娘が三人通るヨー

傘がじゃまだよ 風が吹かんかヨー

ヨーイヤナー ソーリャヨー

この瀬を越したら かかあが待ってるぞー

赤いやつを出してナー

ヨーイヤナー ソーリャヨー

オーイおかあ 今もどったァー

間男をいなせヨー

 

・・・

矢掛町史 民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

高瀬舟の唄

 

高瀬の船頭えー 一升飯食べて

五合ぐそたれてやはぁー

二・

庄屋の娘の紅そでー

村百姓のなみだ金ー

・・・

 

 

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「大原美術館」には入れなかった | トップ | 高瀬舟唄(旭川) »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (killy)
2023-01-23 21:29:28
小堀遠州は、備中の鉄、銅、和紙を連島まで運び、そこから上方へ送り、経済活動で大名にまで出世しました。
それで「遠州は高梁川を整備改修したであろう」と発言しましたら、博物館長は「そういう記録はない」と。 
記録が無いなら「小堀遠州が頼久寺の庭園を作庭したという記録もありません」と返しましたが、マスコミは館長の説を取り上げました。
返信する

コメントを投稿

民謡」カテゴリの最新記事